猟犬は傅く(16)

灰谷

 連日の襲撃を受けて籠城を決め込む組長が増えてきた。
 そんなものは極道の風上にもおけねえと啖呵を切るような豪傑は既に他界しているか、しばらくは喋ることもままならないほどの痛手を負ってもらっている。
 十文字からの指示は殺すか殺さないか、動けない程度に留めるか一生植物状態になってもらうか、被害のレベルまで事細かに決まっていた。
 これを守れなかった場合はどうなるかと尋ねたのは、灰谷ではなく瀬良だ。
 十文字はいつものように陽気に笑って「誤って殺すのはいい。でも、うっかり軽傷で済ますような真似はするな」と言った。
 それには灰谷も同意だった。
 動けない程度に留めておくのが十文字なりの温情なのか、駆け引きに使える人間ということなのかは灰谷にはわかりかねる。ただ、仕留め損なえば面倒になるというのは自明だ。
 実際のところ、十文字が何のために動いているのかもわからない。
 灰谷に粛々と指示を下す十文字を見た瀬良が憤ったのも無理はない。今まではそれに納得しようとしまいとにかかわらず辻が事情を説明してくれていたのに、今回はそれがない。
 そしてこの量だ。
 灰谷は毎日誰かしらの血に両手を染めていることに気付いて、さすがに気が滅入ってきた。
 気が滅入っても、仕事は仕事だ。
 未明の組事務所前で息を殺しながら、見張りに立っている男たちに目を凝らす。
「アンタは神にでもなったつもりかよ!」
 菱蔵組事務所を揺らすほど大きな瀬良の怒鳴り声が、まだ耳にこびりついている。
「俺には難しいことはわかんないけど、そんな勝手にこんな多くの人の生死をアンタが勝手に決めていいなんてわけねぇだろ!」
 十文字の胸ぐらを掴んだ瀬良が、その場にいた誰よりも苦しそうな顔をしていた。
 瀬良が十文字の服に手をかけるよりも前に辻がそれを拒むことだって容易だったはずだが、それをしなかった。それは辻の一存じゃない。灰谷からは見えなかったが、おそらく十文字が辻を拒んだんだろう。
「んー、あぁ、そうね」
 十文字は大柄な瀬良の腕にぶら下がるようにして爪先立ちになりながら、首を揺らした。
 その表情はいつもの調子で、瀬良が自分を傷つけることなど絶対にないと信じているようだ。灰谷は十文字に告げられた新しい標的のチェックを終えると瀬良を抑えようと腰を上げた。
「瀬、……」
「神なら神でいーよ。別に俺は、やりたくて組長やってるわけじゃないんだし」
 口を挟もうとした灰谷を、辻が視線で制した。辻がそうしなくても、灰谷は言葉を飲み込んでいただろう。
 十文字の猫のような目が細くなって、胸ぐらを掴んだ瀬良に微笑みかける。
 時折灰谷が十文字を底知れないと思う、不気味な笑みだ。
「俺はやりたいことやってるだけだよ。そしたら組長が都合いいんだって辻が言うからさー」
「俺はそんなこと言ってない」
 辻は平然と呆れたように腕を組んでいる。
 瀬良も苛立ちが度を超えて十文字の体をかなぐり捨てると、不貞腐れたように事務所を出て行った。
「――……、」
 瀬良の出ていった扉を灰谷が呆れて眺めていると、不意に十文字が何か呟いたようだった。
 振り返ると、辻と目が合った
「人を無闇に殺すだけが神の所業なら、神は他にいるんだよ」
 明るい色をした長い前髪で影になった十文字の表情は見えなかった。
 ただ、底冷えするような低い声だった。

 十文字が何をしようとしているのか、灰谷は知らない。
 瀬良の言葉を借りて言うなら、灰谷は十文字を神と決めた。だから、言われた通りに仕事を遂行する。それだけだ。
「っ、」
 見張りが動いた。
 灰谷は腕に巻いたデジタル時計を見下ろした。午前二時。
 灰谷が他の現場で仕事を遂行している最中ずっと張り込ませていた構成員の報告によれば、張り込みが交代する時間が最も警備が手薄になり、標的である高来組組長も熟睡している時間帯のようだ。
 灰谷は見張りの組員が獲物の木刀を掲げてストレッチをしながら談笑している姿を観察しながら、脳内で十文字の指示を復唱した。
 高来組三代目組長、加藤洋一。六七歳。都内に個室型風俗店をいくつも展開し、店舗数だけで言えば堂上会一だ。雇っている女性従業員の人数も多く、三年で離婚と結婚を繰り返しているのも若い女が好きだからだという。
 本来は宵っ張りで明け方まで大勢のキャバクラ嬢と飲み明かしているのが常だが、ここのところの連続襲撃事件ですっかり引き籠っている。
 一週間もしたら健康的な生活が身について体重も五キロ痩せたと吹聴しているとか。
 調べた限りでは身長がさほど大きくないのに八〇キロを越える巨体だ。ナイフでは太刀打ちできないだろう。十文字のオーダーは重篤な怪我を負わせること。できるだけ、組員に死傷者を多く出すこと。
 要するに組が機能しなくなればいいということだろう。
 灰谷は掌にピタリと吸い付くような革手袋を着けると、ポケットに入れたナイフを確認した。四本とも、十分研がれている。
 報告では屋敷内に詰めている組員は十人足らず。高来組事務所へは他の構成員を向かわせているが、灰谷も組長本邸を襲撃後、すぐに事務所に向かう必要があるだろう。
 灰谷はもう一度時間を確認した。二時八分。同時刻に襲撃を開始することは事務所組にも伝えてある。あと二分。
 灰谷は目蓋を閉じて、呼吸を整えた。
 最近は、瀬良の言うこともわからないわけでもない。殺人を犯すことを一概に否定することはできないが――それは自分を正当化したいだけだ――誰か他の人間が手を汚せばいいのにと思うことがある。
 灰谷の手はどうなったって構わない。でも、瀬良が人を殺すのだけは未だに抵抗がある。
 あんなに馬鹿正直で搦手のできない、子供のような男が、一体どんな顔をして人を殺めるのか。灰谷はそれを見てみたいとは思えない。
 仕方ないことだと理屈ではわかっている。本当に止めさせたいなら灰谷が止めるしかないのだ。
 瀬良が灰谷に殺人を止めさせたくないのは、今灰谷が抱えている気持ちと同じなんだろうということも。
 だからといって今更止めようとは思わない。瀬良の気持ちがわかっただけで充分だ。
 あと一分。
 灰谷は手袋を嵌めた指先で、笑みが浮かぶ唇に触れた。
 最近は毎日誰かしらの血に染まっている灰谷の両手を、瀬良はその都度きれいに洗い流す。灰谷を止めることが叶わないなら、それが自分の仕事だとでもいうように。
 今日は帰りが遅くなりそうだと言っていたが、灰谷が一仕事片付ける頃までには戻ってるだろう。そうしたら、瀬良の手できれいに洗い流された掌で瀬良を思う存分撫でてやろう。
 この手を汚れていないというのは、瀬良だけだ。
 二時十分。時間だ。
 灰谷は息を詰めて立ち上がった。
「灰谷さん」
 その時ふと、瀬良の声が聞こえたような気がした。
 背後を振り返る。そこにいたのは瀬良ではなかった。
「――左京」
 墨を流したような闇夜に、浮かび上がる赤髪。
 菱蔵組の構成員だ。今まで利口にシノギを納めてきた。事務所で言葉を交わしたことだって何度もあった。路頭に迷っていた孤児を拾い上げたのは十文字だ。何があっても他所ではやっていけない。そう思っていた。
 しかし今、左京の右手には拳銃が握られていた。銃口は、灰谷の額を向いている。
「天下の殺し屋サンも、さあ行くぞって瞬間には背後がガラ空きになるンだな」
「何の真似だ」
 左京の人目を憚らない大声で、見張りをしていた組員がこちらに歩み寄ってくる。慌てて様子を見に来るというよりは、まるで迎えに来るかのような足取りだ。
 灰谷は、ポケットのナイフに手を滑らせた。
「こーゆー真似だよ」
 額にゴッと鈍い音が響いた。押し付けられた銃口の冷たさが、灰谷の背筋を緊張させる。
 ナイフを薙いで左京の腕から拳銃を落とし、背後に駆け寄ってきている組員を処理しながら、本邸へ――辿り着けるだろうか。辿り着けなければならない。事務所は既に、約束の時間から襲撃を開始しているはずだ。
 高来組組長本邸に明かりが灯る。中から、怒号のような足音が響いてきた。とても、十人足らずのものとは思えない。
「――……ッ、左京」
 謀られた。
 そう気付いた瞬間、灰谷は頭上にナイフを振り上げた。


 ――未明の空に銃声が響いた。