猟犬は傅く(26)
エピローグⅢ
しくじった。それだけだ。
灰谷には暗殺技能しか取り柄がないのに、それでしくじるというのはプライドを傷つけるには充分すぎた。
そもそも、過去に保科をし損じるまでは灰谷はコロシで下手を打ったことはただの一度もなかった。体には傷ひとつつけなかったし、標的からも、その護衛からも指一本触れさせることはなかった。
保科を仕留め損ねたのは他でもない、瀬良のせいだった。
どうも瀬良に出会ってから灰谷は、腕が落ちたような気がする。
おそらく、気のせいでも何でもない。
「灰谷さん、他にどっか気持ち悪いところない?」
濡れタオルを手にした瀬良が、ぼんやりと天井を仰いだ灰谷を覗きこむ。
灰谷が瀬良のベッドを占領するようになって三日目。折れたのは鼻の骨と肋骨くらいのものだったが、絶対安静を言いつけられて灰谷は瀬良の家で療養することになった。
安静を言いつけられたのは肋骨が折れているせいなのか、直腸を著しく負傷しているせいなのか知らない。メンタルケアという意味もあるのかもしれない。もし無免許医師がそんなことを一言でも口に出そうものなら、じゃあ自宅に帰してくれと言ったかもしれない。
「足の裏」
風呂にも入れない灰谷が携帯電話でこの抗争を報じる各社のニュースを見ながら答えると、瀬良はいそいそと灰谷の足元に回りこんで、片足ずつ丁寧にタオルを滑らせる。
これはこれで王様か何かにでもなったかのような気分だが、退屈だ。
時間がくれば瀬良は仕事に行ってしまうし、うつ伏せになれないから本を読んでいても腕が疲れる。
一体あとどれくらい安静にしていなければならないのか。いつになれば、仕事に戻れるのか。
「瀬良」
十文字はなんと言ってるのか、尋ねようとして足元の瀬良に視線を滑らせると――瀬良が、灰谷の足にキスをしようとしていた。
「あ」
視線がバチッとぶつかって、慌てて瀬良は顔を上げる。唇は足の指には触れなかったが、瀬良が口付けようとしていた部分には仄かに暖かさが残っていた。瀬良の吐息がかかっていたせいかもしれない。
「あ、あの、舐めてもいいくらい綺麗にー、ってね」
呆れて携帯電話を持った手をベッドの上に落とした灰谷に、取り繕うように瀬良がまくし立てる。
キスするだけじゃなくて、舐めるつもりだったのか。いよいよ変態だ。
灰谷がため息を吐きながら目蓋を閉じると、灰谷の右足の踵を掴んだ瀬良の手が、躊躇うように震えた。
「あの、……ごめん」
神妙な声。
謝るくらいならしようとするなよ、と言い返してやろうと思って灰谷が目を開けると、瀬良は表情が見えないくらい深くうつむいていた。
「ごめん、……嫌、だった……よね」
タオルを握る手にも力が篭っているのか、震えている。
灰谷はもう一度、ため息を吐いた。
そういえば瀬良の家で安静を言いつけられてからもう三日も経つのに、未だにキスひとつしようとしてこない。高来組の邸から保護された時こそ瀬良は灰谷の体を抱いて泣き喚いて、もしかしたらこいつはこのまま一生この腕を解かないつもりなんじゃないだろうかと灰谷を不安にさせたものだが、状況が落ち着いてからというもの、妙に遠慮がちですらある。
「馬鹿」
灰谷が吐き捨てるように言うと、瀬良が少し、顔を上げた。
「この馬鹿犬。駄犬」
「っ、何急に……」
唇を尖らせた瀬良が反論の口を開くのと同時に、灰谷は右手を差し出した。
どうせ大した反論も用意してなかったんだろう瀬良は灰谷の意を探るように口を閉ざして、それからおずおずと身を屈めて首を伸ばした。
灰谷の指先に、瀬良の柔らかい髪が触れる。上体を起こせない灰谷がその毛先だけを擽るように撫でると、瀬良が笑い声を漏らして首を竦めた。
「……お前、あんなので俺が汚されたと思うのか」
「!」
ぎくりと瀬良の体が強張るのが、ベッドの揺れでわかった。
キスをしない、体を拭いたり着替えをする以上に灰谷の体に触れようとしない、というのはそれを気にしているからじゃないのか。つまり、高来組の男達に輪姦された灰谷を、気遣ってるから。
「あんなの、汚されたうちに入らない」
別に初めてでもない。瀬良には言ってないだけだ。
女みたいな顔をしているだとか、無表情なのを歪ませたいだとか、非力さを思い知らせてやるとか、理由はそれぞれ何だっていいんだろう。少年院に入っている間はそれが珍しくもないことだった。別に灰谷が特別なことではなかったし、汚い男のケツを犯せと無理難題をふっかけられるよりはマシだったと思えるくらいだった。
黙ってれば終わるし、少年院内ではそうしていれば看守の覚えも良かった。面倒を起こさない模範囚として有名だったから。 しかし瀬良は重く押し黙ったまま、唇を固く噤んで俯いてしまっている。
その頭に元気なく萎れた犬耳が見えるようで、灰谷は棘だらけの嫌味の一つでも言いたくなってしまった。
「それとも何か、俺は構わないけどお前は構うのか? 他の男に犯された俺なんて抱けないか」
「っ違……! そんなこと、絶対ない!」
案の定、瀬良は泣き出しそうな顔を上げて、灰谷に縋るように体を寄せてきた。
肋骨が折れてるというのに、そんなに体を寄せられても。さすがに今は瀬良を満足させてやれそうにない。
思わず勢いでのしかかったものの、すぐにしゅんと消沈する瀬良を見ていると可笑しくなって、灰谷はその頭に両手を這わせると髪を掻き混ぜるようにぐしゃぐしゃと撫でた。
瀬良の匂いがする。手を伸ばせばすぐ瀬良に触れることができる。灰谷のどんな我儘も嬉々として聞いてくれるし、灰谷のことしか脳内にない、瀬良が。
灰谷は我が物のように両手で掴んだ瀬良の頭を引き寄せると、その額に唇を押し付けた。
「……本当に平気だったよ」
唇を押し当てたまま灰谷が呟くように言うと、瀬良が上目で灰谷を窺った。
「殴られようと、何をされようと、お前が来るって信じてたからな」
抱いた頭に指先を滑らせて髪を梳く。うん、と瀬良が小さく答えた。泣いてるのかと思うような声だった。まるで子供だ。
灰谷は息を吐くように笑うと、自分の胸の中に瀬良の頭を抱きしめた。鼻先を瀬良の髪に埋める。
「あいつらに触られてる間、ずっとお前のことを考えてた。俺が苦しいのなんて、どうってことない。――でも、俺が何されたか知ったら、お前が苦しむんだろうと思うと、そっちのほうがよっぽど辛かったよ」
瀬良の頭を抱いて目蓋を伏せると、狭い部屋で、母親の悲鳴を聞きながら蹲っていた時のことを思い出した。
父親がいっそ灰谷を殴ってくれたらいいのにと毎日願っていた。大事な人が傷つけられることに比べたら、自分が苦しんだほうがずっといい。
灰谷は、それを知っているから。
「灰、……谷さん」
瀬良の声が震えて、鼻を啜るような音も聞こえる。
灰谷は、瀬良を抱く腕の力を強くした。このまま瀬良の頭が灰谷の中にめり込んで、一つになれてしまえたらいいのに。そうすれば痛みも苦しみも、喜びも愛情も、全て瀬良と一緒に味わうことができる。瀬良は灰谷よりもずっと感情の振り幅が大きいから、灰谷の知らないことをたくさん知ることができそうだ。
でも、別々の生き物だから、こんなふうに抱きしめることもできるんだろう。
「……苦しめてごめんな」
「灰谷さんが謝るようなことじゃないよ」
灰谷の胸の部分が濡れているようだ。
どうせこれを着替えさせるのは瀬良の仕事だから、いいけど。もっとも、灰谷は別に瀬良の涙が乾いてしまうまでこのままでいたって構わない。ずっと、瀬良が家にいる間はこうして抱いていてもいいくらいだ。
そう口にすれば、瀬良は喜んで灰谷の言う通りにするかもしれない。
「お前はいつも通り、馬鹿みたいに俺のこと好きだって言ってればいいんだよ」
灰谷は瀬良の脳天に口付けると、二度、三度と止まらなくなった。
灰谷の体の両脇に腕をついて体を支えた瀬良も、ぎゅっと灰谷の方を挟みこむように抱いてくる。
肋骨骨折が完治するまで、どれくらいかかると医者は言っていただろう。いつになったら瀬良は思い切り灰谷を抱きしめることができるのだろう。
「うん、……うん、灰谷さん、好きだよ。大好き。大好きだよ」
ぼんやりと医者の診断を思い出していた灰谷に、鼻声の瀬良が何度も繰り返す。
馬鹿の一つ覚えみたいな瀬良の言葉で、灰谷の体はじわじわと暖かくなって、擽ったいような、息苦しいような気分にさせられる。
灰谷は大きく息を吐くと、わざと呆れたように笑った。
「――ああ、これで何もかもチャラだ」
痛みも苦しみも、全部浄化されたみたいにすっきりしている。
灰谷の声に瀬良は顔を上げると、意図を計り兼ねたように灰谷を窺った。その目が濡れていて、全くどうしようもなく、愛おしい。
「悔しいけど、お前がいればそれだけで俺は幸せなんだ」
瀬良の髪をぐしゃぐしゃと撫でて灰谷が笑うと、瀬良は一瞬の間の後、真っ赤になって顔を伏せた。