猟犬は傅く(22)

茅島Ⅴ

 椎葉に事務所を送り出された茅島は、能城の自宅に向かっていた。
 あれだけ執拗に茅島に嫌がらせを繰り返していた能城が、襲撃を予測して事務所で大人しく待っていることはないだろう。あるいは待っていたとして、どれだけ卑劣な手段を用意しているか知れない。
 事務所に向かわせたモトイや光嶋はそれを理解しているだろう。
 何か、能城と取引できるネタが欲しい。
 能城が欲しいのは堂上会六代目会長候補の揺るぎない地位だけだ。取引の余地はないかもしれない。それならば、消すだけだ。
 茅島は能城の自宅へ車を走らせながら、唇に煙草を押し込んだ。
 唇が乾いている。自覚はなかったが、焦っているようだ。
 部下を能城の元へやり、椎葉を警察の中に置いてきた。もう失敗は許されない。これをしくじれば、茅島にはもう何も残らなくなる。
 張り付く唇に煙草のフィルタをねじ込んで、先端に火を灯した。
 ずっと若い頃から、能城の陰湿なやり口を見てきた。
 孤児院で生まれ育った能城は堂上会長を父のように慕っている、とやたら吹聴している。茅島の立場を恵まれているとして、何故自分は違うのかと言いたいのかも知れない。
 堂上会長に育てられたのが茅島ではなく能城だったら、茅島が堂上会長のもとで育てられていなければ、茅島も卑劣な手段でのし上がろうと考えたのだろうか。
 組の掟に背いてクスリを売買し、藤尾を殺して柳沼を意のままに操っていたのだろうか。
 能城の傍らに座る椎葉を見て、自分もアレが欲しいと願ったのだろうか。
 ありもしない仮定の話なのに、茅島にはとてもそうは思えなかった。もし茅島が堂上会に拾われなかった子だったとしても、椎葉と出会えば変われただろう。
 きっと、そんな気がする。
 茅島はまだ長い煙草を灰皿に押し付けて車を減速させると、助手席に転がした拳銃に手を伸ばした。
 能城の自宅は都内の一等地に聳え立つ高層マンションの最上階にある。茅島はパーキングに車を滑り込ませると、周囲を窺った。
 華やかに着飾った男女や、ビジネスマン風の人間が何人も行き来している。能城の兵隊がいるとしたら、自宅の扉前か、室内か。
 茅島は長く息を吐いて、シリンダーの中の銃弾を確かめた。グローブボックスの中に放り込んであった予備の銃弾と一緒にポケットに詰め込む。
 運転席のシートに凭れて、僅かの間目蓋を閉じた。
 十文字もモトイも、能城に対してずっと燻った思いを吐き出せずにいた。どんなに挑発され嗤われても、黙って機会を伺っていた。今がその機会だ。
 この大きなうねりが去った後、それぞれがどうなるのか茅島にはわからない。
 ただ、茅島のやるべきことだけはわかっている。能城を片付けたら、まっさきに椎葉のもとへ行って謝らなければいけない。椎葉は笑って許してくれるか、それとも最初のうちは拗ねてしまうかもしれない。
 茅島は椎葉の甘えたようなふてくされた表情を思い浮かべると、自然と肩の力が抜けていくのを感じた。
 死ぬ気はしない。ただ、早くこの仕事を終わらせるだけだ。
 茅島はシートベルトを解いて車を降りると、高級マンションのエントランスに踏み入った。
 都内の一等地にあっても広々としたエントランスを設けた、立派なマンションだ。自動扉を潜るとコンシェルジュが待機していて、ホテルマン並みの挨拶を寄越してくる。
 茅島も仕事なら、彼もまた仕事なのだろう。脅すような真似は気が引けるが、仕方がない。
「失礼。このマンションの最上階、能城さんのお宅にお邪魔したいのですが」
 大理石調の真っ白な床の上に跫音を響かせながら歩み寄ると、コンシェルジュは穏やかに微笑んで頭を下げた。
「能城様はただ今お留守にされております」
 もしかしたら家に篭って一人でガタガタ震えているかもしれないとも思ったが、幸いな事にその心配はないようだ。
 茅島は胸中でひとりごちた冗談に思わず笑みを浮かべていた。
「ええ、それは存じ上げております。その上で、お宅に伺いたいんです。オートロックを開けていただけませんか」
 最上階を借りきっている能城がどういう素性の人間かは重々承知した上で、住まわせているのだろう。それでもコンシェルジュは柔和な姿勢を崩さず、深く頭を下げた。
「大変申し訳ございません。能城様ご本人からご連絡をいただかない限り、私どもの一存で客様をお通しするわけには……」
 コンシェルジュの真摯な対応は、至極当然のものだ。
 茅島は小さく肯くと、胸のポケットへ手を入れた。
 コンシェルジュに迷惑をかけるつもりはない。彼は仕事を全うした。仕方がなかったのだ。住人を訪ねてくるやくざ者に、拳銃で脅されて仕方なく鍵を開けてしまったのだということにすれば、誰も彼を責められないだろう。
 松佳一家の人間から報復を受けるかどうかまでは、茅島は関知しない。
「そうですか。……では、」
 茅島がポケットに入れた手に冷たいグリップを握って拳銃を取り出そうとした時、背後から跫音が響いた。
 反射的に身構える。
 男は、茅島に気付くと片手を掲げて気安く歩み寄ってきた。まるで茅島が拳銃を抜くタイミングを知っていて、その直前を狙ってきたかのように見えた。
「茅島さん。――ご無沙汰しております」
 男はそう言って、笑った。



 組員に電話して尋ねると、松佳一家のシマの中にある廃ビルにいると言う。
 能城のマンションから遠くはないが、茅島は車で向かった。道中、車内に会話はなかった。軽口を叩けるような間柄ではないし、少なくとも今はそういう気分じゃない。
 短い通話だったが、電話口の組員の声は緊張しているようだった。
 そこに能城はいるのかと尋ねると、ただ一言、はい、とだけ返ってきた。
 これで終わりだ。
 茅島はハンドルを強く握り返すとアクセルを踏み続けて、廃ビルに着くまで止まることをしなかった。
「組長!」
 饐えた匂いが鼻につくビルに入ると、まるで子供がおもちゃで盛大に遊んだ後のように人がそこかしこに転がっていた。
 ここまで来る間に救急車を呼んでおくべきだったかもしれない。どうせこんな昼日中からドンパチやれば、抗争を隠しきれるものではない。不法に組員を診てくれる医者の腕にも限りがある。
「――茅島」
 二階へ上がった茅島が辺りを見回していると、そこには能城がいた。
 自慢のイタリア製スーツは随分と汚れ、肩の部分は裂けて血が滴っている。髪も随分乱れているようだ。しかし、劣勢というわけでもなさそうだ。
 茅英組も人間も菱蔵組の人間も、まともに立っているものは殆どない。茅島を歓迎する声をあげられたのも、たったの数人だ。
「飛んで火に入る――というのかな。お前とは、あまりプライベートで顔を合わせたくないんだがね。それも今日で終わりか」
 能城の大きく抑揚のついた声が耳にキンキンと響く。
 それを無視して茅島が床の上に崩れ落ちた組員の中にモトイの姿を探すと、入口近くでうつ伏せになって倒れていた。
 茅島が来たと言っていても、ぴくりとも動かない。腕も足も折れているようだ。肩と脇腹に被弾している。どれだけ血が流れているかわからない。今は、確認している隙がなさそうだ。
 モトイは誰かの上に折り重なるようにして倒れていた。組員ではない。見覚えのあるカッターシャツを着ている。安里か。
「――……、」
 茅島は片目を眇めて、安里を庇うように斃れたモトイから目を逸らした。安里も動いていない。茅島は胸のポケットから拳銃を取り出した。
「……そうですね。今日で終わりにしたいものだ」
 能城の死をもって。
 茅島が拳銃を構えると、能城のそばに盾のように立ち塞がっていたスーツ姿の男たちが、一斉に小銃を構えた。それを一発、二発と手を撃ち抜いていく。
 早打ちに特化したリボルバーだ。そうそう撃ち負けたりはしない。
 しかし、趣味のために持っているだけで、サイレンサーがついていないことを失念していた。茅島の背後に連れてきた男が堪らずに耳を塞いだのが視界に入った。
「茅島さん」
 情けない声を上げる男を肩越しに振り返ると、男は茅島の肩を抑えてゆっくりと前に歩み出た。
「おい、まだ銃を持ってるのが潜んでいるかもしれないぞ。死にたいのか」
 茅島が驚いて声を上げると、案の定、能城が拳銃を構えた。しかし肩を何者かにやられているようで、片手でしか構えられない。あれじゃ、まともにあてられないだろう。
 能城はクスリで意識が混濁しているのかもしれない。肩の傷は深そうだ。血溜まりができるほど失血しているのに痛みも感じていないところを見ると、クスリで抑えているんだろう。
 能城が抑えているのが痛みだけなのかどうかは知らない。もしかしたら、恐怖も殺しているのかもしれない。
「死ぬのは嫌だなあ」
 ははっと呑気な笑い声を上げて、それでも男は退こうとしない。
 いざとなれば能城の拳銃を撃ち落とせるように、茅島は拳銃を構えた。
「俺が今ここで死んだら色んな憶測を呼んで父にも迷惑がかかるし、――伶も悲しませるしね」
 床に崩れ落ちている組員の中に、瀕死の者もいるかもしれない。大事な人間を置いてきた者もいるだろう。それを省みるでもなく、のうのうとそんなことが言えてしまうのが、政治家の資質というものなのか。
 茅島は苦い気持ちを噛み殺しながら、薄汚れたビルの中にたった一人異質な清潔さで佇んでいる小野塚を見遣った。
「……ッてめえふざけてんのか!」
 拳銃を握れなくなった松佳の組員が小野塚に飛びかかろうとする。茅島はその足元を撃ち抜いて、小野塚に駆け寄った。
「今日は客が多いな。……君は、柳沼くんと今一緒に暮らしている小野塚参議院議員の息子さんかな」
 部下が叫び声を上げて床をのたうっていても、能城は眉ひとつ動かさない。茅島は胸がむかついて吐き気を覚えながら、拳銃を握り直した。
 シリンダーの中に残りは二発しかない。
 これを詰め直そうとすれば、能城はその隙を狙って来るだろう。それならば、この二発を能城の眉間にお見舞いするほうが早い。
「はい。小野塚奏と申します」
 傍らの小野塚に、緊張感はない。
 能城の自宅前で遭遇した小野塚が連れて行って欲しいと乞うのでここまで連れてきてしまったが、失敗だったか。あるいはこの調子が狂う男を囮にして、能城の意識がそちらを向いている間に殺すか。
「伶が探している子の居場所を、ご存知ですね?」
 能城に悟られないように拳銃を構えようとした茅島の隣で、小野塚は急に言った。
 柳沼が探している? 何の話だ。
 これには能城も呆気にとられたようで、目を丸くして、一瞬その下衆な笑みが消えた。しかし次の瞬間、すぐに腹を抱えて笑い出す。まるで金切り声のような笑い声だ。
「突然何を言い出すのかと思えば……! あぁ、そうか。ツバメの消息をしつこく追いかけているのは君だったのか!」
「彼女の消息を追う探偵社をいちいち黙らせているのはあなたですね」
 小野塚の唇はいつもと変わらない形に弧を描いているが、能城を見つめる目に光はない。
 能城を恨んでいるのは、小野塚も一緒だろう。あの柳沼のフラッシュバックと長いこと付き合ってきているのだ。茅島は、足をばたつかせて笑う能城に拳銃を構えた。
 もう能城を守ろうと立ち上がれる組員もほとんどいない。能城に残っているのは、死だけだ。本人もそれを自覚しているだろう。それをいたずらに引き伸ばすような趣味は、茅島にはない。
「茅島さん」
 状態を大きく揺らして笑う能城の頭に照準を絞って引き金を引くタイミングを計っていた茅島の腕を、小野塚が掴んだ。
「触るな」
 照準を誤れば、能城を苦しませるだけだ。あるいは致命傷を与えられずに二発失ってしまえば、松佳に勝機を与えることにもなりかねない。床に臥している松佳組員のうちの数人は、それを狙っているだろう。
 しかし茅島は外さない。友のためにも、部下のためにも。
「茅島さん。彼を殺すことは止めてください」
 茅島の腕を掴む小野塚の手に、力が篭った。
 ハ、と能城が笑い声をピタリと止めて小野塚を仰ぐ。
「……何を言ってる? 尋ね人の消息を知るためか? それなら、能城を消せば探偵社が自由に動けるようになって、じきに見つかりもするさ」
「ええ、それはもちろんです。でも、彼を殺すことに俺は賛成しない」
 茅島は小野塚の手を振り払って、距離を置いた。
 能城が足蹴にしているのは茅島の部下だ。あんなふざけた十文字のために命を賭している菱蔵組員だって、呻き声ひとつ上げられないで床に蹲っている。
 こんな真似をされて始末をつけられないなら、極道じゃない。
「――カタギは黙っててもらおう」
 茅島は小さくため息を吐いて、小野塚から目を逸らした。
 どんな悪人でも私刑で処罰することを禁止するなんて、いかにも役人の考えそうなことだ。
「茅島、お前若頭に銃口向けるってのがどういう意味だかわかってやってるんだろうな」
 静かに息を吐いた茅島に能城が拳銃を振り向かせた。その銃口が小刻みに揺れている。クスリの飲み過ぎだ。
「ああ、わかってるさ。生憎、生まれついての極道者なんでね。あんたと違って」
 茅島は引き金に指をかけた。
 暗夜に霜が降るごとく。
 まだ昼間だっていうのにビルの中はしんと静まった夜のようだ。これでやっと藤尾を眠らせてやることができるのか。茅島が息を吸って引き金を引こうとした瞬間、小野塚が目の前に飛び出てきた。
「ッ、! お前……!」
 怒鳴り飛ばしたい気持ちを抑えて、小野塚の体を避けながら引き金を引く。
 外した。
 銃弾は能城の頭上を超えて壁をえぐっただけだ。それより、能城も発砲していたこのほうが問題だ。銃の反動を抑え切れない腕のせいで幸い小野塚には当たらなかったが、いつ誰に流れ弾が当たるかわからない。
「小野塚、いい加減にしろ! ヤクザのやり方が見てられないなら出ていけ」
 失望させてくれるな。
 茅島はその言葉をぐっと飲み込んだ。
 茅島がその体を退けようと肩を掴んだ小野塚は、暗がりに双眸を光らせて微笑んでいた。
 小野塚を初めて見た時と変わらない、人当たりのいい笑みだ。しかしそれがどこか、茅島に恐れを感じさせた。
「ええ、俺はヤクザのやり方なんて理解できません」
 静かに紡いだ小野塚の背後で、能城が再び銃を構えた。茅島が身を乗り出してその手を撃つ。能城が上げた情けない声とともに、銃が乾いた音を立てて床の上に転がり落ちた。
 これで茅島のリボルバーの中は空だ。銃弾を詰める時間がなければ、小野塚とともに取り押さえられてお終いかもしれない。
 しかし不思議と、恐怖心はなかった。
 小野塚の微笑みのほうが恐ろしく感じた。
「殺せば片が付くと思ってるんですか?」
 特に声を張っているわけでもない、しかしよく通る声だった。
 ゆっくりと踵を返した小野塚が能城に向き直ると、その表情が茅島からは見えなくなった。しかし、その背中には隙がないように見える。相手は武道経験もないカタギだ。しかし、とても手を出せそうにない。
「――伶は、生きたままずっと苦しめられてきたのに?」
 低く笑った小野塚が歩み寄ると、能城が短く悲鳴を上げた。
 クスリで恐怖心を抑えているはずの能城が悲鳴を上げるというのは、どれほど恐ろしい顔をしているのか。茅島はなんとか苦笑を吐き出すと、額の汗を拭った。
「能城さん、あなたも生きたまま罪を償ってもらいますよ。殺してなどやるものか。生きて、生きたまま地獄を味あわせてやるよ。今更詫びたって、許されやしない。誰がお前のようなクズを許してやるものか」
 小野塚が能城の胸倉を掴んで、その細い体を引きずり倒した。
 茅島は小野塚が慣れない拳を振るっているのを横目に眺めながら、十文字に救急車の手配をするために携帯電話を取り出した。