猟犬は傅く(5)

椎葉Ⅲ

「迫、……」
 聞き覚えが全くない名前とは思えない。
 しかし、どこで聞いたことがあるか瞬時に思い出せなかった。どこかの組の構成員だろうか。だとしたらひどく末端の組員だろう。仕事で日頃触れている名前だったら、すぐさま思い出せる自身が椎葉にはある。
 末端の組員が椎葉を知っていたとして、こんな気安く声をかけてくるとは思えない。
 自然、椎葉は訝しい顔をして男を仰いでいたのだろう。椎葉に歩み寄ってきた細身の男は、途中で気圧されるように歩を止めて、苦笑を吐き出した。
「やっぱり覚えてないか。和光で一緒だったんだけど」
「っ、!」
 椎葉は思わず息を呑んだ。急に気まずさが募ってきて、背筋にじわりと汗をかく。
 司法修習時代、迫は椎葉と同じクラスだった男だ。それどころか、寮で隣の部屋を借りていて、椎葉にしては珍しく、比較的交流があったはずだ。
 それは、迫が椎葉を気安く呼び止めても不自然ではないくらい。
「ご、――ごめん……、覚えてるよ」
 ばつが悪くなった椎葉が視線を伏せると、迫の快活な笑い声が頭上から聞こえた。
 そういえばこの笑い声には聞き覚えがある。
 修習時代、球技大会はおろか飲み会にも積極的に参加しなかった椎葉に、迫はよく話しかけてきた。講義の内容について、出された課題について、情報の交換をすることは椎葉にとっても有意義だから有難いことだと思っていたが、迫はその他にも椎葉を気の置けない友人と勘違いしているのじゃないかと思うような節があった。
 やむを得ず出席できない講義について情報を呉れるようなことならまだわかるが、法曹実務に関わるために必要とは思えない球技大会の好プレーまで聞く必要はない。
 それでも迫は、椎葉にそれを嬉々として話してきた。椎葉が黙って聞き流していても。
 そのくせ、椎葉にどうして参加しなかったのか、次は是非参加して欲しいとも言い出さなかった。
 迫の行動が解せない椎葉がその旨を伝えると、迫は決まってその長身を揺らして、今のように椎葉の頭上で快活な笑い声を飛ばした。
「何言ってるんだ、同じクラスの仲間だろ?」
 迫はそう言って、椎葉の肩をポンと叩いただけだった。
 同じクラスと言ったって司法研修ではひとつのクラスに七〇人を超える生徒がいて、それも前期と後期をあわせても半年ほどしか同じ空間を過ごすことはない。
 情報共有、勉強、将来のコネ作りのために交流が必要だということは講師が口を酸っぱくしていたが、どれも椎葉には大して重要だと思えなかった。
 他人を拒絶するつもりはなかったが、迫のようにみんなと仲良くする必要も感じなかった。椎葉も異端な修習生だっただろうが、迫もまた異端だった。
「迫は、検事になったんだったな」
 眼鏡の中央を指先で押し上げながら椎葉が言葉を継ぐと、一瞬、迫の笑い声が止んだ。
 顔を上げると、迫は驚いたように目を瞬かせていた。
 浅黒い肌に、短く切り揃えられた髪。溌剌とした爽やかな様子は、ともすれば椎葉よりも若く見える。その上、椎葉と違って迫は昔から表情が豊かだ。
「……椎葉が覚えてたなんて、意外だな」
 椎葉をまっすぐ見下ろした迫が、ぽつりと呟くように漏らした。
「それは、……迫は、クラスでも一番優秀だったから」
 それまで椎葉は、学業で他人に遅れを取ったことがほとんどなかった。特に何かに追い立てられていたわけではないが、弁護士になるためにはわからないことがあってはならないと思って、机に齧り付いてきた。
 かくして早々に司法試験を突破できた椎葉は、司法研修所で最も若い生徒だった。大学では優秀だと持て囃されたものだが、研修所では同じようなレベルの人間が全国から集まっている。その中でも、迫は目立って優秀だったように見えた。
「そうでもないよ。ディベートで椎葉に丸め込まれたことだって少なくないし」
 迫は腕を緩く組んで、首を竦めた。
 その襟元に、秋霜烈日のバッヂはない。もっと早く気付くべきだった。椎葉は眼鏡を抑えながら、見ていないふりをした。
「……そんなのはお互い様だよ。それに迫は、起案が早いので有名だったし」
 修習時代を思い返して言葉を返すと、迫はまた笑い声を上げた。それに関しては否定しないらしい。
 迫の起案は講師が今まで見たことないと舌を巻くほど早くて、それでいて優れていた。早く終わらせて飲みに行きたいだとか、徹夜できない体だからだとかふざけた理由をつけていたことを、椎葉はよく覚えている。
「椎葉は希望通り、弁護士になったんだよな」
 ひとしきり笑った迫が言うと、椎葉ははっとした。 
 司法修習を終えたその足で自分の事務所を構える弁護士が、全くいないわけではない。しかし珍しいことは確かだ。それを根掘り葉掘り聞かれるのは、避けたかった。
 椎葉は思わず、慣れない立ち話になんて興じた自分を恥じて胸中歯噛みした。
 堂上会の顧問弁護士になったことは恥じるようなことじゃない。自分で決めた選択だ。隠したいとも思わないが、面倒だ。
「今度、俺も弁護士として事務所を構えることになってね」
 肩を強張らせた椎葉の肩を、迫がぽんと気安く叩いた。昔と同じように。椎葉が自然と顔を上げると、迫は「そうだ」と小さく呟き、手にしていた鞄からシンプルな名刺入れを取り出した。
「なんかあったら、先輩として相談に乗ってくれよ」
 はい、と恭しく名刺を取り出されて椎葉は面食らった。
「――先輩、だなんて、そんな……」
 自分はそんな器ではない、と思いつつも、わざとらしく頭を下げた迫を見ていると面映い気持ちになる。
 迫にとってはごく普通のことなのかもしれない。懐かしい顔を街角で見つけて、同じ辛苦を舐めた同級として親しく話しかけることは。それも、今となっては同業者だ。
 相談なんていうのがただの世辞でこれから先会うようなことなどなかったとしても、ほんの束の間、昔を懐かしむような立ち話ができるなんて。
「……ありがとう」
 椎葉は迫の真新しい名刺を受け取ると、自然と笑みが零れた。
 礼を言うようなことじゃないかもしれないが、なんだか嬉しく思えた。修習時代が楽しかった記憶もない。迫のことは覚えているけど、それ以外を思い出せるわけでもない。懐かしみたくなるような過去でも、思い出したくもない過去でもない。それでも、椎葉はなんだか嬉しかった。
「――椎葉、なんか変わったな」
 名刺を手放して顔を上げた迫が、眼を丸くして椎葉の顔を見つめた。
「そうかな」
 受け取った名刺をしまって椎葉が首をひねると、迫が破顔した。
「ああ、昔はもっと表情が硬くてとっつきにくい感じだったけど――」
 そう言う割に、迫は椎葉に気安く話しかけてきたほうだ。そう言い返す前に、迫が双眸を細めて意味神に笑った。
「……結婚でもした?」
「っ!」
 瞬間、椎葉は顔に朱が登ったのを自覚した。脳裏に茅島の寝顔が過ぎる。結局昨夜は茅島より先に失神してしまって、目を覚ました時には茅島がいなかったのだから、寝顔を見たのなんてもうずっと前なのに。
 結婚という言葉で連想したのが茅島の寝顔だなんて、それだけで椎葉の顔が熱くなるには充分だ。
「図星?」
「ま、――まさか……! さ、迫こそ、どうなんだ」
 まさかということもないだろう。身を固めていたっておかしくない年齢だ。椎葉は道理に適わない言葉を吐いた自分の心臓がバクバクと大きく打っているのを掌で押さえて、迫をちらりと窺い見た。
「修習時代俺が香苗と付き合ってたの覚えてる? 検察に入庁してすぐ籍を入れたんだけど、一年で離婚しちゃって、それっきり。まあ今となってはそれで良かったのかもって思うけどね」
 香苗という女性も覚えていない椎葉には、曖昧な相槌を打つことしかできなかった。それを離婚に対する反応だと誤解されたのか、迫は慌てて両手をひらりと振って、苦笑を浮かべてみせた。
「ああほら、検事として安定した仕事を続けるならともかく、突然弁護士として個人事務所を構えるなんて、奥さんは心配だろうし、――って、いや、ごめん、椎葉のことを言ってるんじゃなくてさ」
 墓穴、と自分で呟いた迫が椎葉の肩に手を置いて大きく項垂れた。
 思わず、笑いがこみ上げてくる。迫が言いたいことはわかる。実際、真理だ。弁護士事務所を構えるなんてギャンブルに近いといっていい。イソ弁として大手事務所に勤めるならまだしも、突然独立なんて。
「わかってるよ」
「いや本当、違うんだって。俺のクライアントがちょっと特殊でさ。まあ俺はそれを理解して受けてるけど、家族がいるとなると――」
 なお取り繕うようにまくし立てた迫が顔を上げた、その時。
「あれ? せんせー」
 不意に声がして、椎葉はぎょっとした。
 迫の背後、大通りの道向こうから顔をのぞかせたのは、モトイだった。
「何してんの。買い物?」
 白く色の抜けた髪に、破れたジーンズ。車の往来が激しい道を我が物顔で横断してくるブーツには、思い足音が響いている。どう見たって、普通の知り合いには見えないだろう。
 声に振り返った迫にどう説明しようかと、椎葉は一瞬で肝を冷やした。と同時に、モトイの存在を隠したいと思った自分を恥じる気持ちもあった。
 モトイは――過去に何があったにせよ――茅島の大事な組員だというのに。
「荷物重いの、うちのに運ばせようか」
「あ、あの――……」
 自分でタクシーを拾うから、心配いらない。そう言って別れることは容易だが、緊張で舌が重くなる。
 それでなくてもモトイは苦手だ。モトイを見ると、茅島を傷つけられたことを思い出してしまう。
「ていうか」
 道を渡ってきたモトイが、不意に声を低めた。と思うと椎葉の前の迫を爪先から頭の天辺まで舐めるように見た。
「っ!」
「アンタ、誰」
 モトイくん、と口を挟むのが一瞬遅れた。
 モトイの牙をむき出しにした狂犬のような眼差しに射抜かれて、迫は面食らったように一歩退いた。
「モ、……モトイくん。彼は私の古い友人なんだ。偶然会って、立ち話をしてただけ。危ない人じゃないよ。弁護士仲間なんだ」
 咄嗟にモトイと迫の間に入った椎葉が迫を背後に庇うと、モトイが眉根を寄せて怪訝そうに椎葉を見た。
 椎葉は震えそうになる体を、呼吸を詰めることでなんとか堪えながらモトイを見返した。モトイがまだ茅島を殺したいと思っているのかどうかは知らない。しかし茅島がまだモトイを手元に置いているというのは、茅島がモトイを信用すると決めたということだろう。
 それならば、椎葉もモトイを信用するしかない。しかし、モトイの機嫌を損ねでもしたら迫のことまで守れるかどうか自信はない。茅島は今、連絡を入れてもすぐに助けに来てはくれないだろう。
「ふーん。……ま、いいけど」
 すん、と犬のように鼻を鳴らしたモトイが片目を細めると、椎葉は肩に入っていた力を抜いた。
「椎葉? 彼は――」
 迫が、背後から窺うように声を上げる。
 もう、隠しきれるものでもないだろう。椎葉は眼鏡を抑えて大きく息を吐くと、モトイを一瞥してから迫を振り返った。
「クライアント先の従業員だよ。――暴力団構成員なんだ」
 肚を決めた椎葉が迫をまっすぐ見返して言うと、迫が小さく息を呑んだのがわかった。