猟犬は傅く(18)

茅島Ⅳ

 事務所に戻ると、便所の前に組員が肩を寄せて立っていた。
 茅島が視線を呉れると疲れきった顔で肩を竦める。便所の扉についた採光用のすりガラスが割れていた。どうやら、モトイを閉じ込めてあるらしい。
 茅島は短く息を吐くようにして笑うと、ジャケットを脱いで手近なカウチにかけた。
「戦争だ」
 一言、声を上げると、茅島と一緒に事務所へやってきた光嶋たちを訝しがっていた組員たちが一斉に茅島を振り向いた。
「菱蔵組が動いた。松佳一家事務所にカチこむぞ。――ウチも、柳沼が世話になってた借りがあるからな」
 ガタタッと大きな音がしたかと思うと、便所の扉が蹴破られた。慌てて便所の前に立っていた組員がモトイを抑えこもうとするが、唸り声ひとつ上げないモトイは目をギラギラと光らせて、白くなった唇の中で歯を噛み締めている。
 既に腕は傷だらけで、誰のものかしらないが頬には血もついていた。
「茅島さん、俺も行く」
「もちろんだ」
 茅島はモトイから視線を離すと、煙草を銜えた。
「菱蔵の兵隊を借りてきた。一緒に行くぞ」
 茅島がジッポの火をつける音以外、茅英組事務所は静かなものだった。その場にいる組員が緊張をあらわにしている。
 柳沼に世話になった組員は少なくない。あの一件が明るみになって以来、柳沼が長い間能城の食い物にされていたといたと知って憤っていない組員はいないだろう。
 それに加えて、ここのところの小さな嫌がらせだ。茅島の店が襲われた時に怪我をした組員もいる。
 茅島はゆっくりと紫煙を吸い込むと、長く息を吐き出した。
「茅島さん」
 それを急かすように、モトイが声を上げる。まるで待てをされた犬のようだ。茅島は思わず肩を震わせて、低い笑い声を上げた。
 組長の気が触れたかと身を竦めた組員の様子が見えた。
 そう広いとも言えない事務所だが、そこに集まった組員の表情、発汗の具合、心拍数まで手に取るようにわかる。神経が研ぎ澄まされていくようだ。
「俺自身、能城には借りが山ほどある」
 肩に残った銃創を軽く握った拳で示してみせると、組員が眉間の皺を震わせる。どうも、茅英組の構成員は感傷的な人間が多いようだ。茅島は自分が無意識にそういう人選を行ってるのかと思うと、天を仰ぎたくなった。
 こういう時、傍らに柳沼がいれば「俺は感傷的か?」と尋ねることができただろう。
 反応も容易に想像がつく。
 わざとらしくとり澄ました顔をして「ご自分で気付いていらっしゃらなかったんですね」とでも言うだろう。しかし決まって、すぐ後に「しかしそんな茅島さんだから組員がついてくるんです」――と、笑ったかもしれない。
 思えば、茅島にとって柳沼は藤尾を喪って以来久しぶりにできた友人のようなものだった。
 友人だなんて言ったら柳沼は呆れた顔をしただろうし、ずっと茅島を殺す機会を伺っていたのなら心底不快だったかもしれない。でも茅島にとって柳沼は確かに、大切な友人だった。
「俺の個人的な恨みを言わせてもらえば――」
 誰かの机の上の山盛りになった灰皿を引き寄せながら、茅島は視界の端に止まった光嶋を一瞥した。
 どうも、十文字の演説に感化されたようだと自覚せざるを得ない。とはいえ茅島はあんな大仰な真似はしないが。
「俺は大事な友人を二人、能城によって失っている。一人は藤尾という男、もう一人は、柳沼だ」
 モトイの荒い息遣いが聞こえた。今にも鎖を噛みちぎって駆け出したがっている野犬のようだ。
 安里という媒体を通してだが、モトイと茅島はひどくよく似ている。だから傍に置いておいた。それだけだ。十文字とは違う。今頃高来組に向かってる瀬良の心中を思うと、同情する。
 茅島はまだ残りの長い煙草を灰皿に押し付けて、深く息を吐いた。
「……お前ェらも、能城に恨みつらみがあるんじゃねぇのか」
 一瞬、事務所内が凍りついたように静まった。
 その後、地響きのような低い声で組員が一斉に声を上げる。時代が時代なら、鬨の声というやつだ。
「ここにいない組員を招集しろ」
「獲物は金庫の中だ」
 一斉に組員たちが、自発的に指示を上げながら動き出す。
 茅島が腕時計に目を落とすと、朝の五時を回ろうとしていた。灰谷が捉えられてから三時間。早朝からのカチコミは今ひとつ気が乗らないが、こうなってしまっては仕方がない。今更夜襲も何も、ないだろう。
「モトイ」
 喧騒に包まれる事務所内で一人、蹲るように背中を丸めていたモトイを呼ぶと、弾かれたように顔を上げた。
「今までよく我慢したな」
 茅島は柳沼のようにモトイの頭を撫でてやるようなことはしない。
 それをするのは柳沼の役目だ。能城の件が片付いてモトイの身も落ち着けば、いつかまた柳沼に会うこともあるだろう。
 その時、モトイは柳沼に撫でられるような犬ではないかもしれないけれど。
「思う存分、暴れていいぞ」
 茅島が笑うと、モトイが黙ったまま肯いた。
 茅島はカウチに放った上着を取って肩に掛けると、準備に慌ただしい組員を振り返った。
「行くぞ!」
 扉の前で待たせた光嶋たちも、大きく肯く。
 茅島を先頭に立てて事務所の扉を再び開こうとした、その時――場に似つかわしくない間の抜けたノックが、室内に響いた。
 思わず、ノブにかけた手を引く。
 急襲をかけるつもりが、一足遅れたか。身構えた茅島を庇うように、モトイが前に転がり出てきた。瞬間、扉が開く。
 そこに立っていたのは、迫だった。
「おはようございます、茅島さん」
「こいつ……!」
 今にも飛びかかりそうなモトイの肩を抑えて、押し留める。
 いかにもインテリ然とした細身の長身に、暴力団員を前にして隠し切れない怯え。椎葉の事務所で初めて見た時は得体の知れない男だと思ったものだが、おそらくこいつは、これが何も取り繕っていない真の姿なのだろう。
 しかしこのタイミングで事務所を訪ねてきて、みすみす捕らわれるためでもあるまい。
 松佳に飼われている身だし、個人的には椎葉の恨みもある。
「何のようですか、迫先生。ウチは今ちょっと忙しくてね。……先生のお茶に付き合ってる時間はないんですが」
 茅島が見下ろすようにして迫を見据えると、強張った肩が震えて、迫の怖がっていることが見て取れた。
 やくざ者に関わっておいてそんなに臆病なことじゃ、長続きはしないだろう。第一、茅英組に一人で放り込まれるというのはどういうことだ。
 能城の策略を訝しんで茅島が目を眇めた時、迫の影から男が一人、顔を覗かせた。
「朝駆けか。穏やかじゃないな」
 千明だ。
 茅島は息を呑んだ。
「……何のことだ? ウチと菱蔵の若い衆で兄弟盃交わそうっていうだけだよ。穿つな」
 ハ、と小さく笑った茅島が視線で光嶋を指すと、光嶋は小さく肯いて、迫の脇を通りすぎて事務所を出ていく。聡い男だ。
「菱蔵とお前のところで兄弟なんざ、ガラじゃないな」
 千明の薄暗い眸が、茅島を射抜いた。
 先日千明が訪ねてきた時に言い出し難そうにしていたのは、このことか。
 迫は確か、検察上がりだと言っていた。警察に力もあるだろう。ヤクザの内輪揉めに警察を引きずり出してくるなんて、能城はつくづく腐ってるらしい。
「何の用だ。用事なら昼間にしてくれないか。俺はこれから親父と散歩があるんでね。――ほらお前ら何してる、菱蔵のヤツら待たせてんじゃねぇよ」
 茅島が背後を振り返ると、組員たちはぎこちなく肯いて事務所を出ていく。
「モトイ、お前もだ」
 掴んだ肩をトッと押して、モトイを扉の外に突き出す。
 モトイは一度だけ茅島を振り返って、それからビルの階段を駆け下りた。
 先に出ていった組員が、階下で声を上げた気配がした。と、階段を上がってくる足音が聞こえる。茅島は千明に視線を滑らせた。
 鼻先に、令状が突きつけられる。
 階段から上がってきたのは、警視庁の文字が印刷された段ボールを抱えた捜査員の団体だった。
「今日はお前のオヤジさん、散歩を休むようだよ」
 ぼそぼそと聞き取りにくい声で、千明が残念そうに言った。
 会長まで話はついてるということか。茅島は奥歯を噛み締めて、迫を睨みつけた。迫は顎を引いて気圧されたように見せかけながらも、一つ咳払いをした。
「堂上会系茅英組、覚醒剤剤取締法違反及び銃刀法違反の疑いで家宅捜索を開始します」
 捜査員が跫音を打ち鳴らしながら事務所に入ってくる。時刻が読み上げられる。茅島は目の前の令状を手の甲で押しやると、迫を無視して千明に詰め寄った。
「覚醒剤? ウチがそんなものやってないのはわかりきってるはずだ。クスリを見つけたいなら、俺と一緒に松佳まで来い」
 千明は押し黙って、視線を伏せる。
 千明も所詮は桜の代紋の下で働いてるだけの兵隊に過ぎないということか。
「それから、未成年者に対する脅迫も」
 茅島が押し返した令状を覗きこんで、迫が付け足す。店を襲ったガキの始末か。茅島は歯噛みして、後ろに撫で付けた髪を掻き毟った。
 覚醒剤なんて見つかるはずがない。
 しかし、その他は別だ。茅島は射撃場に持参した拳銃を車の中に置いてきていることに気付いて眉間を抑えた。
「罪状、どれくらいになりますかね。……俺が上に掛け合うのも吝かではありませんが」
 さっきまで怯えていたはずの迫の口元に笑みが浮かんだ。
 この男を殴ったらすっきりするかもしれないが、罪状が増えるだけだ。何より、迫は――椎葉の友人だ。
 椎葉が友人だといってあんなに楽しそうな顔をしているのは初めて見た。こんな時でもなければ、椎葉に友人を紹介してもらったことを喜べただろうと何度も悔しい思いに駆られた。
 だから、殴ることはできない。
 これ以上椎葉を傷つけたくはない。
「――……ッ、」
 茅島は黙って拳を握りしめた。
 その時、千明の後ろから足音が近付いてきた。新しい捜査員か。茅島が諦観してそれを睨め上げると、その人は茅島以上に強い力で見返してきた。
 思わず、呼吸を忘れるほど。
「各捜査員、それ以上事務所の物品に触れないでください」
 よく通る声が、ピシャリと捜査員の手を払い落とすようだった。
 振り返った迫が、目を瞬かせるのが茅島にも見えた。
「椎葉……、」
「何の権限があって茅英組の家宅捜索を? 堂上会の顧問弁護士は私です」
 定例会の時はやつれていたように見えた椎葉は、相変わらず頬がこけたままだったが眦が釣り上がり、鬼気迫るものがある。茅島は言葉を失って、青白い顔をした椎葉に見惚れた。
「警察の令状を取るのにいちいち顧問弁護士にお伺いを立てたりしないよ。それじゃ、犯罪を助長するだけだ」
 迫が呆れたように笑うのを聞き流しながら、椎葉は足音を響かせて事務所内に歩み入った。茅島の脇を通りすぎても、一瞥も呉れない。胸を張り、背筋を伸ばして堂々としている。今にも折れてしまいそうな虚勢にも見えない。
「犯罪を助長させているのはあなたの方だ、迫弁護士」
「何を根拠に? 私情を挟むのはやめてくれよ、椎葉」
 大袈裟に首を竦めた迫を一瞥してから、椎葉がようやく茅島を振り向いた。
 さっきまでピンと張り詰めるような鋭い表情を浮かべていたのに、ふと、綻ぶように微笑んだ。
「茅島さんは行ってください。どうかこの場は、私に任せて」
 つなぎを着た捜査員のひしめく中に立った椎葉の姿は、清艶なまでに美しく見えた。
 茅島は言葉を失って、しかしその場を駆け出すこともできずに立ち尽くしてしまった。
「ここであなたを行かせることができないなら、私はこの先あなたに愛される資格がなくなる」
 そんなことを。
 反論を喉まで出しかかって、茅島は慌てて飲み込んだ。苦い顔が浮かぶのを、止められない。
 ――私から嫌われる努力をしてください。
 そんな言い方をした茅島への仕返しのつもりだろう。
 茅島が意を汲んだことを察すると、椎葉が肩を揺らして笑った。
「……では、この場は先生にお任せします」
 茅島は子供のように無邪気に笑う椎葉に恭しく頭を下げると、踵を返した。壁に凭れて立っている千明と目が合う。千明は口端を下げて、目蓋を伏せた。
 事務所にいるのは捜査員だけだし、千明もいる。少なくともこの場に置いていく限り椎葉が危険な目に遭うことはないだろう。
 茅島は通り過ぎ様千明の肩をポンと叩くと、階段をゆっくりと下った。