猟犬は傅く(24)

エピローグⅠ

 辺りはしんと静まり返っている。
 昼間は光がさしていた廊下も、今は不気味にさえ見えた。
 体を支えるために窓辺に寄って、何気なく空を仰ぐと満月がのぼっている。庭に生い茂った木々が夜風に揺れると、その影がざわざわと不穏に揺れて、モトイを余計に不安にさせた。
 未だに夜は嫌いだ。
 でも、そんなことも久しく忘れていた。もうずっと、夜は安里と一緒に過ごしていたから。
 思えば、夜があんなに不安だったのは狼男の映画のせいなんかじゃなかったんだろう。柳沼の帰ってこない夜が、ただ怖かっただけだ。
 ずるり、とギプスのついた足を引き摺ってモトイは壁沿いに前進した。
 出歩く際は松葉杖を使うようにと看護婦から言われていたけど、片腕も折れてしまっているから思うように体を支えられないし、普通足は二本しかないのに松葉杖を入れると足が三本になったように思えて混乱するので、松葉杖は病室に置いてきた。
 病院の廊下には他に誰の人影もない。
 まるで、世界に一人ぼっちになったかのようだ。
 モトイは片足で跳ねるようにして、前進する速度を早めた。着地するたびに体に衝撃が走って、声を上げそうになるほど痛い。モトイは歯を食いしばりながら、時折右腕のギプスで額の汗を拭った。
 公衆電話の前まで来て、モトイは二股に分かれた廊下を見渡した。
 もしかしたら、迷子になったのかもしれない。
 さっき見かけた案内板では、一階下に降りればナースステーションとかいうのがあるらしい。多分そこに行けば夜中でも起きている看護師がいるのだろうけど、そんなのに頼ろうとすればたちまちモトイは自分の病室に連れ戻されてしまうだろう。
「……どっちだろ、」
 知らず、モトイは呟いていた。
 声を出すと、少し怖さが薄れるような気がした。
 病室を出てからもう何分くらい経っただろうか、五分か、十分か。時計を探そうとして周囲を見回しても、白い壁に窓が繰り抜かれているばかりで何もない。
 息も上がってきた。被弾したせいで熱もあるんだろう。モトイは心細くなってきて、その場に蹲るようにして腰を下ろした。
「アサト……」
 折れた足を廊下に投げ出して、背中を丸めて片足の膝に額を押し付けたモトイがため息とともに漏らしたその時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
 見回りの看護師だろうか。
 モトイが顔を上げると、足元を照らす間接照明に人影が浮かび上がっている。
 看護師ではなさそうだ。入院患者なら、ちょっと脅して場所を聞き出せるかもしれない。
 廊下の隅にしゃがみこんだモトイを窺うようにゆっくりと近付いてくる人影を見つめていると、その人物が窓際にさしかかった時、満月の光に照らされて顔があらわになった。
「……モトイ?」
 モトイが息を呑むより早く、暗がりに目を凝らした安里が、呟いた。
「っ、安里」
 即座に立ち上がって駆け寄ろうとして、足が折れていることに気付いて床に転がってしまう。咄嗟に腕をつこうとしても、腕の自由も効かない。
 結果、肩から床に倒れこんでモトイは呻いた。
「モトイ、」
 安里が慌てて駆け寄ってきた。
 良かった。元気そうだ。
 モトイはみっともなく廊下に転がったまま首だけを擡げてその姿を見ると、安堵の息を吐いた。
「――安里の病室に行こうと思って」
 モトイのそばへ辿り着いた安里に抱き起こされて床の上に座り込むと、モトイは改めて安里の顔を見遣った。
 月の光に照らされているせいか、安里の顔は青白く見えた。あるいは、体調でも悪いのかもしれない。そもそも安里も同じ病院に入院しているのだから、どこも悪くないというわけではないのだろう。
「松葉杖は、どうしたんですか」
「置いてきた」
 モトイが当然のように答えると、安里は小さく息を吐いた。
 安里の手はモトイの腕を支えたまま、離れない。モトイは首を傾いで、安里の顔を覗きこんだ。
 あの時、安里が藤尾――に似せたリツに別れを告げた次の瞬間、藤尾に気を取られた安里に松佳一家の構成員が襲いかかろうとした。
 気付くとモトイは夢中で飛び出していて、それから後のことはあまりよく覚えていない。
 目が覚めると病院のベッドの上で、看護師に何を聞いても「今は安静にしていてください」と壊れたおもちゃのように繰り返すだけだった。
 一晩くらいそうしていたら、茅島が見舞いにやってきて、安里の無事を教えてくれた。その時に安里の病室も聞いていたはずなのに、上手く訪ねることができなかった。
「……前に俺が入院した時、」
 ぽつりとモトイが呟くと、安里が睫毛を上げてモトイの顔を見た。
 不思議だ。
 安里が今、自分を見ていると感じる。
 ずっと安里の目の前には見えない透明なビニールみたいなものがあるように感じていたのに、今は違う。
「安里が、俺の入院してた病院まで来てくれたから」
 柳沼の手足になれなくてどうやって生きていけばいいのかわからなくなっていた時、安里が見舞いに来てくれた。
 生きていて良かった、と言ってくれた。
「だから、今回は俺が安里の見舞いに行こうと思ってたんだけど」
 結局迷子になって、辿り着けなかった。
 モトイが口端を下げて首をひねると、ふ、と安里が短く息を吐きだした。
 また溜息を吐かれたのかと思ってモトイが顔を顰めて安里を見遣ると、安里は、笑っていた。
 モトイの腕を掴んだままもう一方の手で口元を隠して、肩を揺らして、微かに声を漏らして笑っている。
「あさ、――」
「大怪我を負っているのは、モトイの方なのに」
 少し掠れた声を震わせて、安里は可笑しそうに笑っている。
 モトイの腕を掴んだ手も、今までと違って暖かく感じる。モトイがその手を握ろうとすると、安里から握り返してくれた。
「さあ、帰りましょう」
 モトイの手を握った安里が、腰を上げる。モトイがそれを呆けた顔で見上げていると、安里は仕方ないというような表情を浮かべて、脇に手を入れて抱き起こしてくれた。
「帰るって、……家?」
 安里の肩に腕を回すように促されて、モトイは安里に体重をかけ過ぎないようにしながら覚束ない足取りで歩き始めた。
「違います、モトイの病室へです」
「えー? 安里の病室に行こうよ」
 来た道を引き返すように勝手に方向転換されて、モトイは精一杯踏ん張ってみたが、片足では充分な抵抗ができない。上体に力を入れようとすると、銃創が開きそうだ。
「それは明日、明るい時間に来て下さい。病室まで、迎えに行きますから」
 安里が歩き出す。
 モトイもそれに引きずられるようにして足を踏み出すと、もうすっかり傷は良くなってしまったかのように痛みを感じなくなった。
「絶対?」
 傍らの安里の顔を窺うと、安里が視線に気付いたようにモトイを向いた。
 一度目を瞬かせて、それから夢のように微笑む。モトイが今まで、見たこともない表情で。
「はい、約束します。だから今日は、ちゃんと寝てくださいね」
 あんなに不安だった夜の廊下を、安里と一緒に戻っていく。
 もう夜は、怖くない。