猟犬は傅く(4)

椎葉Ⅱ

「……茅島さん?」
 グラスを傾ける手を止めて茅島の顔を伺うと、弾かれたように茅島が顎先を震わせた。
 さっきから、少しも食事を摂る手が進んでいない。
「すみません、何の話を――」
 取り繕うように弱い笑みを浮かべた茅島は、とうとうナイフとフォークを手放してしまった。
 久しぶりに時間が取れたと茅島が事務所を訪ねてきたのはつい一時間前のことだ。椎葉は茅島からの連絡を受けてからずっと気もそぞろで、最近は定時を過ぎて残業することもある安里を早々に帰した。 
 しかし久しぶりに会った茅島の顔には疲労が色濃く、少し痩せたようにも見えた。
 食事もろくに摂っていないのだろうと踏んだ椎葉は有無を言わさず茅島を食事に連れ出したが、逆効果だったか。
 店についてもずっとこの調子で、少し話題が途切れるとじっと一点を見つめたまま、物思いに耽るように押し黙ってしまう。見る人が見ればその姿も凄みがあるのかもしれないが、見慣れた椎葉にとってはまるで美しい置物のように見えた。
「茅島さん、今日は早く休みましょう」
 テーブルを挟んだ茅島の頬に、手を伸ばす。
 半個室になっている店内には、人の目はない。しかしそれでも茅島の神経は張り詰めているように感じる。
「ああ、あなたをベッドに誘う話の途中でしたか」
 茅島の手が椎葉のそれをそっと握って、頬擦りするように肌を寄せたあと唇を押し付ける。今まで数えきれないほど重ねた唇に改めて指先で触れると、椎葉の背筋が疼くように熱くなった。
 もう一ヶ月近く、この唇に溺れていない。
 茅島と初めて気持ちを交わした日から、こんなに離れている時間が多いのは初めてのことだ。最初のうちこそ、いつか茅島は自分の貧相な体に飽きてしまうだろうと思っていたのに、今でも茅島は椎葉を求めてくれているようだ。
 今だってきっと、そうだ。
 ここのところ忙しくて、なんていう言葉が椎葉との関係を遠ざける口実だったら、どんなにか良いとさえ思える。椎葉を抱く気が失せただけで茅島が本当は今まで通りの生活を送っているのなら――こんなことは、茅島を信じきった椎葉の驕りかもしれないが――それでいい。
 しかし目の前にいる茅島は実際やつれたといって良いほど疲れていて、椎葉が指先を滑らせた唇も乾いている。
「違いますよ。……今日は私の隣で、安心して眠ってくださいと言っているんです」
 椎葉が笑ってみせると、茅島は視線を伏せたまま舌先を覗かせ、椎葉の指を舐った。指の側面を絡めとり、爪の間までざらついた舌を這わせる。
「……っ、」
 椎葉は下唇を噛んで、顔を伏せた。
 茅島の手は、椎葉に振りほどけないほど強い力じゃない。それでも、椎葉は茅島の舌の上で指先を震わせることしかできない。
 レストランのテーブルを囲んでいるだけでも心が浮ついて、茅島の顔を見つめているだけでも頭がぼうっとしてくる。同じ空気を吸って、他愛のない会話をしているだけで胸が締め付けられるように嬉しくて、指先が触れ合うだけで幸せなのに。
 この会えなかった一ヶ月の間、カラカラに乾いてしまった椎葉の心を満たすように茅島を感じる。
 別にそれは、セックスをしなくたって充分満足できることだ。茅島が疲れているなら休ませてあげたいし、食事を摂れていないならしっかり食べてほしい。
 それなのに、こんな風に煽られてしまうと、どうしていいかわからなくなる。
「あなたが隣にいて、安心して眠れるわけがありません」
 低い声で、茅島が呟いた。
 それがどういう意味なのか、椎葉は尋ねることを躊躇った。
 これがなんでもない時ならば色っぽくも聞こえただろう。しかし今は、とてもそうとばかりは感じられなかった。茅島にはそのつもりもあったかもしれない。椎葉にそう感じ取ってほしくもあるだろう。だから、椎葉は茅島の緊張には気付かないふりをしてやり過ごした。
 椎葉と一緒にいても、茅島の心は今、戦場にある。
 それは椎葉が茅島の状況をわざわざ聞かなくても、感じ取ることができるくらいに。


 
 椎葉が翌朝目を覚ますと、既に茅島の姿はなかった。
 一人寝の夜なら仰向けになって眠っていられるが、茅島が泊まった晩だけ横向きになって眠る椎葉のベッドの隣の空白には、まだ温もりが残っているような気がする。気がするだけだ。重い体を起こして時計を見上げると、もう九時を回っている。
 茅島が今トラブルを抱えていなかったとしても、とっくに会長との散歩に出掛けていて、いないはずだ。
 今日は祝日で、安里も出勤してこない。椎葉はだらしないことと判っていながらももう一度ベッドに突っ伏すと、茅島の残り香を探すように目を瞑った。
 茅島は昨晩、ついぞ一言も椎葉に近況を漏らすことはしなかった。
 堂上会の定例は翌月頭に迫っている。傘下の組からあらゆる法律相談が上ってきているとはいえ、所詮椎葉は外部の法律相談員に過ぎない。茅島が今何に巻き込まれているのか知りたいなどといえば、カタギが何を勘違いしていると一蹴されて終いだろう。
 茅島と生きる世界が違うことを悔しいと思ったことがないといえば嘘になる。しかし、茅島の仕事のすべてを知ってどうするというのだろう。
 必要があれば椎葉には茅島を支える覚悟がある。茅島だって椎葉を信じてくれているだろう。それでいいと、何度も覚悟を決めてきた。
 茅島は今、何が起こっているのか椎葉に教えてはくれない。それは、まだ聞くべきじゃないということ、ただそれだけだ。
「……――、」
 椎葉は自分に言い聞かせるようにそう思い直すと、大きく息を吐きながら寝返りを打った。
 茅島の体を少しでも休ませてあげたいと思ったが、結局椎葉の部屋にもつれ込んで抱きしめられると、そうなってしまった。一度火がつくと椎葉も茅島を求めることしか考えられなくなって、茅島が少しでも眠ることができたのかどうかさえわからない。
 夜明け頃に茅島の腕の中で気をやって、気付いたらこの時間だ。
 椎葉は己の浅ましさに頭を抱えて、もう一度大きく息を吐いた。
 それでも、女性の体と比べて大して面白味もないだろう自分の体を貪ることで茅島が少しでも気持ちを満たすことが出来るなら。肉体的に休めることはできなくても、心を癒すことができたなら、それでいい。
 もっとも、癒されたのは椎葉の方かもしれないけど。
 椎葉は茅島から乱暴に吸われた首筋に掌を伏せると、幸福を噛み締めるように目を瞑り、大きく深呼吸した。


 以前なら、椎葉の休日といえば朝のうちには事務所に戻ってしまう茅島が昼食に誘ってきたり、そのまま椎葉の家で昼寝をしたりすることも少なくなかった。
 いつもというわけではないが、椎葉はいつ茅島が連絡してきてもいいように、休日ほど身綺麗にしていたような気がする。久しぶりに怠惰な休日を過ごしてみて始めて、そう気付いた。
 最近茅島が会えないからといって平日は就業後も仕事をしているし、休日にやるべき仕事もない。
 休日なのだから休め、と人は笑うかもしれない。しかし、椎葉は休日の休み方を知らない。
「ありがとうございましたー」
 結局昼頃までベッドの上で微睡んでいた椎葉は、ブランチの食材を求めて散歩がてら、一駅先のスーパーに向かった。
 茅島は会長と散歩を欠かさないし、いざという時機敏に動けるようにトレーニングもしているようだ。しかし椎葉はデスクワークだし、昔から運動というものをしない。
 昔は寝食を忘れて勉強に没頭していたが、今は茅島と高級料理を摂ることもままある。
 昨日は特に何も言われなかったが、この先一ヶ月、二ヶ月かかるかもしれないが茅島のトラブルが落ち着いた頃、久しぶりに会った椎葉が太っていたら茅島は幻滅するかもしれない。
 そう奮い立たせて遠出したは良いが、思いの外買い物をしすぎてしまった。
 暫くは茅島も夕飯を食べに来てはくれないだろうに。椎葉は両腕に下げた紙袋を見下ろして、小さく息を吐いた。
 寂しさを買い物で埋めるなんて、男のくせにみっともない。
 瓶詰めが椎葉の指先に負担をかけているようだ。椎葉は店を出たところで潔く諦めると、大通りでタクシーを拾うことを決意した。
「椎葉」
 椎葉が大通りに出てタクシーの姿を探していると、不意に耳慣れない声が飛び込んできた。
 一瞬、自分の名前を呼ばれたとも思わなかった。だいたいそんな風に椎葉を呼び止める人なんて、知らない。
「……椎葉だよな? 俺、覚えてないかな? 迫だけど」
 振り返ると、スーツ姿の男が椎葉を見下ろして、微笑んでいた。