猟犬は傅く(23)
椎葉Ⅵ
茅英組の事務所に銃砲刀剣類所持等取締法に抵触する恐れのある物品はそんなに多くはない、と椎葉は踏んでいた。
少なくとも大半は構成員が持ち出しているだろうと思ったからだ。
とはいえ、全く見つからなかったわけではない。迫が構成員の退出を黙って見逃したのも、全く見つからないことはないだろうと予見していたからだろうが、それにしてもこんなに出てくるとは思わなかった。
匕首が十三本、日本刀が二振り。拳銃こそ見つからなかったが、予備の弾倉が大量に警視庁の段ボールに放り込まれていく。
椎葉はそれを呆れた気持ちで眺めていた。
暴力団なのだから、叩いて埃が出ないはずはない。この程度なら、当然の範疇だ。埃が出るとわかっていて見逃されているのが暴力団という職業なのだから。
「――ここにある銃砲刀剣類は、以上になります」
椎葉はスーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツを腕まくりして肩で大きく息を吐いた。
警察を信用していないわけではないが、能城の息がかかった捜査員に事務所を好き勝手触らせたくなくていちいち立ち会っていたら随分時間がかかってしまったようだ。
壁にかかった時計を一瞥すると、もう夕方にさしかかろうとしている。茅島はまだ帰ってこない。いつもは誰かしら詰めている事務所に関係者がいないとこんなにも心許ないものだろうか。
「間違いありません」
帽子を目深にかぶった捜査員が、書類を確認しながら押収物をしまっていく。
銃砲刀剣類所持等取締法違反は一年以上十五年未満の懲役になる。誰かしらを塀の中に送り込むことになるだろう。その采配は茅島に任せるが、法的手続きを考えると頭が痛い。この数になると、懲役年数を短くするのも骨が折れそうだ。
「ご覧の通り、覚醒剤の類は一切ありません。そもそも堂上会は、薬物を禁止しています」
――どこかの誰かとは違う。
椎葉が言葉を飲み込んで迫を見遣ると、迫は勝手に事務所の椅子に腰掛けて退屈を持て余しているようだった。その傍らに千明が渋い顔をして立っている。
「構成員の自宅を一軒ずつ調べましょう。それから、尿検査も」
肘掛けに腕をかけて腹の前で指を組んだ迫は、まるで弁護士には見えない。検事だと言われれば納得もできる。所詮は能城に時間稼ぎを頼まれただけの贋作だ。
「……そんなことをしても血尿しか出ないよ」
椎葉は呆れたように笑うと、迫に歩み寄った。
今頃茅島は事務所に帰ってきている最中だろう。椎葉は信じていた。とはいえ構成員が全員無傷で済むわけはないから、尿検査なんてさせたらひどい結果になりそうだ。
「迫。そんなことをしている暇があるなら、松佳一家の事務所でも家宅捜索してきたほうがずっといいんじゃないか」
「暇だから家宅捜索しているわけじゃないよ」
迫が回転椅子を軋ませながらくっくっと笑った。
「話を逸らすなよ」
大体何故迫が能城なんかに加担しているのかわからない。能城が迫を選んだのは検事出身であることと、椎葉の旧友だからという理由だったかもしれない。でも、迫が能城に首肯する理由がわからない。迫は椎葉が知る限り正義感の強い司法修習生だったはずだ。
「話を逸らしてるのはどっちだよ。俺は茅英組組長、茅島大征の容疑を調べに来たんだ。堂上会の直系傘下の膿は吐き出しておいたほうがいいだろう? 椎葉としてもさ」
いっぱいになったダンボールを抱えて一人、また一人と捜査員が事務所を後にする。
あちこち暴かれた事務所の中は雑然としていて、まるで椎葉の心象風景のようでもあった。
「茅英組は膿なんかじゃないよ。迫にはわからないかもしれないけど」
膿だというなら、松佳一家の方だ。そんなこと顧問弁護士として言える立場ではない。膿の排除は、茅島たちがしてくれる。血も流れるだろう。椎葉はその後始末をするためにいるのだ。迫とは、立場が違う。
「ああ、わからないね。未成年者を脅迫して怪我させたそうじゃないか。人間のクズだよ」
「迫」
椎葉は眉間に寄ったシワを隠すように眼鏡を抑えると、抑えた声で迫の暴言を制した。
迫は友人だ。友人だと思っていた。
いくら友人でも職業上対立する公図になることは覚悟していたけど、それでも何を言っても許されるわけじゃない。弁護士なら、それらしくあるべきだ。
「茅島さんに何があったのか、俺は逐一知っているわけじゃない。未成年者を脅迫したというのが本当であれば、事情を聞くだけだよ」
「証人として被害者をここへ呼ぼうか?」
迫は大仰な仕草で腕を広げると、捜査員が退出して人気のなくなった事務所を示す。
椎葉はにわかに緊張して、視線を室内へ走らせた。まだ千明がいる。迫も馬鹿じゃないから、千明の前に暴漢を呼び集めたりはしないだろう。
「っ迫、ここは法廷でも何でもないよ。証人喚問の必要はない」
椎葉が迫から半歩退いて言い返すと、迫がそれを追うように腰を上げた。
「じゃあ法廷で争おうか。構わないよ。未成年者を脅迫し、傷を負わせたのは紛れもない事実だからね。ヤクザなんて言っても、弱い者いじめしか脳のない社会不適合者の集まりじゃないか!」
言いすぎだ。気持ちを真っ黒に塗り潰されたような気がして椎葉が口を開こうとすると、迫が距離を詰めてきた。気圧されるように椎葉がまた一歩後退すると、迫に腕を掴まれた。
「――っ!」
視界の端で千明が動いた気がするが、その前に椎葉は首を竦め、目を瞑った。
「被害者を、呼べるものならここへ呼んでもらおうか」
その時、扉の方から聞き慣れた声が流れこんできた。
弾かれたように椎葉が顔を上げると、そこには事務所を出て行った時と変わらない、茅島の姿があった。ただその姿を一目見ただけで、膝に力が入らなくなってくる。
その場で崩れ落ちそうになった椎葉の腕を思いがけず迫が支えるように掴みなおすと、茅島が大股で近付いてきて迫から椎葉を奪い取った。
「――尤も、被害者は俺の顔を見たら小便でも漏らして帰ってしまうかもしれないけどね」
「……!」
迫が言葉に詰まっている間に、茅島が椎葉を振り返って肩を優しく抱いてくれた。
いつもと変わらない広い胸に椎葉の頭を抱き寄せるようにして支えると、茅島は椎葉の顔を覗きこんで首を傾いだ。
「先生、大丈夫ですか?」
茅島のスーツからはいつもと違う、埃っぽい匂いと煙たいような香りが漂ってくる。戦場から帰ってきたことを物語っているようだ。
でも、無事で帰ってきてくれた。
「茅島さん……、」
緊張の糸が途切れた椎葉は目頭が熱を持ってくるようで、聞きたいことも、話さなければいけないことも、まだ済んでいない問題もあるのに、茅島の背中を力いっぱい抱き返したくてたまらなくなってしまう。
「先生、留守を守っていただいてありがとうございます」
茅島の手が、椎葉の髪をサラリと撫でた。
まるで何事もなかったのだと信じさせてくれるような、優しい手つきで。
「千明刑事!」
その時、茅島の背後から迫の凛とした声が響いて、椎葉は背筋を緊張させた。
茅島がゆるりと眉を眇めて、椎葉を抱く腕を緩め体を反転させる。背中を向けられていても、ついこの間までのような拒絶を感じない。今は、迫から庇ってくれている頼もしい背中のように感じた。
「茅島大征の手から硝煙反応を調べてください」
迫の声に唆されるようにして、椎葉は茅島の手を見下ろした。今は何も握っていないが、茅島が無事で帰ってきたということは――この手で、能城を殺めてきたのだとしてもおかしくはない。椎葉を優しく撫でる、この手で。
「殺人容疑で逮捕できるでしょう。そうすれば千明刑事の手柄にも、」
迫の弾んだ声と裏腹に、千明は小さく息を吐くと気怠げな仕草で首の後ろを掻いた。
迫が苛立ったように頬を引き攣らせながら千明を窺う。もう一度けしかけるように口を開きかけた迫に、千明は鈍い刃のような目を向けた。
「硝煙反応を調べるなんてのは、俺達の仕事じゃない。どうしてもやりたきゃ、上の人間に判をもらって出直してくるようだよ」
迫が息を呑んだ気配が、茅島の背後に入る椎葉にまで伝わってきた。
椎葉が掌をあてた茅島の背中が小刻みに震えている。笑っているのかもしれない。その顔を覗きたくて、椎葉は少し背伸びをしてみた。
「何を、……っこういうのは、特例のはずだ! 現状確保をしなければ、証拠隠滅されるぞ!」
「迫先生」
千明が、大きく溜息を吐いた。
椎葉は千明刑事のことをよくは知らないが、いつも疲れているように見える。しかし今は一段と、疲れているようだ。
「俺達はアンタの犬じゃない」
嗄れたような声で呟くと、千明は踵を返した。迫の肩をポンと叩いて、唇をほとんど動かさずに告げる。
「――あんまり、警察を舐めるなよ」
そのまま言葉を失くした迫の脇を通りすぎて事務所の扉を潜った千明は、最後に思い出したように足を止めると肩越しに茅島を振り返った。
「茅島、邪魔したな」
千明がまるで旧友のように片手を上げると、茅島もくっと短く笑って手を掲げ返す。
「ああ、またコーヒーでも飲みに来いよ」
それきりだった。あとは音もなく事務所の扉が閉まると、辺りは静寂に包まれた。
窓の外は燃えるような夕焼け色になり始めている。差し込んできた夕暮れに照らされた迫の顔は赤く染まって、激昂しているようにも、鳴いているようにも見えた。
「迫先生」
最初に口火を切ったのは、茅島だった。
ボケットに手を入れて、小さな包みを取り出す。掌の上で晒のような布を開くと、中からは透明な袋に入った注射器と白い粉末が現れた。椎葉が息を呑むと、迫の視線も吸い寄せられるようにそこに注視した。
「証拠が欲しいんだろう? 呉れてやるよ。能城が薬物を常習していた証拠だけどね」
茅島が鼻で笑って、袋を放り投げる。迫は慌てて後退った。茅島の放った証拠品はあえなく床の上に落ちて、注射器が割れる短い音が響いた。
「使用済みのようだから、針を鑑識に回せば十分証拠になりうるよ」
迫は床に落ちた注射器と覚醒剤の粉末を、じっと見下ろしていた。まるで糸が切れた人形のようだ。もうその顔に、表情も見えない。
自失したような迫に追い打ちをかけるように、茅島が鼻で笑った。
「まあ、能城本人を見れば一目瞭然かもしれないけどね」
「お前らに何がわかるんだ!」
瞬間、弾かれたように叫んだ迫が顔を上げると、反射的に茅島が腕を広げて椎葉を庇った。
それくらいの怒気を放った迫が、呼吸を震わせて茅島を睨みつけていた。
こんな迫の姿を見たことがない。迫はいつも朗らかで、温和で、頼もしい――クラスの中心人物だったのに。
「迫、どうして能城さんなんか――に……」
いったい何が彼を豹変させてしまったのか知りたくて、椎葉は茅島の背後から抜けだして、迫に歩み出た。
迫は友人だ。
椎葉の目には、迫がどうしても苦しんでいるように見えた。いつか茅島を殺しにきた、モトイと同じくらい。
「――……るんだよ……」
迫の喉が痙攣するように震えて、迫のか細い声が漏れた。
両目は大きく瞠られたまま、焦点が定まらないように揺れている。
「迫、」
椎葉が手を伸ばそうとすると、茅島に腕を掴まれた。
「人質に取られてるんだよ!」
弾かれたように、迫が叫んだ。
丸めていた背を反らして、近くまで寄っていた椎葉に突然掴みかかってくる。
「!」
まるで気が違ったかのような尋常じゃない腕の力だ。椎葉が身を強張らせた瞬間、茅島が力付くで迫を引き剥がして床の上に突き倒す。
迫はあっけなく事務所の床に倒れこんで、数メートル滑った。
「人質って、……誰を」
茅島が口を挟む頃には、迫は荒い息を肩で弾ませながら、それでも少し落ち着いたようだった。でも額に汗が浮かんでいる。
「香苗、……別れた嫁と、娘だ」
茅島が顔を顰めて小さくため息を吐いた。
能城の常套手段だ、と言いたいんだろう。椎葉でさえその噂は聞いたことがある。堂上会内の能城派閥に与している組織の幾つかは、ただ弱みを握られているだけにすぎないと。
「娘は、……娘はまだたったの三歳なんだよ! 娘を守るためなら何だってしなくちゃならないんだ、俺は愛する人を守るために必死なんだよ! お前にわかるか!」
床の上を何度も拳で殴りつけて、全身を震わせながら迫は嗚咽するように叫んだ。
椎葉は、安里のことを思い出していた。
人の愛し方なんて、人それぞれだ。椎葉はあの時安里にあんなふうに言ったけど、どれが正しいなんてことはないのかもしれない。
でも、人を傷つけてまで貫くべき愛情なんてあるだろうか。
気付くと椎葉は、床の上に崩れ落ちた迫の前まで歩み出ていた。
迫がゆっくりと、椎葉を仰ぐ。
「香苗さんは、迫がこんなことをしてるって知ってるのか?」
迫の前にしゃがんで尋ねると、迫が微かに髪を揺らした。
おそらく、人質に取られている自覚もないんだろう。ただ、迫が命令に背けばいつでも手を下せるぞと写真の一枚でも送られてきただけだ。それがヤクザのやり口だ。迫が嫌悪するのも無理はないかもしれない。
「迫、俺は守る、守られるだけが愛じゃないと思うよ」
迫の前に膝をついた椎葉が茅島を盗み見ると、茅島も椎葉を見つめていた。
「自分の大事な人に、いつでも胸を張れるように――俺は迫には、そんな人間でいて欲しいと思う」
そう言って椎葉は、かつて迫にそうしてもらったように、肩をポンと叩いた。
迫が静かに、顔を上げる。涙で濡れた頬に弱々しい笑みが浮かんでいるようだった。
「能城はもう動ける状態じゃない。損得勘定と脅迫だけで縛られていた兵隊も散り散りだ。……お前ももう、お役御免だろうよ」
腕を組んで成り行きを見守っていた茅島がそう告げると、迫は深く項垂れて――やがて小さく、茅島に頭を下げた。
迫を見送った椎葉が事務所に戻ると、茅島が雑然としたままの室内を眺めていた。
「あ、っ……すみません、すぐに、片付けますから」
ガサ入れの痕をこうはっきりと残されていては、茅島だって気分がいいものじゃないだろう。椎葉は慌てて事務所の奥へ駆け込むと、まずは中身を全部出してしまったスチール棚に手をかけた。
「先生」
一度出した書類をしまうだけとはいえ、棚の中には埃が積もっている。せっかく一度全部出したのだから、綺麗に拭ってから入れたほうがいいだろう。
椎葉が周囲を見回してから雑巾の在り処を尋ねるように振り返ると、苦笑を浮かべた茅島に気付いた。
「……あ」
「譲さん。掃除は後でいいので、まずはこちらに来てください」
胸の前で緩く腕を広げた茅島の顔には、披露が色濃く残っている。
外はすっかり暗くなり始めて、虫の音が響いていた。
椎葉は首を竦めながら茅島の前まで戻ると、一度茅島の顔を仰いでからその胸の中に顔を埋めた。
堪らなくなって、すぐに背中へしがみつくように腕を回す。黙っていても、涙が溢れてきた。
「茅島さん、茅島さ……っ、――茅島さん……っ!」
溺れるようにその名前を呼ぶと、椎葉の体をきつく抱きしめた茅島の唇が椎葉の額に落ちてくる。
顔を上げ、首を伸ばすと茅島の唇は額から涙に濡れた睫毛、鼻先へ吸い付いて、口端まで降りてきた。
「譲さん、――ただいま、戻りました」
椎葉の背筋を完備に震わせる低い声音。椎葉は呼吸をするのももどかしくて大きく唇を開くと、自分から茅島の唇に貪りついた。
「……お帰りなさい、茅島さん」