猟犬は傅く(28)
エピローグⅤ
「茅島さん、お怪我はありませんか?」
離れていた時間を埋めるようにひとしきり抱き合った後で、椎葉は不意に茅島のスーツの上を撫でると、まるで持ち物検査をする警察官のように茅島の周りをぐるりと回って確認し始めた。
「ええ、大丈夫ですよ」
茅島がもう少しあの廃ビルに到着するのが早ければ、もっと組員を守れたかもしれないと思う。しかし今回の成り行きを親父に逐一報告すれば、だからお前は駄目なんだと説教を喰らうことだろう。
組長は自分の城に座して、動いてはならない。それが親父の言い分だった。その点に関しては、残念ながら十文字のほうが組長然としているのかもしれない。
部下を信用できないわけじゃないが、結局茅島は自分で動くのが好きなのだ。
しかしそれもそろそろ改めなければいけないらしい。茅島のスーツについた小さな疵も見逃すまいと真剣な面持ちで確認している椎葉を見ていると、そう思う。
瀬良を鍛えたように自分の兵隊もきちんと訓練させて、茅島が直接戦場に出向かうことがないように。
そうすれば椎葉に心配させることも減るだろう。
「譲さん」
茅島は椎葉の肩をそっと抱き寄せると、茅島が知らない間にいったい何度泣かせたか知れない頬を撫でた。自然と、椎葉が顔を仰向かせる。茅島の手でよく調教された、扇情的な表情で。
「……もう、ずっと一緒にいられますか?」
囁くようなか細い声で、椎葉が尋ねた。
椎葉の揺れる瞳をもっと間近で見たくて、眼鏡を外す。
椎葉は擽ったそうに首を竦めながら大人しく眼鏡の弦を耳から外すと、眼鏡を摘んだ茅島の無骨な手に頬擦りするように顔を寄せた。
「ええ」
能城から挑発を受けることが多くなって以来、椎葉と過ごす時間も少しずつ短くなっていた。それももう、今日で終わりだ。
「茅島さんに嫌われなくても、いいんですよね?」
眼鏡を外して伏せられた睫毛が、涙を堪えるように震えている。茅島は堪らずに、その目蓋に唇を落とした。
「……っ、!」
弾かれたように顔を上げた椎葉が掻き抱くように茅島の首に腕を回してきて、唇を奪われる。
今まで椎葉がこんなに激しく自分から口付けをしてくることなんてなかった。それだけ、寂しい思いをさせてしまったのだろう。
思いがけない行動に一瞬戸惑った茅島は、すぐに椎葉の背中を抱いて椎葉の唇を押し開くように舌をねじ込んだ。
「ん、は……ぁん、ん……」
鼻を鳴らしながら何度も顔の向きを変えて唇を交差させ、茅島の舌に自分のそれを擦り寄せてくる椎葉が爪先で伸び上がっていることに気付くと、茅島は椎葉の腰を抱いてカウチに移動した。その間、唇を解くことなく。
「ぁ、……っふ・ん、あ、……茅島さ、……っ」
上顎の裏にくちゅくちゅと音を立てて舐めてやると、椎葉は茅島に抱かれた背筋をゾクゾクと震わせながら首を反らす。息をしゃくりあげるついでに唇が離れてしまうだけでも、その隙間を惜しむように椎葉は茅島の名前を切なげに呼んだ。
「……あなたを嫌いになんて、なれるはずがありません」
カウチに身を沈めた茅島が、膝の上に椎葉を抱きあげて瞳を覗きこむと、椎葉は茅島の唾液に濡れた唇を小さく噛んだ。
「じゃあ、もう二度とあんな意地の悪いことを言わないでください」
椎葉の震える声は、今にも泣きだしてしまいそうだ。しかし表情は茅島のキスにすっかり蕩けていて、悲痛な泣き顔というよりは情欲に溺れているように見える。
「すみません」
口先で詫びて、戯れに椎葉の唇を啄む。
あの時は、茅島の特別な人間だというだけで椎葉が狙われる可能性もあった。茅島が力を入れた店が燃やされたように、椎葉の事務所に火でも付けられたらと思うと気が気じゃなかった。
しかし今にして思えば、それだけの理由で椎葉にあんな非道い言葉を吐いたわけではないかも知れない。
「――……少し、ヤキモチを妬いていたのかも知れません」
茅島の知らない椎葉の過去を知っている、迫に対して。
茅島が正直に告げると、椎葉が目を瞬かせた。
「おかしいですか?」
あどけない表情を晒した椎葉の頬に掌を滑らせて、耳の後ろから髪を梳いていく。
椎葉は感じ入るように「ふ」と短く息を吐きだして唇を弛緩させた。もしかしたら、笑ったのかもしれない。茅島の大人げない嫉妬に。
しかし椎葉が茅島を笑ったのかどうかは結局わからなかった。その唇を、もう一度長いキスで奪ってしまったから。
「――……次に菱蔵組の件ですが、初犯になるように若い構成員に自首させることができれば何とか出来ると思います」
堂上邸の小さな和室で、椎葉は堂上会長と対峙していた。
椎葉が片手のメモを読み上げても、会長は眠っているのか起きているのか、微動だにしない。
さすがに大量の被害者を出した抗争の後で、読み上げることが多すぎる。会長も退屈してしまったのかもしれない。ほとんどはまた後日定例会で同じ内容を読み上げることになるのに。
「被害人数は決して少なくありませんが、実際亡くなった方に関して言えば、犯人は割り出せないので」
灰谷の仕事は完璧だ。
被害者がやくざ者であろうとなんだろうと、殺人があったとなれば警察は捜査に乗り出してくるが、ほとんど証拠らしい証拠を残さない。それがかえって灰谷の仕業であることを裏付けているが、推定無罪だ。
社会通念、法規定の中で灰谷を裁くのは難しい。
しかし堂上会内で灰谷をどうするかは、法や常識の関与するところじゃない。
理由はどうあれ、同じ組織の中で若頭に与するというだけで派閥の人間を武力で黙らせた罪は、重いだろう。
それは会長の一存で決まることだ。椎葉は押し黙ったままの会長の顔を窺い見た。
「――能城は、あれで可愛いところのあるやつだったんだよ」
不意に会長が乾いた唇を開くと、椎葉は弾かれたように背筋を伸ばした。
無駄口を叩けるような間柄ではないのに、淡々と報告を読み上げなかった自分を恥じるのと同時に、能城の名前を聞いて胸を打たれたように感じた。
「ウチに入った頃は、やっと自分の居場所を見つけたみたいにのびのびとしていてな……それがあいつを、逆に意固地にさせたのかも知れん」
会長の口調は、能城の失墜を悼んでいるように思えた。
茅島たちにとっては許し難い仇であっても、会長にとってはかけがえのない若頭だったのだろう。椎葉は唇を噛んで、視線を伏せた。
「しかしあいつを叱責できなかったのは、俺の責任だ」
詰めていた息を吐いて、会長が頬杖をついていた体を起こした。
「お前にも迷惑をかけたようだな。すまなかった」
神妙な面持ちでそう言って、畳に手をついた会長が深々と頭を下げる。
「っ――……! そんな、会長……止めてください、頭を」
椎葉は思わず手にしていた手帳を弾き落として、会長の肩に手を伸ばした。胸がざわざわと騒いで、苦しくなる。
能城を許すことはできないが、会長と能城の間にあった絆もきっと本当だったのだろう。若頭の除名通知を認めた会長の心中を思うと、気持ちが塞ぐ。
「あいつがシャブに手を出していることに気付いていて、それでも若衆を任せっきりにしていたから被害が大きくなったんだ。本当なら、俺が腹を斬るべきことだ」
「そんなこと――、」
椎葉はさっと血の気が引いて掌に冷たい汗が滲んでくるのを感じた。
思えば、これは会長の弱音なのかもしれない。
まさか定例会の席で頭を下げることはないだろう。全面的な非を認めれば、本当に腹を斬ることを唆されかねない。能城がいなくなったとはいえ、堂上会を我が物にしたいと思う輩がいなくなったわけじゃない。
言わばこれは椎葉が部外者で、極道者じゃないからこそ吐ける、弱音なんだろう。
それでも、心臓に悪いことには変わりない。
「しかし能城が除名した今、若頭補助もほとんど潰されているしな……」
しばらくして頭を上げた会長、唸るような声で吐き出した。
能城は自分にとって都合のいい人間だけで身の回りを固めていた。若頭補助も三名ほどいたが、どれも灰谷の手によって亡き者になっている。
「――俺はそろそろ、茅島に任せようと思ってる」
「!」
思わず目を瞠って会長を仰いでから、椎葉は慌てて顔を伏せた。
たかだか送迎をしてもらっている、世話になっている茅島が若頭になるというだけで動揺しすぎてはおかしい。そう思うのに、心臓が急激に早鐘を打ち始める。
茅島が若頭になるなんて、考えてもいなかった。だって今まで定例会でもずっと末席に座っていたし、茅英組はまだ茅島が初代で他の組に比べたら日の浅い組だ。椎葉には若頭の選定基準なんてわからないけど、でも。
もし本当に茅島が若頭になったら、お祝いをしてあげたい。あんまりはしゃぐのもおかしいかもしれないけど、椎葉は茅島がどんな顔をするのだろうと思うと顔が綻んでくるのを止められない。
多分茅島のことだから、会長に対しては神妙な面持ちを崩さず「謹んでお受けします」と静かに頭を下げるだけだろう。それでもその姿を想像するだけで目眩がしてきそうだ。
我ながら、重病に侵されていると感じる。茅島に対する恋の病に罹患してから、病状は悪くなる一方だ。
「しかし、若頭は激務だぞ。今回みたいな抗争でもあろうものなら、不眠不休で陣頭指揮を取らなければならないし、俺の代わりに理事職を勤めてもらうこともある」
今以上に忙しくなるということか。
それでも、茅島の昇進を喜ぶ気持ちに変わりはない。
椎葉が畳の上の拳を握り直してから、ふと会長の顔を仰ぐと、会長は声もなく笑っていた。
「せめて俺の散歩の相手を他の人間に任せることにするか」
肩を震わせて笑う老人を前にして、椎葉は言葉に詰まった。会長が何を笑っているのか、一瞬、理解に苦しんだ。
まさか、と思いつつそれを確かめることもできない。
「それとも、あんな狭いビルじゃなくもっと大きなマンションにお前の事務所を移して、そこに茅島も住まわせるか」
「……っ、会長!? 何を……」
椎葉が震えた声を上げると、会長が我慢しきれなくなったように快活な笑い声を上げた。
瞬時に、耳が熱くなってくる。
「何、この世界じゃ養子をもらうことなど珍しくもない。実際に俺と茅島の間にも血縁関係はないしな。跡取りなんざいくらでも用意できる」
椎葉はもはや二の句が告げなくなって、熱くなった顔を隠すように深く俯いた。
一体いつから会長に知れていたのか、考えるだにこの場を逃げ出したい衝動に駆られる。
堂上会長を、本当の父親に重ねて見ていた。
だからこそ、茅島との関係をこんな風に黙認されることは椎葉にとって泣き出したくなるくらい幸福なことだ。
今はただ、気恥ずかしいだけだけど。
「おい、大征。先生がお帰りだ」
押し黙ってしまった椎葉を笑いながら会長が声を上げると、すぐに茅島が廊下を渡ってくる跫音が聞こえる。
茅島に今の会話は聞こえていたのだろうか、あるいは、茅島は会長に気付かれていることを知っていたのか。それとも、茅島から会長に話したのか。
茅島との帰り道、尋ねたいことが多すぎる。
いっそのこと少し遠回りしてゆっくりと帰りたいくらいだが、今日は安里が退院してくる日だ。そうゆっくりもしていられない。
椎葉はそわそわと浮き足立つ気持ちを会長に悟られないように押さえ込みながら、和室を鎖した障子から茅島が顔を覗かせるのを待った。
「お待たせしました」
やがて静かな声とともに茅島が姿を現すと、椎葉は未だに変わらず胸を締め付ける、その凛とした容姿に目を奪われた。
会長がその様子を見ていることも、暫し忘れて。
「茅島。先生をまっすぐ送り届けるんだぞ。不埒な所へ寄り道をしないようにな」
「っ、会長!」
椎葉が立ち上がって制すと、茅島は事情を飲み込めずに目を丸くしていた。
茅島のBMWは滑るように路を走っていく。
今は助手席に乗り込むのが当然になっているが、一時期は頑として後部座席に座っていたこともあった。茅島が椎葉を強引に抱いて、暫くのことだ。
今となれば笑ってしまうような意地だったと思う。
あんなことをされて茅島を許せないと思えば、タクシーで帰ることだってできたのに。茅島の車に乗り込む以上、また同じことをされたって文句は言えなかったはずだ。
茅島と同じ車中にはいたくて、自分があの時のことを怒っているんだと伝えたい、まるで子供のような意地だった。
「私から会長に話したということはありませんよ」
ハンドルを握って嘯く茅島の横顔は、なんだか嬉しそうだ。
椎葉だって、嬉しくないわけじゃない。ただ、居た堪れなくなるほど恥ずかしいだけだ。
「まあ、会長が何をもって確信を得たかはわかりませんが――恐らく、疑いを持った原因は、わかります」
「なんですか?」
椎葉は肩にかかったシートベルトを握りしめて、身を乗り出した。
それを茅島がちらりと一瞥すると、目の前の信号が黄色を点し、やがて赤になった。
茅島の顔を覗きこんだまま椎葉が答えを待って見つめていると、茅島が唇を震わせて笑い出した。
「そんな無防備な顔で見つめないでください。あなたを何処ぞへ攫ってしまいたくなる」
会長命令で禁止されているのに、と茅島が笑い出すと、椎葉は困惑して自分の頬を掌で抑えた。
そんなこと言われても、茅島の前で無防備じゃなかったことなどないように思う。初めて会った時から。
茅島には何でも委ねることができるし、自分の何もかもを奪って欲しいと思う。視線も、心も、躰も、何もかも。今だって事務所に帰らなければいけないと思いながらも、心のどこかで茅島が強引に椎葉を攫ってくれたらいいのにと思ってしまう。
「――……あぁ、」
きっとその無防備さが、他とは違って見えるのかもしれない。
「おわかりになりましたか?」
茅島は面白がるように椎葉の顔を窺って、己の頬を抑えた椎葉の手をそっと握った。
「……これからは気をつけます」
茅島に促されて手を離した頬が、熱くなってくる。椎葉が自分に呆れてしまって小さくため息を吐くと、それが茅島の額に落ちてきた前髪を揺らした。
「気をつける必要はありません」
気付くと茅島の顔が間近にあって、次の瞬間には唇を塞がれていた。
助手席に座る膝の上で、椎葉の手を握る茅島の掌が熱い。自然と目蓋を落とした椎葉が顎を上げて唇を開くと、茅島は何度も唇を重ねてきた。
信号が青に変わって、後続の車がクラクションを鳴らしているのに、椎葉には茅島を拒む術がない。
膝の上で重ねた手に椎葉が指を絡めると、茅島もそれに応じてきつく握り返してくる。
椎葉の心を永遠に奪って、離さないと告白するように。