猟犬は傅く(19)

瀬良Ⅱ

 茅島から射撃訓練を受けて来いと言い出したのは、他でもない十文字だった。
 今まで組のマカロフを撃ったことはないわけではなかったが、まともに的を射てたことがない。本物の拳銃はテキ屋の射的で使うようなコルク銃とはわけが違って、反動も凄いし一発あたりのコストも違う。実践で使うようなことになれば弾切れを防ぐためにも一発ずつ確実に命中させていかなければならない。
 いつもの調子で言いながらも、その時既に十文字の頭に戦争のつもりがあったことは瀬良にもわかっていた。その頃にはもう、灰谷は事務所に顔を出さなくなっていたから。
「目は両目を開けろ」
 茅島は良い教師だった。
 辻が兄のように慕っていたというのも肯ける。堂々としていて信頼の置ける感じがする。瀬良がどんなに下手でも、腕を組んで微動だにせず「次」と言う。
 言葉少ななところは辻に似ているような気もした。
「瀬良、引き金を引く瞬間、何を考えてる」
 自前だという改造銃を片手でやすやすと撃ちながら、茅島は言った。
 サイレンサーを着けていても発砲の衝撃を抑えて首が疲れているせいで、頭の中がわんわんと鳴いている。瀬良が「え?」と聞き返すと茅島は人型をした的の眉間の部分を全弾撃ち抜いてから、銃を下げた。
「暗夜に霜が降るごとく――という言葉がある」
 瀬良は知らず、背筋を伸ばして茅島の言葉を聞いていた。
 茅島の言葉には説得力がある。重みがある。この人と戦っても勝てないだろうと思うより先に、この人の話を聞いていて損はないと思う。
 十文字の言うことはいつも駄菓子以下だけど。
「引き金を引く時は、目で引くな。心で引くんでもない。暗夜に霜が降るごとく、静かに引け、というものだ」
 茅島の静かな双眸が瀬良を射抜いた。
 瀬良は、まるで茅島の舎弟にでもなったように全身を緊張させて、はい、と神妙な顔で肯いた。 


 高来組組長の邸は閑静な住宅地の中にあった。
 いくら瀬良の拳銃にサイレンサーを着けていても、死にもの狂いでかかってくる相手の口にまで蓋ができるわけじゃない。
 あまり早朝から近隣住民を震え上がらせるのも気が引けるが、仕方がない。灰谷の身の安全と天秤にかけたら、ご近所さんには諦めてもらうしかない。
 早く終わらせることと流れ弾が無関係な人を傷つけないこと。これに気を付ける以外、瀬良にはできない。
「っぐ、ぁッ!」
 辻の拳を深々と内蔵に打ち込まれて、大の男が目玉をぐるりと裏返す。口からあぶくを飛ばした男を放り投げて、辻が高来組長の邸に土足のまま上がり込んでいく。
 瀬良が菱蔵に入って抗争らしい抗争を経験したのはこれが初めてだが、喧嘩の経験なら少なくはない。もっとも瀬良の知っている喧嘩なんて素人のやるものだけど、ヤクザが喧嘩のプロであることを加味しても辻のそれは、異常だ。
「ぅあ、……ぁぁあ、っあ!」
 長刀を振りかざした組員が、廊下の向こうから駆けてくる。身構えた辻の脇から、障子を蹴破ってもう一人。
「!」
 辻は視線を廊下の奥に向けたまま、過たず傍らのもう一人へ腕を伸ばした。そっちだって匕首を構えている。しかし辻はそれに気付いていないかのような手つきで男の首を掴み、自分へ引き寄せた。
「っ、辻さん!」
 慌てて瀬良は拳銃を構えたが、辻の影になってしまった男を撃つことはできない。それどころか、瀬良の後方からも獲物を握った組員たちが押し寄せてきている。
 瀬良は辻に背中を向けて、グリップを握った。
 脇を締めて、肘を伸ばす。両目は開けたまま照準を絞って、静かに引き金を引く。
 タッ、と短い音とともに閃光が走ったかと思うと瀬良の視線の先で男が大きく後ろに仰け反って、斃れた。
 呻くような声もない。即死だ。瀬良の手には何の衝撃もない。ただ、小突かれた程度の衝撃があっただけ。
 これが人を殺すっていうことなのか、と灰谷に尋ねたかった。もし他の人間が不用意にそんな質問をしようものなら灰谷はいい気分がしないだろうが、瀬良が尋ねれば、その虚無感を汲んでくれるだろう。
 これが人を殺すということなのか。
 驚くほどの呆気なさに、瀬良は首の後に冷たいものが這うのを感じた。
 灰谷はずっとこんなことをしてきたのか。
 灰谷の顔を見て、手に触れて、それを確かめたかった。だから、今この場を進まなければいけない。瀬良は自分に飛びかかってこようとする強面の組員に引き金を引いた。すぐにその背後で瀬良を狙っていた、拳銃を構えた組員の二の腕を狙撃する。
 瀬良の目の前はあっという間に血に塗れて、頭を吹き飛ばさずに負いた男たちの啜り泣くような呻き声だけになった。
「随分腕を上げたじゃないか」
 背後からの声に肩を叩かれて瀬良が我に返ると、辻は床に崩れ落ちた男の手から日本刀を拾い上げるところだった。
 辻は返り血を浴びて、左目の傷まで赤く染まっている。ともすれば瀬良までぞっとするような、まさに悪鬼というような格好だ。
 辻の足元には地震の吐瀉物に塗れて気を失っている男と、身内の刃に切りつけられて失禁しながらもがいている者、日本刀で頭を割られて気絶しているのかあるいは死んでいるのか――とにかく瀬良の目の前の光景よりも、惨たらしかった。
「先生が、良かったもんで」
 瀬良は無理に笑ってみせると、今のうちに弾倉を入れ替えた。
 空の薬莢をその場に捨てて、邸の中に歩み入っていく辻の後に続く。その間も、即死させておかなかった組員の動きに神経を集中させた。
 殺る気で入ったのだから、殺らなければ殺られる。当然のことだ。
 瀬良が学生の頃に明け暮れていた喧嘩だって基本的には同じことだ。相手を殴っておいて、自分が殴られないなんてことは有り得ない。殴るなら、殴られる覚悟をしておかなければならない。
 といっても単純なことじゃない。
 瀬良からしてみたら最初に殴りかかってきたのは高来組の方だ。何しろ、瀬良が命より大事な灰谷を襲うような真似をしたのだから。しかし高来組からしてみれば、最初に組長を殺しに来たのは灰谷の方だ。
 どうして灰谷が殺しにきたのかといえば、十文字曰く高来は松佳一家の能城と共謀してクスリの売買をしていたから――ということだ。
 瀬良には難しいことはわからない。ただ、灰谷を助けたい。それ以外は考えないことにしていた。
「瀬良」
 辻が、手の先に買い物袋と同じくらいの気負いのなさで日本刀をぶら下げながら瀬良を振り返った。
「はい」
 辻を見習って平静さを装いながら、瀬良の耳元では自分の心臓の音が絶えなかった。
 平屋の広い日本家屋の奥から、悲鳴が聞こえた。
 灰谷のものかと、一瞬息を呑んでしまう。違う。そんなはずがない。銃声が響いた。今すぐかけていって灰谷がそこにいないことを確認したいけど、辻の足取りはゆっくりとしている。
 焦ってはいけないということだろう。
 邸に踏み込んだのは菱蔵の構成員十人足らずだ。それぞれが灰谷を探して攻防している。どこから悲鳴が聞こえてもおかしくはない。
 辻が廊下の角を曲がると、その足元に誰かが仕留め損なったのだろう、顔面を赤く染めた男が辻にしがみついてきた。
「っ!」
 瀬良が身構えるより早く、辻が右手の日本刀を振るった。
 斬り捨てるというよりは、鋼の棒きれで叩き折るというような鈍い音が響いて、男がその場に崩れ落ちた。
 廊下の先には三人ほどの男が転がっていた。首があらぬ方向に捻れて、息絶えているものもいる。瀬良は思わず顔を背けた。
 こんな場所に灰谷がいてほしくないという気持ちと、一刻も早く灰谷を見つけ出して安心したいという気持ちで頭がおかしくなりそうだ。
 灰谷は死体なんて見慣れてると笑うかもしれないけど。
「この近所の美味しい洋菓子店は知ってるか?」
 不意に身を屈めた辻が、廊下で寝そべっている男の服で日本刀についた油を拭いながら尋ねた。
 ――そういえば、出掛けに十文字から帰りにケーキを買ってくるように頼まれていた。
 瀬良は一瞬足を止めて目を瞬かせると、息を吐きながら無理に笑ってみせた。
 辻が瀬良の緊張を紛らわそうとしてくれているのがわかって、手のひらにべったりと汗をかいているのを自覚した。拳銃から指を引き剥がして、ジャージの腿の部分で拭う。
「ああ、このへんって……高校の近くですよね。知ってますよ。一日限定二十個の絶品サバラン売ってる店」
 開店は十時だったかなあ、と瀬良が携帯電話で時間を確認しようとした時、背後から気配を感じて振り返った。片手で引き金を引く。
「ぎゃあっ」
 振り向きざまだったせいか、眉間を外れて右目の下を撃ってしまった。もう一発。今度は額の中央を撃ち抜くと、男は一、二度大きく痙攣したあと動かなくなった。
「辻さん」
 瀬良は大きく息を吐き出して、辻を振り返った。
「店の場所教えてあげますから、俺と灰谷さんの分も、ケーキ買ってください」
 辻が右の眉をちょいと持ち上げたあと、ふと笑った。
「ああ」
 財布忘れた、とかナシですよと瀬良が辻の脇腹を小突くと、辻が肩を震わせて笑う。
 少し、足取りが軽くなったように感じた。気のせいかもしれない。それでもいい。灰谷のところまで歩いていける分だけ動いてくれれば、それでいい。
「瀬良」
 廊下の突き当たり、静まり返った和室の扉はまだ開け放たれていない。瀬良が肩の高さで拳銃を構えながらそこに注視すると、同じように息を詰めた辻が微かな声で呟いた。
「灰谷は無事だよ」
 優しい、兄貴のような声だった。
 瀬良は気を抜いたら大きな声を上げて現実から目を背けたくなるような衝動を抑えながら、扉の前でもう一度、大きく深呼吸した。
「はい」
 辻の眼を見返して、一度肯く。
 それを合図にしたかのように、辻が扉を開いた。
「動くな」
 銃口を先に、それから体を転がり込ませる。威嚇で一発、打ち込もうかとも思った。
 しかし次の瞬間視界に飛び込んできた光景に、思わず瀬良の指先が強張った。
「瀬良」
 後から入ってきた辻が、叱咤するような檄を飛ばす。
 わかってる。
 わかってるけど、呼吸がうまく継げない。
 広い和室の奥で、床の間を前にした灰谷は横たわっていた。両腕を後ろ手に縛られて、血まみれの服がそこで皺くちゃに丸められている。足は縛られていないが、衣服はほとんど、灰谷の体を覆ってはいなかった。
「――……灰谷さんに、何した」
 下卑た笑いを浮かべた高来組の構成員は、その部屋に六人ほどいた。
 辻と瀬良を前にたった六人じゃ、ものの数にもならない。
 しかしずんぐりと太った半裸の男が灰谷を盾にしようとでもするように気を失っている灰谷の足首を掴んで手繰り寄せようとした。
「触るな!」
 瞬間、瀬良は反射的に引き金を引いていた。
 標的は逸れて、床の間の柱を抉って跳ね返る。
「瀬良、落ち着け」
 辻の声がどこか遠くに感じられた。
 怒声を上げながら飛びかかってくる男に、瀬良は拳銃を握ったままの腕を振り下ろして殴り飛ばした。一度殴りつけた男の腹を思い切り踏みつける。足の下で内蔵が捩れるような、嫌な感触がした。
「瀬良」
 辻が日本刀を振るう傍らで瀬良の様子を気にしてくれていることはわかる。
 床の間の前で醜い顔に汗を流して灰谷の方を抱き起こしているのが高来組の組長なんだろうということも。
 それ以外はわからない。
 考えたくなかった。
「灰谷さんに触るな」
 自分の呼吸が、動物みたいに荒くなっている。それすらどこか現実味のないもののように感じる。
「は、はは……私を撃ったら、こいつも道連れだぞ? そんな下手な腕でマカロフなんて振り回すんじゃないよ、ボンクラの菱蔵が」
 腸が煮えくり返りそうだ。全身に鳥肌が立つほど気持ちが悪い。
 脂ぎった男の指先が灰谷に一ミリ触れているだけでも耐えられないのに、男は瀬良が畳の上に足を引きずるようにして近付くと、灰谷の体を自分のでっぷりと太った腹の上に乗せた。
「触んなっつってんのが聞こえねぇのか!」
 瀬良はもう一度引き金を引いた。灰谷に当てるわけにはいかない。でも、怒りと嫌悪感と悔しさとで、頭がぐちゃぐちゃだ。
 辻があらかた打ちのめした男たちがこの部屋で何をしていたのか。衣服を切り裂かれた灰谷を囲んで、何を。
 双眼から涙が溢れてくる。ぶるぶると手が震えて、照準が定まらない。
 引き金は、目で引くな。心で引くな。暗夜に霜が降るごとく、静かに引け。
 茅島の声が脳裏をよぎる。
 わかってるよ。
 わかってるけど。
「――――……だよ、」
 くぐもった声が、聞こえた。
 まるで地を這うような低い声。
「……誰が、ボンクラの菱蔵だって?」
 思わず、辻を振り返る。辻は日本刀の柄で最後の組員を殴りつけているところだった。
 再び瀬良が床の間を振り返った瞬間、弾かれたように高来組長が声にならない悲鳴を上げた。
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。しかし次の瞬間灰谷の体が突き飛ばされて、瀬良の足元まで畳の上を滑ってくる。
「灰谷さん!」
「瀬良、殺せ」
 灰谷の声は冷静だった。
 瀬良も即座に前方へ視線を転じて、銃を構える。脇を締め、肘を伸ばして両目を開く。暗夜に霜が降るごとく、引き金を引く。
 股間を抑えながら四つん這いになってその場を逃げ出そうとした組長の下肢に一発。蛙が潰れるような声を上げてひっくり返ったところを、眉間に一発。
 組長は口内いっぱいに真っ赤なあぶくを吹きながら、やがて、動かなくなった。