猟犬は傅く(21)

安里Ⅳ

 血溜まりの中は、とても心地良かった。
 藤尾の血肉に溺れるように顔を浸して、そのまま窒息してしまっても構わないくらい。
 藤尾に抱かれるような暖かさの中で、溺れて過ごしてきた日々は幸せだったのかもしれない。藤尾という人を喪ってしまっても、その血生臭さが自分の中から消えるまでは。藤尾の死を悼んでいられる間は。
 ――私を愛してくれる人が望まないような人間にはなりたくない。
 椎葉の、微かに震えながらも凛とした声が耳にこびりついて離れない。
 うるさい。
 うるさい、うるさい、うるさい。
 何も知らないくせに。
 理由もなく虐げられて、自分を殺し続ける毎日を送ったこともない人間が。
 陰鬱としたくらい毎日から救い出してくれた人を喪ったこともない人間が。
 藤尾が安里の死を望んでいないなんて、復讐を望んでいないなんて、あの時安里を突き放した理由なんて、知らない。知りたくもない。
 あの日から何百もの夜を過ぎても藤尾に殴られた頬が痛いのに。胸の傷からは今にもまた血が溢れ出してきそうなのに。
 どうしてあの時誰も自分を死なせてくれなかったのか。
 藤尾と一緒に死んでしまいたかった。
 観覧車が見えるあの港で、藤尾の血と自分の血をひとつにして、死にたかったのに。
 どうして自分だけがどうしようもなく、生きてるんだろう。
 どうして生き続けているんだろう。
 どうして、一人で。


「鉄砲玉として役立たずだった君が、今まで生きていることのほうが、おかしいんだ」
 階段の上で、男がひきつけを起こしたかのような甲高い笑い声を響かせた。
 多分、あれが能城だろう。
 初めて見たが、特に深い感慨もない。もう二度と見ることのない男だ。
 能城の周囲には銃を構えた男が十人余り、整列している。モトイやその他茅英組の構成員を取り囲んでいるようだ。囲い込むことに集中しているせいか、能城より前に出て肝心の能城を省みていない。
 能城の足元には、モトイが蹲っていた。腕を折られているのか、掌があらぬ方向を向いている。銃で撃たれてもいるようだ。血臭が漂ってきた。
 もっとも、これが誰の血の匂いなのかは知らない。
 くたびれた廃ビルの二階は、血の匂いと密かな呻き声が充満していた。
 安里はポケットから取り出したナイフの刃を開いて、階段を上りきった場所に立っている能城の背後に立った。
 誰かが、こちらを見ている。知らない男だ。
 安里はそれを無視して、ナイフを振りかぶった。
「組長、!」
 能城の首筋めがけて振り落とした刃が、突然飛び出してきたスーツ姿の男の頬骨の上に突き刺さった。能城が振り返る。
「ッ、邪魔だ!」
 安里は悲鳴を上げるように叫んでナイフを引き抜くと、顔面を両掌で覆った恰幅の良い男を押し退けた。
 血飛沫が飛ぶ。自分の血かと思った。それくらいドクドクと自分の心臓が早く脈打っているのがわかる。これは生きている証拠だ。
「誰だ、お前は!」
 突然背後から現れた刺客に目を剥いて足元をよろめかせた能城が叫ぶのと、床に倒れ込んだモトイが安里を仰いだのはほとんど同時だった。
「安里、」
 モトイが目を丸くして安里を見ている。
 安里はそれを見ないようにして、目の前の能城に神経を集中させた。
 人を殺したことなんてない。喧嘩もしたことがない。でも、能城を殺すことだけをずっと考えて生きてきた。藤尾が成し遂げたかったことだから。能城を殺さなければ、藤尾を見送れないから。
「あ、さとっ?」
 安里がナイフを横ざまに振り回しながら能城に距離を詰めると、能城が脳天から声を響かせた。銃口が一斉にこちらを向く。構うものか。銃弾の十発や二十発受けても、能城の首にナイフを突き立てるまでは死なない。
 今は、死ねない。
「ッらァ!」
 拳銃を構えた組員が安里の方を向くと、その隙を待ち侘びていたように茅英組の組員たちが一斉に飛びかかった。
 ビル内はあっという間に怒号に包まれて、モトイの声も掻き消える。
「アサト、アサト……あぁ、君は、ほら、アレだろう」
 土埃が舞い、銃声と金属音が響く中で能城の声が安里の耳に不快に響いてきた。能城の腕を掴む。振り払われても、もう一度。骨を皮で覆っただけのような細い腕に爪を立てて引き寄せると、能城が妙に黄色い白目を剥いて嗤った。
「――藤尾が囲っていた高校生だ」
「その名前を口にするな……っ! お前が、おまえ、が」
 安里が振り下ろしたナイフが、能城の肩に突き刺さった。やった。安里は握りしめたナイフの先から腕に伝わってくる、なんとも言えない柔らかい感触に背筋を震わせた。
 違う。これは武者震いだ。
 能城が暴れて逃げようとするから上手く首に刺さらなかった。ナイフを引き抜いてもう一度。
「あ、ははっ――君は藤尾と恋人同士だったんだろう? そうだよな」
 ナイフの柄が血で濡れて、手が滑ってしまう。引き抜けない。
 安里は焦って、何度もナイフを掴み直した。
 どうして。
 どうして、こんなに血が流れているのに能城は平気な顔をしているんだ。これは安里が見ている悪夢なのか。
「安里!」
 背後で、鈍い音がした。
 モトイの荒い息が聞こえる気がする。安里を夜の間ずっと犯し続けていても、あんなに苦しそうな声は出さない。しかし安里は振り返ることもできずに、泣き出しそうな気持ちを堪えてナイフを引っ掻いた。
「藤尾の仇ってわけか、それはおかしいだろう? はは、君はどうして藤尾が死んだか知らないのか」
 能城の青白い顔が、安里の濡れた顔を窺うように見た。
 茅英組の構成員たちが松佳の構成員を組み敷こうとする騒音も、背後でモトイが安里を引き剥がそうとするスーツの男と乱闘する声も、ぴたりと安里の耳に届かなくなった。
「藤尾は、君を守るために死んだんだよ」
 真っ暗になった視界の中で、やたらと赤い能城の唇が嗤う。
 まるで悪魔のような囁き声だ。耳を貸してはいけない。背後でモトイが喚いているような気がする。モトイが悪夢だろうか。能城が悪夢だろうか。
 能城の肩に突き刺したナイフかの柄から血が滴ってきて、モトイの袖口をじわり、じわりと濡らしていく。
「智史」
 能城の腕を掴んだまま力なく立ち尽くしてしまった安里の肩に、暖かい手が触れた。
 振り返ると、藤尾が立っている。いつもと同じ、安里を揶揄うような笑みを浮かべて。
「――藤、……尾、さん?」
 掠れた声で呟くと、藤尾が短く笑った。
 安里の両肩をしっかり掴んで、体ごと振り向かせようとする。能城の腕に爪を食い込ませていた手に藤尾の掌が重なると、安里はあっさりと力を抜くことができた。
「安里、そいつは……――っ」
 どこか遠くに、モトイの声がするようだ。
 でも安里の視界は藤尾でいっぱいで、とても振り返っていられない。
 藤尾だってモトイを振り返るなと言わんばかりにしっかりと肩を抱いていてくれる。
「智史、俺はお前にこんなとこまで来て欲しいなんて思ってない」
 見上げた藤尾の顔は、あの時と変わらない。
 安里が最後に見た藤尾の顔は死後硬直が始まりかけていてどす黒くなっていたから、血色の良くなった今は若返ったようにさえ見える。いやそれとも、安里が老けてしまっただけか。あの時はまだ、高校生だったから。
「ごめ、んなさい……でも、」
 椎葉の言葉が脳裏を過ぎる。
 ――私を愛してくれる人が望まないような人間にはなりたくない。
 藤尾が望まないなら、こんなところまで来るべきじゃなかったのか。安里は、能城の血に濡れた自分の掌が急に恥ずかしく思えてきて、藤尾に見られないように背後に隠した。
 安里を呼ぶモトイの声が、煩い。
 誰かに抑えられでもしているのか、なかなかこちらに近付いては来ないけど。
「でも、何だ?」
 緩くパーマのかかった髪を揺らして、藤尾が安里に耳を寄せるように顔を寄せてきた。
 いつも少し意地悪で、本心が読み取れなくて、でも安里の肌を何度も優しく啄んでくれた唇。安里はそれに吸い寄せられるように首を擡げた。
「だって、――能城が殺したんでしょう、藤尾さんのこと」
 安里は服の裾でおざなりに能城の血を拭うと、藤尾の頬にそっと掌を伸ばした。優しげな藤尾の瞳が細くなって、困ったように微笑む。
「だから、敵を討ちに来たのか?」
「はい」
 両掌で包んだ藤尾の頬は、暖かかった。
 自分で胸を割いた時より、ずっと心が痛む。痛くて痛くて、息が詰まりそうだ。
「藤尾さん」
 愛した人の名前を呼ぶ声も、涙に溺れるようでぼやけてしまう。視界も。
「智史」
 藤尾が困ったように笑って、安里の髪を撫でてくれた。
 でも、笑い出したいのはこちらの方だ。
「藤尾さん、――あなたはもう、いない人だ」
 言葉を失った藤尾と対照的に安里が双眸を細めて微笑うと、安里の足元に涙の雫が音をたてて落ちた。
 藤尾の輪郭を確かめるように頬を撫でても、もう、それが本物とどれほど違っているのかもわからない。
 あんなに愛して、この人のために死んでしまってもいいと、自分はこの人と出会うために生まれてきたのだと信じて何度も触れたのに。もう、思い出せない。
 見上げた藤尾の顔が、どれほど似ているのかも。
「智史、お前何を言って――」
 安里を抱く男の腕が、強くなった。目を覚ませとでも言いたげだ。
 目は覚めている。嫌になるほど頭ははっきりとしている。
 能城がこの男を用意したんだろう。以前茅島のシマでウリをしていた男だ。あの時よりも藤尾に似せてきている。髪の毛も、服装も、確かに藤尾に似ているかもしれない。
 でも、藤尾じゃない。
 藤尾はもう、この世にいない。
「藤尾さんは死にました。もしかしたら――茅島さんは言ってくれなかったけど、私のせいだったのかもしれない」
「違う! お前のせいなんかじゃ――」
 声を荒げて安里を引き戻そうとする男が安里の肩を揺らすと、安里の唇から笑い声が漏れた。
 藤尾は安里のことなんかでそんなふうに取り乱したりなんてしない。嘘の上手な男だったから。
 安里に取り入ろうとして必死になるのは、安里を誘惑することに失敗したら能城に消されるからだ。哀れな男だ。
「藤尾さん」
 それでも安里は、その面影に掌をぴたりと這わせた。
 安里、とモトイが叫ぶ。少し黙っていられないのか。安里は苦笑を吐き出して肩越しにモトイを一瞥した。
 案の定大きななりをしたスーツの男に取り押さえられて、肩を持っていかれそうなのに、それでも安里に向かって来ようとして必死で床を蹴っている。
「安里、テメーは俺のもんだ、からッ……――そんなん、偽モンだ」
 そんなことは、わかってる。
 安里は必死になっているモトイがおかしくて、肩を揺らして笑いながら藤尾に向き直った。
「藤尾さん、私はあの人と生きていきます」
「智史!」
 藤尾の顔が蒼白していく。額に汗も滲んでいるようだ。本物の藤尾のそんな表情は見たことがなかったから、貴重だ。
 もしいつか、安里が事故か病気か、天寿を全うしてあの世で藤尾に会ったら、今日のことを笑って聞かせてやりたい。きっと藤尾は馬鹿にして取り合わないだろうけど。
「あなたが守ってくれた私の人生を、あの人と歩んでいきます」
 胸の傷からは今も血が溢れ出そうだ。傷が痛くて、涙が止まらない。
 安里は大きく息を吸って藤尾を仰いだ。
「藤尾さん、私を愛してくれてありがとうございました。――――さようなら」