猟犬は傅く(15)
柳沼Ⅱ
「伶、まだ頭痛い?」
一緒に潜り込んだ布団の中で、柳沼の体を包み込むように抱きしめた小野塚が耳元で囁いた。
柳沼が鼻先を寄せた小野塚の首元からは、柑橘系のボディソープの香りがする。多分柳沼自身からも同じ香りが漂っているはずだ。
「いや、……もう大丈夫」
小野塚の掌は、柳沼の頭が痛かろうと痛くなかろうと飽かずに髪の上を撫でている。
まるで子供を寝かしつける兄のようで柳沼はあまり面白くなかったが、嫌がるようなことでもない。そもそも、少しも嫌ではない。
「もし明日も痛くなるようだったら、きちんと医師に診てもらうんだよ。それから、――」
「わかったよ」
長くなりそうな小野塚の言葉を遮って柳沼が呆れた声を上げると、小野塚は一瞬口端を下げて渋い表情を浮かべてから、やがて小さく笑った。思わず、柳沼も脱力して笑いが出る。
小野塚は過保護だ。
それは柳沼の薬物中毒だった過去がそうさせているのか、あるいは小野塚がそういう人だというだけなのかはわからない。
柳沼の過去が変えられるわけでもなければ、そうじゃなかった人生なんて想像を巡らせることに意味はない。柳沼があんな風に道を踏み外すことがなかったら小野塚と再会することはなかったかもしれないし、柳沼の母親が家を出るようなことがなかったら、柳沼はこんな気持ちで小野塚を愛すようになっていただろうか。
小野塚を恋い慕うことは、小野塚のためにはならないかもしれない。今でもそう思う。
柳沼がもし普通に女性を愛して、思いを遂げて結婚でもしていたら、小野塚とは昔の仲の良い兄弟のように酒でも酌み交わしていたかもしれない。小野塚にも可愛い奥方がいて、互いに家庭の愚痴を持ち寄ったりしたかもしれない。
「――……っ、」
「伶、どうかした?」
小野塚の寝間着を握る手に僅かに力を込めただけで、小野塚は過敏に反応して柳沼の顔を間近に覗き込んだ。
他愛もない、幸福なはずの想像だ。
それでも、小野塚が自分以外の人間を夜毎撫で、体調を気遣い、微笑みかけるなんてことは耐え難い。
「……なんでもないよ。奏、明日も早んだから、早く寝たら」
贅沢な病だ。
今この腕の中に確かに幸福があるからこそできる想像に過ぎない。
柳沼は自分自身に呆れて、項垂れるように小野塚の胸に顔を埋めた。あたたかい。入浴したばかりでボディソープの香りしかしないと思っていたが、こうして顔を押し付けるとわずかに小野塚自身の香りも漂ってくるようだ。柳沼は大きく息を吸って、胸の中を満たした。
「伶、」
小野塚の腰に腕を回して、知らずの内にしがみつくようにしていた柳沼の頬を、小野塚が撫でた。
その手に促されるようにして顔を上げると、小野塚の唇が降りてくる。
「お休みの、キス」
たった二人きりの空間で他の誰に聞かれる心配もないのに、小野塚は柳沼だけにしか聞こえないような声で囁いて、柳沼の唇を吸い上げた。
「ん、――……ふ」
口内も、歯磨き粉の味がする。
柳沼は首を逸らして唇を開きながら小野塚の舌に自らのそれを絡めると、歯磨き粉の奥にあるだろう小野塚自身の味を求めるように何度も唾液を嚥下した。
小野塚の掌は柳沼の頬を撫で、髪を梳くように指を差し入れながら耳の後ろを抱く。そのままあやすように指先で耳の表面を撫で擦られると、柳沼の背筋を甘い予感が這い上がってくる。
「……っ早く、寝ろって言ってるのに」
下肢がその予感を劣情に変える前に、柳沼は腕を突っ張って小野塚の体を引き離した。
「はいはい」
暢気に笑った小野塚がごろんと寝返りを打って、唾液に濡れた唇を舐めながら目を閉じる。
連日連夜の激務は慣れたものだと小野塚は言うけど、それでも柳沼が転がり込んできたせいで生活リズムが変わってしまったことには変わりない。それが食事を用意し、風呂を準備して待っていられる良い点と、少しでも柳沼と会話をしたり――こうして寝る間を惜しんでまでキスをする時間を取ろうとする点と、両方あるにしろ。
「おやすみ」
柳沼を抱く腕を解いても、小野塚は一方の腕を柳沼の首の下に入れたままだ。それが朝方起きる頃には強く肩を抱き寄せられて、まるで抱き枕のように足を絡まされていたりする。
自分がこんな微温湯のような生活を送っていて許されるのかと思う反面で、胸の奥がむず痒くなるようなこの幸福を、何があっても手放したくないと思ってしまう。
いや、もう手放すことはしない。
何があっても。
やがて半刻もしない内に小野塚の寝息が聞こえてきた。
なんだかんだといっても小野塚は疲れているのだ。ベッドに転がり込むなりものの数秒で眠ってしまえるはずなのに、柳沼を撫でたくなるのも本当のところなのだろう。
柳沼はそっと首を起こすと、無防備な寝顔を晒した小野塚を窺い見た。
まだ唇が濡れている。柳沼がそっと指先を伸ばすと、小野塚が言葉にならない声を上げて、寝返りをうつ。
「っ、」
腰を抱かれるような格好になって、柳沼は喉まで出かかった声を飲み込んだ。
心臓が強く打っている。その音で小野塚を起こしてしまわないか、心配になるほど。
「……、」
恐る恐る小野塚の顔を覗きこんだが、起きる気配はないようだ。
柳沼は小さく息を吐くと、小野塚の額にかかった髪を撫で上げた。
起きている間は小野塚のほうがお兄さんぶって柳沼を撫でてばかりいるが、寝ている間は何をしても小野塚は無防備だ。柳沼は小さく笑いながら、ここぞとばかりに小野塚の頭を撫でてやった。
枕元の電子時計が午前二時を表示した。
じきに朝刊が届くだろう。
日付が変わる前、昨日の朝刊は結局読めずじまいだった。小野塚は配達忘れじゃないかと言っていた。
その前は社会面がまるまる切り取られていたし、盛大にコーヒーを零されて捨てざるを得なくなったのも一度や二度じゃない。
もうここ一週間くらい、まともに新聞を読めていない。
テレビは半月前に壊れたきりだ。
柳沼は小さく息を吐いて、安穏と眠りこけている小野塚の顔を眺めた。イケメン代議士秘書だとか、二世の星だとか、政治に関係のないところでも取材を受けることがあるようだけど、寝顔は子供の頃から変わらない。
小野塚は小さい頃から、隠し事が苦手だった。
嘘はもっと苦手だ。そんなことで政治家になれるのかと心配になるくらい。
「――、」
柳沼は枕元でスマートフォンの明かりが点滅していることに気付いて、腕を伸ばした。ベッドを揺らして、小野塚を起こしてしまわないように気遣いながら。
音もなく情報を受信したスマートフォンには柳沼が設定したニュースアラートが表示されている。
キーワードは、堂上会。
昨日日中にまた直系傘下の組員が殺されたようだ。ここのところ毎日、襲撃や殺人が起きている。小野塚がテレビの調子がおかしいといった日から、ずっとだ。
最初のうちは何でもないニュースとしか扱っていなかったマスコミも、やがて大規模な抗争が起きるのではと騒ぎ立て始めている。
柳沼はニュースに纏わるコラムを読み進めながら、疼くように痛む頭を指先で抑えた。
被害に遭っている組は全て――少なくとも柳沼が知る限りは――能城派ばかりだ。薬物売買のお零れに与っているもの、組長自身が薬物依存になっているもの、形は違えど能城が声を上げたら従わざるをえない人間ばかり。
それを知っていてもこんなにわかりやすく始末する人間などそういない。
能城の警戒を強めるだけだ。
殺された人間は全員、強固な警戒の中にあって一撃で仕留められている。獲物は拳銃などではなく、ナイフや組手。こんなことができる人間を、柳沼は一人しか知らない。
灰谷だ。