猟犬は傅く(27)

エピローグⅣ

 大きな口がぱく、とフォークに食らいついた。
 フォークの先に突き刺されたふわふわのスポンジケーキと艶かしいホイップクリームが跡形もなく姿を消し、わずかばかりの咀嚼のあと、またすぐに十文字の前のショートケーキは切り崩された。
「うまい!」
 フォークを持っている手と、持っていない方の手を振り上げた十文字は今日も上機嫌だ。
「それは良かった」
 辻は十文字たっての希望である紅茶を淹れながら、半ば胸焼けしながら言った。
 ケーキには紅茶だろ、というのが今日の十文字の主張で、この間はケーキにはコーラ、という辻が顔を顰めたくなるような主張だった。
「これさ、高来組のシマにあるケーキ屋さんだろ? ウチであのシマもらえないかなー」
「無茶言うな」
 確かに高来組は組長以下準構成員に至るまで甚大な被害を受けた。建てなおすのは難しいかもしれない。そうなるように潰したのは他でもない辻と瀬良だ。
 高来組は能城の流したクスリを売り捌いてシノギにしていた。閑静な住宅街で客なんかいるものかと思うが、今時は主婦もクスリを打つらしい。
 博徒が博打以外を打つなと辻は呆れたが、とはいえ高来組は堂上会にとっては由緒ある第一次団体だ。その看板を汚す行為こそいただけないものだが、看板を奪い取ろうなんて思ってはいけない。
「そしたら毎日このケーキ食えるじゃんね」
「ケーキ屋の有無でシマを変えるなよ」
 えー? と言って笑う十文字の左手側に紅茶を差し出す。それから、砂糖のたくさん詰まったポット。どうせいつもの通り砂糖を大量に投入するのだろうが、それじゃケーキの間に口をさっぱりさせることはできないと、辻はいつも思う。
「辻ー、次チョコレートケーキ!」
 組長専用革製の椅子をギシギシと軋ませながら十文字が両手の拳で机を叩いた。
「はいはい」
 これで今日のケーキは三つ目だ。
 あと二つ食べたら、今日のおやつは終了だな。辻は気を引き締めて、チョコレートケーキを差し出した。おやつの打ち切りを告げるタイミングはいつも緊張する。他の組にカチコミに行くよりもずっと。
「で、能城はどうなったって? あ、これ超うめえ」
 十文字は何故か左手の指先を舐りながら、ケーキに視線を落としている。辻は十文字の机の正面に立ちながら、茅島の言葉を思い出していた。
「今は入院してるようだ」
「入院?」
 十文字の視線は辻を向かない。
 辻は十文字の明るい髪に視線を落としながら、眸を細めた。
「ああ。まずはクスリをきっちり抜いて、それから落とし前をつけさせると、茅島さんが言ってた」
 薬物で高揚状態を維持したままの能城の体は痛みも恐怖も感じない。それならば、体と精神を正常な状態に戻してやることで自動的に恐怖を覚えるだろうと茅島は淡々と告げた。
 おそらく茅島だけの考えではなくて、小野塚の提案のおかげもあるだろう。
 確かに現実はどうあれ、本人に罪の意識がないまま殺して差し上げるのは辻も反対だった。
「現実わかってきたら逃げ出す心配は? その後の落とし前って具体的にはどんなん? もう除名はされてんの?」
 やはり、十文字はケーキを食べる時に左手も使っているようだ。
 フォークを口に運ぶ回数よりも、逆の手を舐めている方が多い気がする。
 さっきまではそんなことがなかったから、今はあまり正常な状態ではないのだろう。能城の話なんてしていたら当然か。
「小野塚が用意した病院で、完全に拘束して療養させるようだ。助けに来るような構成員も残ってないしな。自殺対策もしてある。その点は小野塚を信用するしかない。薬が抜けるまでどれくらい時間がかかるかわからないが、その後の対応は一度堂上会でも、小野塚を交えてでも、話し合う機会があるかも知れない。タコ部屋に送り込んでもいい、と誰か言ってたかな」
 辻はほとんど茅島に言われた通りの報告をしながら、十文字の手元をずっと見つめていた。
 フォークを握る手が不安定なせいで、ケーキがゆらゆらと倒れてしまうのだ。だからもう一方の手で支えて、手についたクリームをその都度舐めとっている。チョコレートケーキは嫌いではないはずだが、あまり進んでいないようだ。
「除名は既にされていて、近々除名通知も回ってくるはずだ」
 ふーん、と十文字はまるで興味ないことのように鼻を鳴らした。
 深くうつむく代わりにケーキに集中していて、少しも辻を仰ごうとしない。
 またケーキが皿の上に倒れた。もう残りが少なくなっていて、再びケーキを起こすよりは倒したまま食べたほうがいいのに、十文字は左手を使ってそれを起こそうとする。
 辻は十文字の机に手を突くと、身を屈めた。
 唇をむっつりと噤んでケーキと格闘している十文字の顔を掬い上げるように覗き込んで、鼻先をすり合わせるようにして口端を短く吸い上げる。
 瞬間、十文字が猫のような目を丸くして、瞬いた。
 黙って身を起こした辻の唇にはチョコレートクリームの味が移っている。辻にはこれだけで充分すぎるほど、甘い。
「……何、急に」
 びっくりしたぁ、と胸を抑えて椅子に凭れた十文字は辻の顔を仰げるようになっている。
「いや、特に意味は」
「えっちしたいの?」
 事務所には二人きりだ。灰谷は自宅で療養を余儀なくされているし、瀬良はその付き添いで休んでいる。
 しようと思えばできないこともないが、そういう意味じゃない。
「そういうわけじゃないよ」
「つかお前のえっちしたい時ってどんなん? あんまり俺としたくないの?」
 フォークを振り回しながら尋ねたかと思えば、十文字は皿の上に残っていたチョコレートケーキを一口で平らげてしまった。
 それを見下ろすと、辻は思わず笑いそうになって、緩む口元を掌で覆い隠した。
「そんなことないよ。お前以外となんてしたくない」
 真顔を取り繕おうとする辻とは対照的ににんまりと笑みを浮かべた十文字が、手に持っていたフォークで辻の体をつつく。
「えー、じゃあしたいの?」
 そのフォークが――恐らく深い意味はなく、高さ的にそうなっただけかもしれないが――辻の股間のあたりを刺激するので、辻は十文字の机の前から後退った。
「今は違う」
 抱きしめたいのと、抱きたいのは違う。
 しかし辻は皆まで言わず、首の後ろを掻いた。汗ばんでいる。
「ふーん……」
 空の皿にフォークをカランと投げ出した十文字が、椅子に体を沈めて呟いた。
 視線は紅茶のカップを見つめているが、まだ熱そうで飲めないでいるのだろう。冷ましてやろうかと辻が言いかけた時、十文字が視線を伏せたまま唇を開いた。
「言っとくけど、俺、別に泣かないからね」
 まるで拗ねたような唇がおかしくて、辻は小さく笑うと黙って紅茶のカップに手を伸ばした。カップの側面に掌を当てて、温度を確かめる。十文字の猫舌にはまだ熱いかも知れない。
「そうだな、大人だしな」
「うん」
 辻はもう一度笑う代わりに、紅茶の表面を吹き冷ました。
 十文字はしばらくぼんやりと机の上を眺めていてから、ふと気付いたように辻を仰ぐと、砂糖のポットを開いた。
「辻! 砂糖が先だろ」
「あ、……ああ、悪い」
 慌てて受け皿にカップを戻すと、十文字が砂糖をスプーンに三杯、五杯と投げ込んでいく。
 それを眺めながら、辻はムカムカしてくる胃をぐっと抑え込んだ。毎日のようにこの所業を見ているのに、未だに慣れない。
「――あとさ」
 砂糖を十一杯入れたところで、十文字の手が止まった。
 そのスプーンを受け取って、辻が紅茶を掻き混ぜる。これは溶けるまで時間がかかりそうだ。
「菱蔵組も、別に辞めないから」
「そうか」
 辻は紅茶の水面に映った十文字の顔に視線を伏せたまま、小さく肯いた。
 十文字の家族を喪う原因を作った能城に敵を討てば、十文字はもう極道に縛られる理由もない。
 元はといえば極道者に家族を奪われたんだから極道を憎んでいてもいいはずなのに、その世界に身を置き続けることは十文字にとって苦痛なんじゃないかと思っていた。
 能城が片付けば、十文字がいつもの調子で「もうやーめた」と言い出しても良いように、辻は無意識に心の準備をしていた。
 自分勝手な話だ。
 十文字が組長を辞めても、自分の傍から離れてしまうわけではないのに。今は、どうしようもなくホッとしている。
「今はここのヤツらが俺の家族だしねー」
 家族辞めるとかないっしょ、と十文字は明るい声で言って、椅子の背凭れをギィギィと軋ませている。
 怪我をして入院している組員たちにも聞かせたいような台詞だ。手に負えない無法者が多いし、極道が何なのかってことをわかってないようなガキばかりだが、十文字を慕う気持ちだけは充分すぎるような、良い組だ。
 砂糖をあらかた溶かし終わった辻がスプーンを持つ手を止めて視線を上げると、こちらをじっと見ていたらしい十文字と目が合った。
「十……」
「辻、俺と子供でも作るか」
 できるかなー、とケーキで膨れた腹をさすりながら十文字が真剣な面持ちを浮かべると、辻はがっくりと項垂れながらも、小さく笑った。