猟犬は傅く(3)

安里Ⅰ

 17時32分。
 薄汚れた貸しビルの四階、何の看板もかかっていない扉を二回のノックの後押し開くと、数人の組員が詰めていた。
「こんにちは」
 一斉に向けられた視線に臆することなく安里が腰を折ると、組員たちが互いに顔を見合わせた。ざっと見たところ、安里の知る顔はない。相手も安里を知らないということだ。
 珍しいことではない。安里は茅英組の構成員ではないし、彼らに興味もない。
 今までは水曜のこの時間に安里が訪ねてくることを柳沼が知ってくれていたが、彼がいない今、事情を知らない組員と鉢合わせすることは初めてではなかった。
「何の用だ?」
 ソファに掛けていた大柄な男が、ゆらりと立ち上がった。凄みはないが、他者を威圧しようとする意志は感じられる。
 昔の安里なら、逃げ出していただろう。
 学生の頃は、他人から注視されることでさえ恐ろしかった。居心地が悪くて、どうか無視して欲しいと毎日毎時、祈るような気持ちでいた。無視されてさえいれば、いじめられることもないのだから。
 ただのクラスメイトにさえ怯えていたのに、こんなヤクザの人間に凄まれたりしたら膝が震えてまともに立っていられなかったかもしれない。
 今となっては、どうということもない。
 ここが茅英組だからという安心感ではなく、安里が変わってしまったせいだ。
「茅島さんとお約束が」
 不躾に室内へ歩を進めることもなく安里が告げると、組員たちがまた顔を見合わせて、それぞれに安里を訝しむように見た。
 彼らの困惑が手に取るようにわかる。
 安里はどこからどう見てもやくざ者ではないし、柳沼のような切れ者にも見えないだろう。茅島が椎葉に入れ込んでいるという話を組員がどこまで知っているかわからないが、安里を弁護士に見間違えることも難しい。茅島の管理している店の従業員ならば店名を名乗るだろうし、彼らも多少は顔を見知っているだろう。
 つまり安里は、不審人物ということになる。
「一体どんな約束で?」
 慇懃無礼と呼ぶには失礼が過ぎる口調で尋ねてきた大柄な男が、安里に歩み寄ってきた。
 モトイはいないのか。モトイがいれば、話は早かったのに。安里が室内に視線を走らせて息を吐くと、男の手が安里の顎先に伸びてきた。
「!」
 さすがはやくざ者というべきか。単純に安里が喧嘩慣れしていないせいかもしれない。さっきまで大きな体を重そうに揺らしていた男が急に俊敏な動きで安里を捉えたので、思わず息を詰めてしまった。
「聞こえなかったのか? ウチの組長に、何の用事かって聞いてんだよ」
 安里の細い顎に、男の太い指が食い込む。
 視線を伏せると、男の手には空手ダコがあるようだ。喧嘩は強いのだろう。リーチも長いし、他の組員と比べても胆力の強さが透けて見える。
 でも、茅英組は長くないようだ。新しく雇われた用心棒か何かなのかもしれない。
 安里はついと視線を上げると、男の顔をまっすぐ見据えた。男は安里を睨みつけている。
 もう、恐ろしくはない。どんな人間に凄まれようとも、下手をすれば殴られるかもしれない状況でも。
 昔は殴られる痛みが恐ろしかった。人に嘲笑されるのが怖かった。誰の言うことでも聞いたし、この世界は地獄だと思っていた。でも違った。殴られる痛みより嘲笑される苦痛より、もっとひどい地獄に、今、安里はいる。
 藤尾のいない世界。
 この地獄から助け出してくれるなら、モトイの暴力も救いだと思える。
 もっとも、今安里の顎を掴んでいるこの男はモトイほどの苦痛を安里に与えてくれることはなさそうだ。
「そんなことをあなたにお話する筋合いはありません。茅島さんに呼ばれてきました。安里が来たと、茅島さんにお伝え下さい」
 茅島は部屋の奥の、扉の向こうにいるはずだ。安里が水曜のこの時間に訪ねてくることがわかっていて、事務所を開けていたことはこの六年間で一度きりしかない。
 その一度がなければ、安里はモトイと出会うこともなかっただろう。
「テメエ、生意気だな」
 室内に詰めていた他の組員が唸るように言った。
「組長にお目通しさせるには、それなりの挨拶ってもんが必要でね。どこの誰だかも名乗れない奴を、ハイそうですかと通すわけにはいかない」
 確かにその通りだ。
 彼らが安里を知らないことに罪はない。知らない以上、安里は追い返されても仕方がないことだ。モトイに連絡を入れて、出なおすべきか。安里は小さくため息を吐くと、わかったと答えようとした。
 しかしその瞬間、掴まれた顎を引き寄せられて安里は足元をふらつかせた。
 不自然に顎を上げさせられた格好から頭を掴まれて部屋の中に引き入れられる。声を上げる間もなかった。足をもつれさせた安里が事務所の床に転ぶと、複数の男の爪先が目の前に迫ってきた。
「まあ、わざわざ来てくれたんだ、タダで帰すってのも……なぁ?」
 男たちの下卑た笑い声が頭上に聞こえる。
 茅島は留守なのだろうか。そうでもなければ、事務所でこんなことを組員にさせるはずがない。
 安里は抵抗するでもなく、諦めたように肩で息を吐いた。気晴らしに嬲られるのでも、辱められるのでも、構わない。安里は茅島に指定された曜日の指定された時間に事務所を訪れただけだ。
 ただ、もし安里がこの男たちに何かされている最中にモトイが帰ってでも来たら、面倒なのではないかと漠然と思った。
 しかし、安里が他人に何かしら――暴力でも、陵辱でも――されているのを目の当たりにして、モトイがどんな反応をするのかは実際のところよくわからない。
 面白がって参加するのか、あるいは。
 安里にはモトイのことはわからない。
 面倒なことになるのは、安里の方かもしれないと思った。
「怯えてんのか? オイ」
 事務所の床を見下ろしてぼんやりとした安里を恐怖で竦んでいるとでも勘違いした男が、安里の髪を掴んだ。ぐいと引き上げられて、顔を覗き込まれる。
 男の鼻の骨は歪んでいた。何度も骨が折れた痕なのだろう。
「いえ、別に……」
 怯えているとしたら、彼らに対してではない。
 あの時藤尾と一緒に死んだはずの安里を怯えさせたのは後にも先にも、モトイだけだ。どうしてモトイなのか知らない。モトイが安里にとって何なのか知らない。安里がモトイにとって何なのかも。
「テメエ何もんだ? 鉄砲玉ならもー少し頭を使えよ」
 鉄砲玉。 
 安里が胸中で復唱している間に、不意に背後から男の腕が回ってきた。
「っ、」
 反射的に振り返ると、安里の後ろにしゃがみこんで男が安里の衣服を剥ぎ取ろうとする。抑えても、男の腕力には敵わないだろう。やはり、慰み者にされるのか。安里は視線を伏せた。
「今帰った」
 その時、扉の開く音とともに茅島の声が飛び込んできた。
 顔を上げた安里と、茅島の視線が交錯する。
 久しぶりに見る、茅島の野獣のような目。安里は即座に、事情を察した。
 茅英組は今トラブルを抱えているのだろう。おそらくは、能城絡みの。そこへ安里のような男が訪ねてきたものだから、警戒されたのだ。
「……お前ら、何をしてる」
 地を這うような低い声で、茅島が呟いた。
 これが茅島でなかったら、いくら怯えることを知らない安里でもぎくりとしていたかもしれない。それくらい冷たい、低い声音だった。
「あっ、す、……すいません、不審人物が組長を訪ねてきたので、身体検査を、」
「それは俺の友人だ」
 視線を外した茅島が、安里に背を向けて自室へ向かう。
 遠目でもわかるほど全身の神経が張り詰めている。こんな茅島を見るのは久しぶりだ。
「わかったら安里から手を離して、俺の部屋に通せ」
 茅島が言うまでもなく、男の手は勢いよく安里から離れていた。のろのろとその場で立ち上がろうとすると、手も貸してくれた。
 さっきまで大上段に構えていた男たちがうっすらと汗ばむくらいに怯えているのがわかる。
「――今後、安里に失礼な真似をしてみろ。俺がお前たちをどうするかの保証はしない」
 自室の扉を開いた茅島は肩越しに自分の部下を振り返ると、鉈のような鈍い刃を振りかざすように言い添えた。


「……今朝出勤した際は机で眠っておられましたので、火曜の晩はそのままずっと仕事をされたいたものと思われます。今週は、以上です」
 安里はこの椎葉の一週間の動向を一息で読み上げて、手帳を閉じた。
 茅島は一度も口を挟まず、黙って聞いている。
 このところ茅島が椎葉を訪ねる回数が減ったことには気付いていた。椎葉を見ていれば容易にわかる。溜息の回数が増え、まるで逃避するように仕事に打ち込んでいる。そんなことまで茅島に伝える義理はないから黙っているが。
 安里に課せられているのは、椎葉の行動を、安里の知る限りで報告することだけだ。
「わかった。ご苦労」
 机の上に肘をつき、指を組んで視線を伏せていた茅島は毎週の決まりきった文句を吐いて息を吐いた。
 安里の報告など、聞いていたのかどうか定かではない。もしかしたら頭の中は今抱えているトラブルのことでいっぱいなのではないか。それを安里にどうこういう筋合いはない。しかし。
「茅島さん」
 いつもは黙って部屋を立ち去る安里が口を開くと、茅島が驚いたように視線を上げた。
 時折、無防備な表情をする男だ。安里が彼の敵ではないから、油断しているだけなのかもしれない。
「いつまでこんなことを続けさせるおつもりですか」
「なんだ、珍しく無駄口を叩いたかと思えば。今の仕事に不服か?」
 茅島が笑う。
 しかし口元に笑みを浮かべただけで、眼は笑っていない。
「所長はもうあなたのものです」
 茅島が椅子を軋ませて、背凭れに身を預けた。首を竦める仕草も、どこか作り物めいて見える。
 さっき、茅島は安里のことを「友人」だと言った。しかし正確には安里は、茅島の友人の情人でしかない。そして彼の友人は、もういない。
「いつまでこうしているつもりですか」
 安里はシャツの中に隠した傷をぎゅっと握り締めるように胸を抑えた。
「安里」
 焦るな、いつか機会が来る。その時まで、決して焦るな。――茅島は安里の傷が癒えるまでの間、病室でずっとそう繰り返してきた。それは、茅島自身に言い聞かせていたのかもしれないと思うほど。
 しかし、今となっては――
「藤尾さんのことを、忘れたんですか」
 茅島が、昏い瞳をギラリと光らせた。覚悟はしていたつもりの安里でも、思わず震えが走るような目付きだ。しかし、そんなものでは誤魔化されない。
 安里は静かに茅島の覇気が剥き出しになった視線を見つめ返した。
「安里。俺は、お前を守り抜くと藤尾に約束した。俺は、あいつとの約束を違えたことはない」
「守られたいなんて思ったことはありません」
 茅島の眉尻がぴくりと震えた。
 しかし、それきりだった。茅島はそれ以上口を開くことはなく、安里もそれきり踵を返した。
 茅島の部屋の扉を開くと、さっき安里を嘲笑った組員たちが安里の顔色を窺うように一斉に頭を下げて見送ってくれた。安里は彼らを一瞥もせず、エレベーターへ乗り込む。

 守られたいだなんて思ったことはただの一度もない。
 藤尾のいないこの世界に長く生きたいなんて少しも願っていないのだから、当たり前だ。