猟犬は傅く(25)

エピローグⅡ

 柳沼は、周囲を畑に囲まれた一軒家を前に立ち尽くしていた。
 都心から急行電車で一時間あまり。同じ首都圏でも、ここまで景色が違うものかと柳沼は少し面食らっていた。
「伶、大丈夫?」
 インターホンを前にして躊躇してしまった柳沼を気遣うように、小野塚が肩を撫でてくれる。そうされて初めて、柳沼は思いきり肩に力が入っていたことに気付いた。
「……うん、大丈夫だよ」
 それだけ答えるので精一杯だ。喉には大きなしこりでもできてしまったように息が詰まって、心臓はずっと早いリズムを刻んでいる。
 柳沼一人だったら、もう何回この場を逃げ出していることだろう。
 大きく深呼吸する。つられたように、隣の小野塚も胸を大きく開いて呼吸していた。
「田舎は空気が美味しいって、本当だね」
 何を思ったか不意に小野塚がそんなことを言うものだから、柳沼は目を瞬かせて小野塚を振り返った。
 確かに空気はおいしい。でもとても、こんなところで暮らせるとは思えないけど。こんな田舎じゃ車がなくては生活できそうにないし――家の前の通りをざっと見回してもコンビニを見つけることができないなんて相当なものだ――、柳沼は運転免許も持っていないしこれからも取得することは出来ないだろう。
 今は経過良好とはいえ、いつどんな形でフラッシュバックが襲ってくるかもわからないのだ。
 妄想に取り憑かれた柳沼が一人で死ぬだけならまだしも、事故で他人を巻き込むようなことがあったら――そう思うだけで、とても免許を取ろうなんて思えない。
 しかし、この大きな二階建ての、広すぎる庭には車が一台止まっていた。あまり趣味のいいとは思えない、ステッカーのベタベタ貼られた黒塗りの日本車だ。
 彼らしいといえば、彼らしい。
 柳沼は昔を懐かしむように双眸を細めた。
 自然と、手を伸ばすとインターホンを押すことができた。
「はーい」
 インターホンにはマイクもついているのに、それを通さず、肉声が家の中から聞こえてきた。
 その声を聞いた瞬間、やはり柳沼は逃げ出したくなった。
 ツバメの声は、あの頃と少しも変わっていない。
 一瞬であの頃の地下室に引き戻されそうな懐かしい声。甲高くて、子供っぽくて、舌足らずなツバメの声はどんな騒音の中でもよく聞こえた。
 柳沼はツバメが鬱陶しくて、面倒で、苦手だったけど、それでも地下室に行けば無意識に彼女を待っていたような気がする。
 宇佐美が暴行を受けたとあってツバメが消沈していれば地下室の明かりは消えたように感じたし、――能城に囚われたツバメが顔を出さなくなってからは、地下室のメンバーもみんな笑わなくなったように感じた。
 ツバメは、あの薄汚れた地下室のささやかな太陽だった。
 柳沼はそれを、能城の薄汚れた刹那的な快楽のために汚して、それで一人で逃げ出してきてしまった。
「――……っ、」
 柳沼はやはり足が竦んで、逃げ出したくなった。
 家の中からバタバタと足音が響いてきた。
 今更、会わせる顔なんてない。やっぱり駄目だと柳沼が踵を返そうとした瞬間、傍らの小野塚が柳沼の手をぎゅっと握りしめた。
「っ、」
 小野塚を振り仰ぐといつになく精悍な表情を浮かべて、家の玄関を見つめている。
 柳沼の手を握りしめた小野塚の手は痛いくらい力強くて、震えてもいるようだった。
 小野塚はツバメのことなんて知らないのに。柳沼が抱える罪悪感は、柳沼一人のものであるはずなのに。小野塚はまるで自分のことのように、緊張している。
「――奏」
 柳沼は短く息を吐くと、思わず小さく笑った。
「そんな怖い顔して玄関を見つめてたら、出てきたツバメが驚いちゃうよ」
 えっ、と小野塚が柳沼を振り返った時、玄関の戸が開いた。と同時に、大音量の奇声が飛び込んできて、柳沼は思わず耳を覆った。ほとんど、金属音だ。
「ああっ、もー! うるさいよ! レイちゃん!」
 お客さんびっくりするでしょお、と言いながら飛び出してきたのは、――ツバメだった。
 相変わらず小柄で、長かった髪をバッサリ短く切っている。相変わらず痩せているけど、あの頃に比べたら少し顔が丸くなったようだ。
 その腕に年端もいかない子供を抱きかかえたまま顔を上げたツバメが、柳沼の顔の上で焦点を結ぶ。
「――……、」
 唇が弛緩したように開いたまま、ツバメはしばらく止まってしまった。
 その大きな瞳がまるで自分を責めているように感じて、柳沼も言葉を失った。
 あの時、能城の自宅で顔を背けたのは自分のほうなのに、何をのこのこと――そう罵られても、文句は言えない。
 でも、だからこそ、もし許されないとしても、一言、謝っておきたかった。許してもらえるなら、どんなことでもするから――。
「……ヤ、ギー……?」
 聞き取れないほど小さな声で、ツバメが呟いた。
 胸が抉られるようだ。
 柳沼が何から言えばいいのかわからないまま口を開いた、その時。
「ヤギーーーーーーーーーーッ! ないとーちゃん! ヤギー! ヤギーが来たよ! ヤギー! ヤギーだよね? ヤギーでしょ? 今何歳? 何歳ヤギー?」
 突然早口でまくしたて初めてツバメが、玄関の戸を開けっ放しの家の中に叫んだり、子供を腕にぶら下げたまま家の門を開けに来ては、柳沼の周りをぐるりと回った。
「――、」
 何も、言うタイミングを逃してしまった。
 思えばツバメはいつもそうだ。柳沼の姿を見つけると一方的にまくし立てて、楽しそうに笑っていた。
「ねえねえこの子は? ヤギーのお友達? 何くん?」
「小野塚奏といいます。はじめまして」
 小野塚に興味を示したツバメがようやく足を止めると、小野塚がにこやかに右手を差し出した。
「そーちゃん? あ、ないとーちゃんがなんか言ってたかも」
 ツバメは小野塚が握手を求めた右手に自分の子供を押し付けると、ぱんと掌を合わせて、くるりと踵を返した。そのまま、内藤の名前を連呼しながら家の中に駆け戻っていく。
 まるで台風のようだ。
 あそこまで激しかっただろうかと柳沼が首をひねっている隣で、小野塚はツバメに押し付けらた子供を抱き上げて、「レイちゃんって言うの?」と猫撫で声を出している。
 やがて家の中からまた慌ただしい足音が響いてきたかと思うと、見慣れた巨体が姿を表した。
「おう、来たか」
 まるで地下室を訪ねた時と同じ調子で、内藤は言った。
 内藤は少し、太ったかもしれない。相変わらず黒人文化を崇拝するような格好をしているが、肝臓が悪そうな肌の色は改善されている。
 柳沼が頭を下げると、内藤は小さく肯いて、家の中を顎で差した。
「まあ、上がってけ。……おいツバメ、レイを客に抱かせてんじゃねえよ!」
「えー、お客さんじゃないよ、そーちゃんだよ?」
 家の中に戻っていく内藤の背中を追いかけていくツバメの姿は、まるでタイムスリップしたみたいにあの頃と同じだ。
 隣にいるのは宇佐美じゃなくて、小野塚だけど。
 柳沼が傍らの小野塚を盗み見ると、小野塚も柳沼を見ていた。照れくさくなって露骨に無視して家の玄関に向かう。小野塚はツバメの子供を抱いたまま、手こずっているようだった。


 まだもうちょっと、と必死で引き止めるツバメの誘いを誇示して帰路につく頃には、もう夜の十時を回っていた。すっかり夕飯までご馳走になって、小野塚はツバメの子供にすっかり気に入られて、別れる時は大変な騒ぎだった。
 帰りの電車に揺られながら、柳沼は街明かりの少ない車窓に視線を落としたまま内藤のことを思い返していた。
 天真爛漫なツバメの様子を見ていると、もしかしたらツバメは当時の記憶を失くしているのじゃないかと柳沼は思った。もしそうなら、柳沼が謝るのはかえって彼女を傷つけることにならないだろうか。
 ツバメが夕飯を料理している間、内藤にその旨を尋ねると内藤は苦笑を浮かべて小さく首を振った。
「忘れてるわけじゃねぇ」
 押し殺したような内藤の声。
 小野塚がツバメの居場所がわかったよと調査書を持ってきた時、ツバメが内藤と暮らしていると聞いて柳沼は少し安心していた。内藤なら、ツバメを守ってくれるような気がしたからだ。内藤は不器用な男だし、賢くもない。でも、人を思う気持ちだけは芯が通った男だ。
 でもそれは、内藤を苦しめていたのかもしれない。
「笑うようになったのは、つい最近だ。最初のうちはクスリを欲しがって暴れてばっかりで、それが切れたら死んだみたいに動かなくなった。――そのうち腹がデカくなってくると、気でも違ったみたいに叫んで、喚いて……レイが無事に生まれてきたのが、奇跡みたいなもんだ」
 ツバメの子供の父親が誰なのか、柳沼は聞こうとも思えなかった。
 鼻歌を歌いながらフライパンを振るツバメが楽しそうで、その足元を覚束ない足取りで歩く子供を見ていると、そんなことはどうでもいいと思えた。
 だけどこの先、内藤はこの二人をずっと面倒見ていくのか。
 探偵社に調べさせた限り、ツバメには肉親がいないようだった。内藤がいなければ母子二人、野垂れ死んでしまう可能性がある。それどころか、以前の生活に逆戻りする可能性だってないとも言い切れない。
 柳沼がツバメの姿に視線を転じると、ツバメは腕まくりをして皿を用意していた。その腕についた幾つもの切り傷の痕は、一生消えないのだろう。
「子はかすがいって言うしね」
 ようやく子供から開放された小野塚がテーブルまでビールを飲みに来て、脳天気な声で口を挟んできた。
「ああ」
 内藤が笑って、肯く。
 その笑顔は、ツバメとその子供の人生背負って行きていくことを覚悟した男の、それに見えた。覚悟を決めたのか、それとも覚悟を強いられただけなのかはわからないけど。
「伶、俺達も子供作ろうか」
「奏、黙っててくれない」
 そしてあっちに行ってて、と柳沼があさっての方向を指さすと、内藤が声を上げて笑った。
「柳沼、明るくなったな」
 柳沼が眉を顰めて内藤を振り返ると、また内藤の笑い声が響く。相変わらず大きな笑い声だ。こんな調子じゃ、確かに防音設備の整った地下室でもなければ田舎の一軒家じゃなければ近所迷惑で仕方ないかもしれない。
「昔はもっととっつきにくい感じだったがな。……そのほうがずっといいよ」
 内藤は柳沼のグラスにビールを注ごうとして――止めて、烏龍茶に持ち替えた。
 柳沼は小さく頭を下げて、内藤から盃を受けた。
「人は、幸せになるために生まれてくるもんだ。自分から幸せになる努力を惜しんじゃ、いけねぇよ」
 相変わらずありきたりな理想論を恥ずかしげもなく振りかざす男だ。
 でも柳沼は、昔よりずっと内藤を好ましく感じた。
「俺が伶を幸せにしますよ」
 ビールの入ったグラスを内藤のジョッキにぶつけた小野塚が笑う。内藤が、また大きな声を上げて笑った。
「お前ら、またウチにメシでも食いに来いよ。今更湿っぽい詫びなんざ、ツバメだって欲しがっちゃいねぇ。……また何度でも、遊びに来いよ。それだけでいいんだよ。俺達は、仲間なんだからな」
 最後の方には内藤は泣いているのかと思うほど酩酊して、結局柳沼と小野塚が帰ることは熟睡してしまっていた。
 内藤も年をとって、酒に弱くなったということか。
 柳沼は狸のような腹を丸出しにして鼾をかいた内藤の寝顔を思い返すと、笑いがこみ上げてきた。
「思い出し笑い?」
 ボックス席の向かい側に座った小野塚が、柳沼の顔を覗き込む。
「何だ、寝てたんじゃなかったの」
 頬杖をついて目を瞑っていたから、眠ってしまったものかと思っていた。柳沼やツバメが飲めない分、小野塚は内藤に大量に飲まされていたから。
 電車はまだ東京まで一時間ほどの場所を静かに走っている。
 家に着くのは日付が変わる頃か。小野塚の貴重な休日を、柳沼の用事に費やしてしまった。
 柳沼は向かい合った小野塚の膝に自分の膝頭をぶつけると、視線を伏せた。
「奏、……ありがとう」
 ぽつりと小さく呟いた声は、しかし他の乗客も少ない車内で掻き消えてしまうこともなく、小野塚は少し笑って柳沼に腕を伸ばしてきた。
「俺は、伶を幸せにしたいから」
 柳沼の膝の上の指先を取って、小野塚はきゅっと握りしめた。
 その瞬間、今まで意識もしていなかったのにずっと堪えていたような涙が溢れてきそうになって、柳沼は顔を伏せた。
 柳沼の頭を小野塚が優しく撫でる。何度も、何度も。近くから遠くから、愛を教えてくれるように。
 ――僕はもう、充分幸せだよ。
 そう答えたいのに、口にしたら嗚咽になりそうで柳沼は唇をきつく結んだ。
 電車は暗闇の中を滑っていく。
 前方に見える東京のネオンは、まるで満天の星空のように見えた。