猟犬は傅く(17)



「辻さん!」
 菱蔵組事務所の扉を叩き割るようにして瀬良が飛び込んできた時には、狭い事務所の一室は構成員でいっぱいになっていた。
 今まで一堂に会する事など殆ど無かった菱蔵組構成員がひしめき合う中を、人ごみをかき分けて瀬良が部屋の奥まで歩み入ってくる。
 瀬良の背後には、茅島の姿もあった。
 辻が黙礼すると、茅島も小さく肯いた。
 瀬良の目はぎらついて、辻でさえ迂闊なことを言えば噛み付かれそうな狂犬のようにも見えた。
 無理もない。
 辻だって、十文字を捉えられたとなれば正気じゃいられない。
「……灰谷さんが捕まったってどういうことですか」
 驚くほど、瀬良の声は落ち着いている。しかし全身の毛穴という毛穴が開いて、髪も逆立っているようだ。
「電話で話した通りだ。灰谷が標的の組に捉えられた、という連絡があった。組内に裏切り者があった。左京だ」
 辻は努めて冷静に答えた。
 事態はすぐに発覚した。灰谷が本邸に侵入するのと同時刻に高来組事務所を襲撃する予定だった遊撃隊が、異変に気付いた。少なくとも十数人は詰めているはずの事務所は、踏み込んでみるともぬけの殻だったのだ。
 謀略に気付いた組員が高来本邸に向かうと、灰谷のナイフと血に濡れた手袋を土産に渡された。
「これで一連の堂上会系直系傘下に襲撃をかけていたのは菱蔵の仕業だったってことが明らかになった。襲撃を受けた組織からの報復は免れないだろう」
 辻の低い声が、不気味に静まり返った事務所内に響く。
 茅島の姿を探すと、壁際で腕を組んで辻の姿を眺めていた。辻の成長を悠長に眺めているという顔つきじゃない。茅島も既に、戦闘態勢に入っている。そういう顔だ。
「――……だよ、……」
 肩を大きく上下させて息を荒げた瀬良が、唸るように呟いた。
 次の瞬間、瀬良が顔を上げたと思うと椅子に腰掛けたままの十文字に飛びついていた。辻の反応が一拍遅れた。しかしいくら遅れを取っても、十文字を傷つけさせるわけにはいかない。辻は無言のまま即座に瀬良を十文字引き離した。
 強く振り払ったせいか、瀬良が派手な音を立てて事務所の床に転んだ。
「ふざけんな!」
 床にしたたか打ち付けた腰を庇おうともせず、瀬良はすぐに再び飛びかかれるような体制をとって怒鳴り声を上げた。
 瀬良は菱蔵組の中でも辻の次といっていいほどの武闘派だ。誰もが認めている。辻は顔を顰めると、十文字の前に立ち塞がるように前に歩み出た。
「何だよそれ……、灰谷さんはテメェの言う通りにやってただけだろうが! なんでこんなにたくさん殺さなきゃいけないのか、理由も言わないで……」
 瀬良が泣いているのかと思った。それくらい、声が震えている。自然と瀬良を遠巻きにして組員が後退ると、瀬良が熱のような怒りを押さえ込んでいるのがわかった。
「――……んで、だよ……っ! なんで、灰谷さんが」
 瀬良が床を蹴る。滑りこんでくるような速度の瀬良の方肩辻が捉えようとすると、瀬良が予想以上に身を屈めてそれを掻い潜ろうとした。
 その大きななりをして、そんなに低い体勢で飛び込めるのかと辻は一瞬目を瞠ったが、辻は瀬良を足払いして押さえ込んだ。――抑えこもうと、した。
「ッ、!」
 床の上に転がった瀬良の腕を辻が掴むよりも早く、瀬良は十文字の足元へ辿り着いていた。
 事務所に詰め込まれた構成員全員が息を呑む。辻が身を翻し、十文字を捉えた瀬良の首を後ろから掴み上げようとした時、十文字が薄い唇を開いた。
「そのためにお前を行かせたんだろ?」
 いつも子供じみた奇声しか発しない十文字の薄暗い声に、瀬良が虚を突かれたように体を硬直させた。
 辻も、十文字のこんな姿は久しぶりに見る。瀬良を早く取り除かなければいけないのに、辻は思わず壁際の茅島を窺った。
「――は? ……なんだよ、それ」
 瀬良の表情は感情の行き場を見失った子供のように歪んでいる。十文字の胸ぐらを掴んだ手も、力ない。
「早晩、灰谷がヘマをするか――そうでなくてもウチの仕業だと嗅ぎつけられて誰かが犠牲になることなんて、わかってた、と言ってるんだよ」
「だから、なんで……!」
 胸ぐらを掴みあげた十文字の体を瀬良が揺さぶると、まるで木偶のように十文字は無抵抗に揺さぶられるままになった。しかしその眸には、狂気じみているといっていいくらい強い光がある。瀬良も気付いているだろう。瀬良の表情に怯えが見える。
「灰谷を助け出せるのはお前しかいないからだ」
 十文字の声は、鬼気迫る表情で怒り狂った瀬良の肌を撫でるように絡み付いて、緊迫した事務所の空気にゆっくりとほどけていく。
「お前が、灰谷を助けるからだ」
 十文字の異常な気配に気圧されるように、瀬良が手を離した。
 半歩、後退る。後ろに仰け反っていた十文字が、体勢を直した。淡い色の髪をバサと揺らして、額を覆い隠す。
「俺は、……俺の身内を誰一人として、殺させたりしないんだよ。……もう二度と」
 くぐもった声で呟くと十文字は自分の机の上のものを薙ぎ払い、その上に立ち上がった。
 事務所中の視線が、十文字を見上げる。
 まるで宗教だな。茅島が呟いたような気がした。辻のところまで茅島の声が聞こえるはずもないのに。
 瀬良も呆けたような顔で十文字を仰いでいる。ぐちゃぐちゃになった感情をたっぷりと塗りたくられたような顔で。
「俺は能城を殺す」
 悪夢のように呟いた十文字の目は座っている。
 しかし、辻が昔窺い見たような、死んでる目じゃない。決意のこもった顔つきだ。
 十文字を仰いだ内の誰かが音を立てて唾を飲み込んだ。一人じゃないかもしれない。
「俺の家族は昔、やくざ者に殺された。家中血だらけにされて、父親も、母親も、姉ちゃんも犯されて、殺された。俺だけが生き残って、その犯人を殺した。辻と一緒に。気付いたら、望んだわけでもないのに俺は菱蔵組を背負うようになっていた」
 机の上に立ち尽くした十文字は気負った様子もなく、肩の力は抜けて、両腕をだらんと下げたままだ。
 相変わらず猫背だし、演説者のように声を張るでもない。
 しかし菱蔵組の代紋を背後にした十文字の姿には、不思議と覇気があった。だから、十文字が組長に座ってから集まってきた有象無象の若い構成員たちも不思議と、息を詰めてその姿を見上げる。目が逸らせない。
「俺の家族を殺したのは、先代の菱蔵組長だ。――でも、そいつを薬漬けにして犯行に走らせたのは、能城。松佳一家総長の能城だ。あいつを殺さなければ俺の復讐は終わらない」
 事務所内は静まり返っている。
 十文字が大きく息を吸った。
「俺はお前らを自分の家族だって思ってるよ。それは本当だ。今まで俺の目的を話さないでいたことは申し訳ないと思ってる。家族の命を勝手に担保にして自分の目的を遂行しようなんて、俺はつくづく家長に向いてないと思う」
 気付くと、十文字の拳が震えていた。
 誰かが、組長、と呟いた。大きなうねりにこそならなかったが、誰も十文字の言葉に怒りを吐くものはいない。瀬良でさえ。
「――俺はお前らを、一人たりとも失う気はない」
 搾り出すような、苦しげな声。
 十文字がぎゅっと目を瞑った。十文字が涙を堪えるように押し黙ってからも、誰も身動きひとつ取らなかった。主人から次の号令を待つ、忠犬のように。
「だから、生きて帰れ」
 ひとしきり奥歯を噛み締めた十文字が、囁くように告げた。
 辻は構成員の顔を見渡した。どいつもこいつも、ギラついた顔をしている。しかし不思議と、落ち着いてもいるようだ。
 今まで菱蔵組はまとまりのない、およそ極道とはいえないような組だと思っていた。今でもそれは変わらないかもしれない。それぞれが、ただ十文字の気持ちに寄り添っているだけだ。
 十文字が辻を一瞥した。あとは任せたとでも言うかのようだ。
 辻は短く肯くと、十文字に手を貸して机の上から下ろした。
「貫田と佐竹は松佳のシマに回れ。様子を逐一報告しろ。斉木と光嶋は松佳の事務所だ。人数は割いて行け。残りは菱蔵を死守しろ」
 辻が先頭に立って声を張ると、それぞれが無言で肯く。菱蔵に傘下組織はないが、なんとなくできあがった派閥はある。既に貫田と佐竹は事務所を走り出ていた。
「松佳の事務所へはウチからも兵隊を出すよ」
 それまで黙っていた茅島が壁から背中を離して、口を挟んだ。
 辻が振り返ると、不思議と茅島は微笑んでいるようだった。
「光嶋ってのはそれなりに頭が切れるんだろう。一緒にウチに来い。モトイを任せたい」
 辻が肯くと、斉木と光嶋が動き出した。踵を返して事務所を出ていく茅島に続いて出ていく。
 茅島が斉木と光嶋を知っているのは高校生の時分だと思っていたが、覚えていたのか。辻はほとんど人のいなくなった事務所で、茅島の後ろ姿を見送りながら心中舌を巻いていた。
 茅島に敵わないのなんて、今更だ。
「瀬良は、俺と高来組に灰谷を救い出しに行く」
 呆けたまま立ち尽くしていた瀬良が、ギッと顔を上げた。
 十文字が机の抽斗を開けて、マカロフ拳銃のマガジンを五つ分取り出した。重い音を響かせて、瀬良に差し出される。
「――茅島センパイにたっぷり教わってきたんだろ?」
 上目で瀬良を覗きこんだ十文字の笑みは、いつもの調子と変わらない。
 それに安堵したように、瀬良も首を竦めてみせた。
「まさか。逆に俺が教えてやったんだっつーの」
 瀬良は軽口を叩きながらおよそ極道者の持ち物とも思えないデイバックに、無造作にマガジンを放り込んだ。
 射撃場から持って帰ったばかりの拳銃もなかに入っているようだ。金属音が派手に鳴り響いた。
「瀬良、準備はいいか」
 辻は懐に獲物を挿すと一度だけ、十文字を振り返った。
 十文字はいつものようにゆったりと革の椅子に座って、不遜な表情で微笑んでいる。
「はい」
 瀬良が大きく息を吐いた後で、肯いた。
「じゃあ十文字、行ってくる」
 辻が告げると、十文字はひらりと手を振った。
「おう、帰りにケーキ買ってきて」
 ボスがそれをご所望なら、傷ひとつ負えないな。
 辻は苦笑を漏らして踵を返すと、事務所を飛び出した。