猟犬は傅く(6)
柳沼Ⅰ
開けっ放しにしていた窓から心地よい風が吹いてきて、白いカーテンを揺らした。
爽やかな花の香を孕んだ風はそのまま室内にいる柳沼の肌を撫でて、どこかに消えていく。
「――……、寝てしまったのか」
柳沼はダイニングテーブルに突っ伏してうたた寝してしまっていたことに気付くと、ゆっくりと体を起こした。
窓の外は夕焼け色に染まりかけている。
小野塚は今日も帰りが遅くなると言っていたから、夕飯の準備を急ぐ必要はない。
柳沼は寝乱れた前髪を撫で付けながら、すっかり冷めてしまったミルクティに手を伸ばした。
淡い夢を見ていたようだ。
詳細には思い出せないけれど、漠然と、小野塚のゆりかごのような腕に抱かれているような気がした。夢の中だから、概念でしかない。小野塚の優しい眼差しを注がれていたような気もするけど、それも具体的じゃない。
言葉を交わすと言うよりは、考えていることがそのまま水と砂のように馴染み合うような、そんな感覚だった。
他愛もない夢だ。
しかし心はひどく穏やかで、四肢の先までほんのりと暖かく染み渡るような幸福を感じる。
こんな夢ともつかない夢を見たのは、まだ体に小野塚の感触が残っているせいかもしれない。
抱きしめられて眠るのなんて今に始まったことではないし、最近は帰宅するなり片時も離してくれない時だってある。いい加減にしてくれない、と柳沼が怒ったようにしてみせてようやく離れてくれるものの、小野塚は半分本気で柳沼をずっと抱きしめていたいと思っているようですらある。
まさかあの小野塚が、モトイより手がかかるようになるなんて思ってもみなかった。
小さい頃はひとつしか違わないのに柳沼よりずっとお兄さんで、小野塚とずっと一緒にいたいと思っていたのは柳沼の方かと思っていたのに。
「……、」
それでも、柳沼は困ったように溜め息を吐きながら寝ても覚めても同じ夢の中にいるような不思議な感覚に慣れ始めてきていた。
こんな身分不相応の生活がいつまでも続くなんて思うのはおこがましいと、ずっと思っていたはずなのに。
今は、ずっとこうして過ごすことができたらと願っている。自分の幸福を望めることが、既に幸福なのだと思う。きっと小野塚も柳沼と一緒に生きることを望んでくれていると、信じることができる。
柳沼はミルクティの入ったカップを空にすると、その傍らに伏せた灰色の封筒を手にした。昨夜、小野塚が持ち帰ったものだ。
中には十数枚の報告書と、数枚の写真が入っていた。
――『芦名つばきの捜索結果について』。
探偵社に同様の報告書を貰うのはこれでもう三つ目だ。数年前行方を眩ませた女性の行方は、生死を含め明らかになっていない。事件性があるなら警察にも口利きをすると小野塚は言ってくれているが、事件性の有無すら、まだわからない。
柳沼は芦名つばきなんていう女性を知らない。
知っているのは、いつも薄暗い店内で甲高い声を揚げて笑っていたツバメという女性だけだ。
病的なまでに細い体にたわわな胸を揺らして、両腕に自傷の跡を重ねていた。その下には、注射の針の跡が。それでも彼女はずっと溌溂と笑っていたし、あの狭い地下室のような店の中で飛んだり跳ねたり、笑ったり怒ったりと柳沼には目障りなくらいだった。
それでも、彼女にはあのままでいて欲しかった。
最後にツバメの姿を見たのは能城の自宅だった。その時にはもう柳沼は薬を手に入れるために能城の自宅を訪ねていくことも仕方なしと思っていた。
ツバメはそこで、まるで家畜のように飼われていた。柳沼を見ても反応も示さない。生きているのか死んでいるのかさえわからなかったし、柳沼はずっと目を背けていたから、確かめようとも思わなかった。
いずれ自分もこうなるのか、と思うと鳥肌が立った。
いっそこうなってしまえば何もかも考えなくて済むのかもしれないとも思った。しかし能城が柳沼にそれを許すはずもない。柳沼には使用目的があって、それを達成するまでは殺してももらえないのだ。
今にして思えば。、ツバメは柳沼を引きつけておくための餌だったのかもしれない。
もしそうならば、柳沼が茅島殺しを失敗した時点で、ツバメの命だって――……。
「ッ……!」
柳沼が力を込めると、手の中で乾いた音をたてて封筒が皺を刻んだ。
生死がわからない以上、彼女が死んだなどとは思いたくない。しかし、死んでいたほうがマシだと思うような世界もある。
能城のマンションの床で全裸のまま横たわっていたツバメは、柳沼が顔を逸らしていたことをわかっていただろうか。まるで意識もなかったらいっそ良いのに。
柳沼はツバメを傷つけた。何度も何度も、助けるチャンスはあったかもしれないのに。
もし彼女が今もどこかで生きているのなら、それを詫びることができるなら。
柳沼の手の届くところにいるとも思えないけれど。