猟犬は傅く(20)

光嶋

「モトイさん、ここにもいないようです」
 息を切らして駆けてきた構成員を一瞥して、モトイは唇を尖らせた。
 ビルを退去していった会社が放置していったのだろうスチール製の机に腰かけたモトイは、片足を抱くようにして座ったまま、目の前に転がされた松佳一家の組員を見下ろした。
 数時間前、モトイたちが松佳一家の事務所を訪ねるとそこはもぬけの殻だった。
 ただ一人、自分は事務員として雇われただけだと自称する年配の女性が竦み上がって、この廃ビルの場所を教えてくれた。
 繁華街の裏通りにぽつんと建っているこのビルは昼間だというのに陽の光が差さず、やけに湿っぽい。
 廃ビルに招かれたのが単純な罠だったということは正面の自動扉をこじ開けた瞬間からわかった。
 薄暗いがらんどうのビルの中に待ち伏せていた男たちが、一斉に飛びかかってきたのだ。そんなことは当然、予測済だ。モトイはビルの裏口から侵入させた光嶋たちと呆気無く返り討ちにしてしまうと、能城の姿を探した。
 ビルの中で待ち伏せしていたのは、松佳一家の構成員ではなかった。
 繁華街で暇を持て余しているような学生かフリーターばかりで、光嶋はそうと知ると彼らをすぐにビルの外に追い出そうとした。
「そんなコトしてたら、何度もやり返しに来るだけじゃん」
 ナイフを手にして切りかかってきた二十歳くらいの男の肩に足をかけ、力いっぱい腕を引っ張りながらモトイが言うと、光嶋が「おい」とモトイを止めようとした。
 モトイの足の下で悲鳴が上がって、瞬間、肩の軟骨が断裂する鈍い音が聞こえた。
「相手はカタギだぞ!」
 男の冷たくなった腕を放り投げたモトイに、光嶋が掴みかかる。
「カタギとかそういう、小難しいコトはいいよ。やってることは能城の手先だろ?」
 モトイは光嶋の腕を振り払うと、金属の入ったブーツの音を鈍く響かせながら、別の男の腹を蹴りつけに向かう。
 光嶋がもう一度、モトイの肩を掴んだ。
「やりすぎだ! 見せしめに何人かやっておけば充分だろう」
「うるさいな」
 光嶋の腕を振り払って、モトイが振り返る。
 暗がりで光るぬるりとした白っぽい光が、光嶋を思わず震え上がらせた。
 光島は昔から暴力を見慣れてきていたし、辻との腐れ縁が高じて暴力団構成員にまでなっている。辻をはじめとした強い男はいくらでも目の当たりにしてきたし、十文字のようにどこか気の触れたような男も見てきたつもりだ。
 しかしモトイのそれは、光嶋をどこかゾッとさせた。
 まるで他人――攻撃する相手のことを、同じ人間とも思ってないかのようだ。
 虫の手足でももぐかのように相手の戦力を物理的に奪って、それを正しいと思っている。
「モトイさん! 構成員見つけました!」
 思わず言葉を失った光島の目を覚ますように、ビルの二階から舎弟の声が響いてきた。
 ――そうして捉えられ、引きずり出されてきた構成員が今、モトイの前で放り出されたような格好で転がっている。
 松佳は数で圧したつもりかもしれないが、所詮は素人を何人集めても、暴力団の集団には太刀打ちできない。
 単純に、武器が違う。いくら今時のチーマーでも簡単に銃を手に入れられるほど日本の治安は悪くない。
 次に、覚悟が違う。殺す気で行かなければ殺されるのだという世界を潜り抜けてきた、経験値も。
 松佳の正式な構成員は四階建ての古ビル内に、たった四人だけだった。まるで大勢のアルバイトを抱えた飲食店と同じだ。
「能城はどこだ?」
 光嶋が構成員の頭を掴んで引き起こすと、初老といった感じの痩せぎすな男はうつろな目を逸らした。
「どこだって聞いてんだよコラァ!」
 茅英組の若い衆が痺れを切らしたように怒声を上げる。砕けたガラスを踏みつけて、派手に音を鳴らすが松佳の人間は肩を震わせることもしなかった。
 さすがに肝が座っている。
 光嶋は掴んだ頭をぐらぐらと揺らしながら、残りの三人を見渡した。年齢こそばらつきがあるが、さすが年季の入った組だけのことはある。菱蔵とは違う。任侠物の凄みがあった。
「アニキ、灰谷さん見つかったそうです」
 菱蔵の組員が携帯電話を片手に報告を入れると、光嶋が掴んでいた頭を離した。床に叩きつけようとしたのではない。急に頭を話された男はがくっと一瞬大きく前のめりになったが、それきり泥のように動かなくなっただけだった。
「おい」
 携帯電話に出ようとその場を離れた光嶋と入れ替わるように、モトイが机をするりと降りて立ち上がった。妙に静まり返ったビルに、モトイの大きな声が響く。
 光嶋が振り返ると、モトイは階下の若い兵隊たちが持っていたのだろう、安っぽい角材を手にしていた。
「ノシロはどこにいるのか、知ってるんだろ? お前ら、知ってるよな」
 モトイの口元は弛緩していて、笑っているようですらある。
 光嶋は電話に出て灰谷の無事を確認すると、こちらの状況を簡単に説明だけしてすぐに通話を切った。その瞬間、モトイは手に持っていた角材をスチール机の角に打ち付けた。
「早く言えよ!」
 角材が細かい破片を飛ばしながら真っ二つに折れる轟音を聞きながら、光嶋はすっかり怯えた様子の組員の代わりにモトイへ歩み寄った。
 菱蔵は灰谷を人質に取られていたから事態は一刻を争った。しかし、茅英は違う。時間を駆けてでも確実に能城を仕留めることが優先ではないのか。
「お前ら喋れなくなったのか? あ? 話したくなるようにしてやろうか」
 ゆらりと方向を変えたモトイが、床に這い蹲ったまま寝ていればこの時がやり過ごせると信じ込んでいるかのような若い構成員に標的を絞った。
「お前らこういうおまじない、知ってるだろ」
 モトイが男の首を掴んで、力ない上体を引き起こす。
 男は意識的に、モトイを無視しているようだ。抵抗する素振りすら見せない。そうやっていれば相手を苛つかせるということをわかっている。
 しかしモトイは苛ついているようには見えなかった。事務所を出てきたばかりの時のほうが息巻いていた。今は冷え冷えとした態度が、逆に光嶋を恐れさせた。
 そのモトイが、折れた角材を持ち直した。
「っ、おい……!」
 光嶋が反応するより早く、モトイが掴みあげた男がガタッと床を蹴った。
「ほら、話したくさせてやるよ。ノシロは今、どこにいる?」
 モトイは折れた角材のささくれだった先端を男の目の前に突きつけて、目蓋を半分伏せている。男が逃げ出そうと抵抗を始めたが、もう遅い。モトイは男の首の後ろを押さえて、びくともさせない。
「待っ……よせ、!」
 冗談だろうと言うかのように笑みを浮かべた男が、モトイの顔をちらりと窺った、その瞬間。
 まるで動物を締めあげたかのような悲鳴が響き渡った。
「ぎゃあっ――――……ッ! ぁ、あっ……あ、」
 その場にいた茅英組員も菱蔵組員も、たまらずに顔を背けた。
 モトイの手にした木材の先には、眼窩からやたらと水っぽい血液を流した男が大きく痙攣しながら串刺しになっていた。光嶋は一瞬、口を半開きにしたまま硬直して――やがてすぐに、弾かれたようにモトイに飛びついた。
「モトイ、よせ。やりすぎだ。それじゃ話すどころじゃないだろう」
 モトイの腕に手をかけて止めさせようとすると、モトイがゆっくりと光嶋を振り返った。
「俺はこいつらのことをよく知ってるんだよ」
 モトイの弛緩した唇が、笑い声を漏らしたようだった。光嶋が思わずモトイの腕を離して身を引くと、モトイが男の目玉から勢いよく角材を引き抜いた。
「――……ッ、ぁ、っあ……!」
 モトイが振り上げた角材から、水が飛散る。飛沫を浴びた組員が、短く悲鳴を上げた。顔を掌で覆いたいのだろう、後ろ手に縛られた男が芋虫のように床の上をのたうち回る。
「俺はなぁ、こいつらのことを知ってるんだ。――こいつらがどんなに卑怯で、クソみたいで、てめぇら以外の人間なんてどうでもいいと思ってるクズかってことを」
 モトイはゆらりと腰を上げると、啜り泣くような声を上げながらのたうつ男の尻を濡れた木材で思い切り殴りつけた。
「ァが、っあ、・あっ……! 能城さ、ッ組長は……!」
「うるせぇ!」
 もう一度、モトイの角材が男の背中をしたたか打ち付けた。角材がまた半分に折れて、短くなる。
 モトイは正気じゃない。光嶋は歯噛みして、背後にいる茅英組の人間を見た。しかし誰もモトイを止めようとしない。
「お前は俺のことなんか覚えてねぇだろうが、俺はてめぇらのことを覚えてんだよ!」
 喉を潰すようなモトイの怒鳴り声。
 茅英組の人間は息を潜めるようにして、モトイの暴力を眺めていた。
 詳しくは知らないが、以前茅島が組の人間に裏切られたという話を辻から聞いたことがある。怯えるでも諦観でもなく、まるで何かを推し量るようにモトイを見つめる茅英組の人間を見ていると、光嶋は口を出すのを躊躇った。
「なぁ。……お前、柳沼さんとヤッただろ」
 目玉を貫かれた男がやがて静かになると、モトイは傍らの痩せぎすの肩を蹴りつけた。
 隣の仲間が助けを求めるように叫んでいてもビクともしなかった男だ。モトイに肩を小突かれても、風が吹いた程度にしか感じていないようだ。
「あの人のこと、クスリで脅して、好き放題ヤッたんだろって言ってんだよ!!」
 モトイの声は掠れている。
 背中を丸めて、まるで縋りつくように男の肩を掴んだモトイの姿に、ようやく茅英組の人間が歩み寄った。
「……モトイさん、」
 もういい、と言うようにモトイを抑えようとした手を力なく振り払って、モトイは角材を握り直した。
 モトイの頬が濡れているようだ。しかし強く歯を食いしばって、まるで鬼のような形相にも見える。
「――……お前らも同じ目に遭わせてやるよ」
 うわ言でも呟くように、モトイが低い声で言った。
 殴りつけても泣いて縋っても仲間を痛めつけても無反応の男の体を突き飛ばして、モトイが角材を逆手に握り直す。
「柳沼さんがどれだけ苦しい目に遭ってきたのか、どれだけ我慢してきたか、どれだけつらかったか、お前らにも少しはわかるだろ、同じ目に遭えば」
 早口でまくし立てながらモトイが男のスーツのベルトに手をかけた時、背後から硬い足音が響いた。
「っ、!」
 放心したようにモトイを眺めていた光嶋が振り返ると、逆光の中に細身の男が立っていた。
「それは心外だ」
 ビル内に反響する、甲高い声。
 光嶋は身構えた。
 幾つもの銃口が、こちらを向いている。
「――柳沼くんは、自分から望んで我々と愉しんでいたのに」
 カツ、カツと跫音を響かせながら歩み寄ってくる男は、釣り上がった目を細め、皮膚が裂けたかのように妙に赤い唇を笑ませた。
「……能城!」
 光嶋が身構えた瞬間、乾いた銃声が響いた。背後を振り返る。銃を持った組員の腕が、手が、的確に撃ち抜かれていた。
 既に情報が回っている。光嶋は確信した。カタギを大勢けしかけたのは情報収集のためだ。光嶋たちが何人で来ているのか、獲物は何を持っているのか、手の内を曝け出させるためだけに十数人ものカタギを暴力の前に放り出したのだ。
「……ッ、」
 光嶋は歯噛みした。
 ここで引くわけにはいかない。灰谷が保護された今、辻がこちらに向かってくるのも時間の問題だ。それまで、時間を
「あなた方の応援なら、来ませんよ」
 数十メートルは先に立っているはずの能城に心を読み透かされたように射抜かれて、光嶋は息を呑んだ。
「同じ堂上会の組長を何人も手にかけていた犯人を匿ってたとあっては、会長も無視してはおけませんからねぇ」
 能城は身を捩るようにして笑った。
「……ッ、元はといえば、お前らがつまらねぇ嫌がらせしてきたんじゃねぇか!」
 光嶋の背後で一人が叫び始めると、口々に罵声が止まらなくなった。
 いくらそんなことを言っても、能城には届かないのに。良心の欠片でもあれば、こんな卑劣なことを続けていられない。同じ組の人間も、一般人も、自分以外はただの駒にしか思ってないような男だ。
「――……シロ、」
 焦って押し黙った光嶋の視界の端で、ゆらり、と影が動いた。
「! モト、……ッ」
 手遅れだ。
 もっとも光嶋がいくら早く気付いていても、モトイを抑えることはできなかっただろう。
 モトイは銃弾が疾走るようなスピードで床の上を滑ると、能城に飛びかかった。
「ノシロォォ!」
 地響きのような声だった。
 床面すれすれを疾走って行ったモトイが飛び上がって、能城の首筋に折れた角材を突き立てようとする。光嶋の目には、それは一見成功したかのように見えた。しかし、その寸前に能城の傍らに立っていた屈強な漢によって弾き飛ばされ、モトイの細い体が床に転がり落ちる。
「モトイ!」
「おっと、動くなよ」
 自分は指一本動かさずふんぞり返った能城が、光嶋たちを威圧するように告げた。
 その手には小銃が握られている。
 能城だけじゃない。能城の背後に連れ立った構成員は全員銃を構えて、光嶋たちを取り囲むようにゆっくりと距離を縮めてきている。
 光嶋の背後では、腕を撃たれた組員たちの呻き声を押し殺している気配もある。
「……ッ!」
 光嶋は視線を走らせた。隙はない。目の前に松佳一家の構成員が四人いるが、能城たちは誰一人として、彼らを引き戻そうとはしない。最初から捨てるつもりの組員だったということか。
「殺すっ……! 殺す、殺す殺す殺す殺す、殺すッ!」
 割れた声で喚くモトイが辻の二倍ほどはあるかというほどの太い腕をした男に床に押さえつけられて、もがいている。
「君は、柳沼の飼い犬だったかな」
 能城がモトイを見下ろして、呆れたようにひとつ、溜息を吐いた。
「――可哀想に。……君さえそんなに非力でなければ、茅島を殺せたのに」
 光嶋の背後で、茅英組の構成員が殺気立ったのを感じた。無理もない。
「茅島を殺せていたら、今頃柳沼くんだってまだ君と一緒にいられたんだよ」
 モトイの怒声が、一瞬止まった。
 光嶋の場所からモトイの表情はよく見えないが、威嚇するような唸り声だけがか細く、聞こえてくる。モトイの泣き声なのか、もはや声にならない怒りなのかもわからない。
「全部、君の失敗のせいだ」
 能城が高らかに笑う。
 能城以外、笑う人間はいなかった。
 吐き気を覚えるほど腹が立っているのは光嶋だけじゃないだろう。
「茅島さえいなければ柳沼くんは薬物を抜く苦しみを味合わずに済んだし、今でもまだ我々と毎晩愉しんでいられたのに」
 能城は細い腕を緩く組むと、わずかに首を捻った。
 不細工な面構えをして、芝居がかった所作がいちいち神経を逆撫でする男だ。
「まぁ、今からでも遅くはないか。柳沼くんが死んだわけでもなし。――あなた方が抗争を起こしてくれたおかげで大義名分のもと茅島を殺すことができれば、また柳沼くんを呼び寄せることは容易い」
「ッ柳沼さんに手ェ出すな!」
 モトイが状態を跳ね起こして男の腕から逃れようと床を掻いた。
 それを見計らっていたように同時に、茅英組の組員が駆け出す。早い。光嶋が息を呑むより早く、匕首を握った組員が能城の元へ転がり込んだ。
 しかしすぐに銃声が響く。
 モトイの悲鳴。
 光嶋は、半歩退いた。
「茅島さえいなければ、柳沼くんの方から私に連絡してくることになる」
「そんなわけあるか、ッ! 柳沼さんは、あいつが」
 モトイの息が荒い。撃たれたのか、男に腕を折られたのかわからない。両方かもしれない。
 ただ光嶋がこれだけ離れていても、モトイの目が暗がりで爛々と光っているのはわかった。
「……まあ、君には関係のないことだよ。ここで死ぬんだから」
 蛇のような能城の視線が、モトイを見下ろす。
 光嶋は、飛びかかるタイミングを測った。命さえ惜しまなければ、飛び込むことはできたかもしれない。しかし、十文字の声が脳裏を過ぎる。あんな不遜な馬鹿の言うことを、今際の際に思い出したくもないはずなのに。
「鉄砲玉として役立たずだった君が、今まで生きていることのほうが、おかしいんだ」
 アッハ、と能城が声を上げて笑った。
 瞬間。
 ひたり、と足音が聞こえたような気がした。
 それを聴いたのは光嶋だけかもしれない。松佳の人間は誰一人、振り返っていない。
 能城の背後に、人影が揺れる。
 光嶋は目を疑った。しかし薄暗いビルの隙間から差し込む一筋の光の中に、細かく舞い散る埃と同じような軽やかさで、それは立っていた。
 おおよそ極道者とは思えないような、普通の青年だった。