猟犬は傅く(14)

安里Ⅲ

 結局、モトイは帰って来なかった。
 この家は安里が契約したもので、なし崩し的にモトイが寝泊まりするようになっただけなのだから帰ってくる筋合いもない。
 ただ、真新しいベッドが安里を窮屈な気持ちにさせた。
 モトイは結局、このベッドで一度も寝ていない。
 購入した日の翌々日には配送されてきたが、モトイは袋から出したばかりの布団の匂いを嫌がって、結局安里のベッドで眠った。翌日安里が布団を充分に天日干しすると、今度は熱いといって寝たがらなかった。
 ではベッドを取り替えましょうかと安里が提案すると、「それは俺のベッドだ」と言って聞かない。
 モトイが陣取っているベッドは安里のものなのに。
 安里の家はそんなに広いものではない。モトイのベッドを運び込んだら殆ど床面積がなくなってしまった。それでも、この部屋は寝に帰るためのようなものなのだからそれでいいと思っていた。
 モトイが帰ってこなくなった自室は、なんだか見慣れないもののように見えた。


「しばらく暇を頂きたいのですが」
 椎葉は、蒼白したような血色の悪い顔を上げて安里を見上げた。
 眼鏡の奥で目を瞬かせて、しばらく安里の言葉を反芻しているようにも見える。
 安里は椎葉の呆気にとられたような表情を見下ろしながら、憔悴しているな、と感じた。でもそれだけだ。彼が何かに追い詰められて取り乱そうと死んでしまおうと、安里には関係がない。
 今まで雇ってもらった恩義はあるが、雇われたくて雇われたわけではない。
「あ、――あぁ、構わないけど……。いつから、いつまで? この機会に有給休暇を消化しちゃおうか」
 ぎこちなく微笑んだ椎葉が、カレンダーに手を伸ばす。その手首を見て、安里は僅かに目を細めた。
 痩せたようだ。
 茅島と何があったかは知らないが、ろくに眠っていないし食事も摂っていない。やつれるのも当然だろう。
 それでも、いくら人間的な営みを拒絶しても、人が死ぬのは容易くない。安里にも食事が一切喉を通らない時期があった。入院中こそ点滴で否応なしに栄養を流し込まれるが、退院してしまえば自分で摂取するしかない。
 安里は栄養失調と睡眠不足で意識が混濁していく中で、ようやく藤尾に会いに行けると思った。
 しかし気が付くと安里は台所の蛇口に縋り付いて、乾いた喉に水を流し込んでいた。
 人間は動物だ。どんなに本人が死を望んでいても、最後の最後では細胞が生存を欲する。一瞬にして動物に戻って性を望んでしまった安里は何度も胃の中身を吐き出して、しかしそのたびに食事を詰め込まれて、そんな時期が半年ほど続いた。
 椎葉に何があったのかは知らないし興味もない。
 しかし、彼は生き続けるだろう。茅島も生きているのだから。
「もしかしたら、もう戻ることはないかもしれません」
 カレンダーで日数計算を始めた椎葉の頭上に冷たく吐き捨てると、椎葉の動きが止まった。
 思えば長い付き合いだったが、いつだって終わりはあっけないものだ。
 いくら安里に戻ってくる気があっても、無理な場合もある。安里に、能城を殺した後の生活は想像できない。
「安、……里くん、それはどういう……」
 ゆっくりと顔を上げた椎葉の表情が、泣き出しそうに歪んでいる。
 安里は、自分の気持が冷え冷えとしていくのを感じた。
「辞職したいというわけではありませんが、――そうせざるをえないことになるかもしれません」
 溜息を吐きたいような気持ちだった。
 椎葉は今まで微温湯のような生活を送ってきたのだろう。弁護士になることは簡単なことではないだろうが、それでも学生時代を思い出したくもないような気持ちになったことはないだろうし、堂上会から事務所と家を用意され、自分が籠の鳥になっていることにも気が付かずに茅島の愛に溺れて。
「どう、……いう」
 椎葉の声が震えている。
 放っておいたら泣き出すかもしれない。
 まるで、藤尾を助けることができなかった昔の自分を見ているようで不快だった。
「私には愛していた人がいました。しかし、もうこの世にはいない」
 安里はため息を吐く代わりに、椎葉が自分を引き止めることができなくなるように初めて自分のことを話した。
 無意識に、胸の傷をシャツの上から抑える。熱を持って、疼いているようだった。
「――能城に殺されました」
 椎葉の手がビクンと震えて、検案書の束の上に卓上カレンダーが音もなく倒れる。
 目を瞠った椎葉の顔は紙のように白くなって、眼鏡の表面には同じように白い顔をした安里が写っていた。
「私は茅島さんから機を待つように言われてここで働いていましたが、――どうやら、今がその時のようです」
 あの時茅島が安里を必要だと言ったのは、安里を生かしておくための方便だったかもしれない。
 本当は、安里なんて必要なかっただろう。茅島のために戦える兵隊はいくらでもいる。安里に椎葉の監視を頼んだのも、他に安里を活かす方法がなかったからだ。
 だから、茅島には感謝している。
 地獄のような現実でも、こうして生き長らえたおかげで、能城に復讐ができるのだから。
「――……、」
 椎葉は案の定安里に何を言うこともできなくなって、眸を揺らしている。
 安里は椎葉に一礼をして自分のデスクに戻ると、私物を詰めた鞄を持った。驚くほど軽い。長く勤めていたつもりだったが、持ち帰りたいものも特にないのだから当然か。
「安里くん」
 椅子の下についた車輪の回る音に安里が振り返ると、窓を背にした椎葉が立ち上がっていた。
「……死ぬつもり、なのか」
 喉を引き絞るような声。
 鈍い刃に突き刺されるような椎葉の視線に射抜かれて、安里は口元が綻ぶのを感じた。
「生きていても仕方がないでしょう」
 藤尾のいない世界に。
 安里がもう一度胸の傷を抑えると、椎葉が足音を響かせながら机を回りこんで、安里に歩み寄ってきた。足腰はまだしっかりしているようだ。しかし、安里の肩を押さえる手は力ない。
「そんなことはない!生きていれば、いつか」
 弱い力を振り絞るようにして安里の肩を揺らす椎葉の顔を、安里は冷ややかに見返した。
「茅島さんから一心に愛されているあなたが言っても、何も感じない」
 椎葉が息を呑んだ。
 悔しそうな、絶望したような、痛ましい表情に歪んだ椎葉は下唇を噛んで、涙を堪えているようにも見える。
 そもそも安里がここにいるのだって、茅島から椎葉の監視を言いつけられているだけなのに。自分からわざわざ好きこのんで監視カメラを置いておこうとするなんて奇特な人だ。
 そう言ってやりたいのに、唇が重くなって動かない。
 茅島が椎葉の監視をしているなんて知ったら椎葉は茅島を信じられなくなるかもしれない。不快だと思うだろう。それでも愛していることを止められなくて、板挟みになるに違いない。
 誰が不幸になったって安里の知ったことじゃない。
 それなのに、安里の唇は別の言葉を紡いでいた。
「茅島さんが殺されそうになった時、さぞ恐ろしかったでしょう」
 安里の肩の上で、椎葉の手が大きく震えた。
 当時のことを思い出してしまったのか、椎葉は表情をますます強張らせて安里から視線を逸らす。
 椎葉が悪いわけじゃない。安里は愛する人間を失うことを知っていて、椎葉はまだ知らない。それだけのことだ。
「もしあの時茅島が死んでいたら、自分一人生きていても仕方がないと思ったんじゃありませんか」
「そんなことは思わない!」
 急に椎葉が声を荒げて、安里は目を瞬かせた。
 安里の肩を掴む手に、力が戻ってくる。まだ何かに怯えるようにぶるぶると震えているが、安里の目を見返す椎葉の目には憔悴の色が消えている。
「確かにあの人を失いたくない。あの人を助けるためならなんでもしたいと思った。……でも、いつか――あの人を先に失うようなことがあっても、その後の私の人生を棒に振るようなことを、あの人は望まない」
 詭弁だ。
 安里は奥歯を噛み締めて椎葉の手を振り払うと、自分の胸を掻き抱くように傷を抑えた。心臓が、どくどくと脈打っている。どうして自分が生きているのか、自分を救ってくれた藤尾がいないのに、どうして自分だけがのうのうと生きていられるのか。
 藤尾が自分を突き放したのは、守るためだったのだと誰に言われても、生き続けるのがつらかった。
 消えてしまいたかった。
「私は茅島さんが――私を愛してくれる人が望まないような人間にはなりたくない」
 浅く呼吸を弾ませる安里に、椎葉が凛とした声で言った。
 説教がましい、嫌な声だ。
 何も知らないくせに。
「あなたに何がわかるんだ!」
 胸が張り裂けてもいい気持ちで安里が怒鳴り声を上げると、椎葉は少したじろいだように半歩退いた。
 息が苦しい。胸の傷が痛い。
 背中を丸めて胸を抑えたまま椎葉の顔を睨みつけると、椎葉は少しの間目を丸くしていてから、――やがて肝を据えたように、双眸を細めた。
「私は何もわからない。茅島さんを失ったこともないからね。でも、君に生きて欲しいと思うよ」
 椎葉は懲りずに、安里の肩に手を伸ばした。
 息苦しさに喘ぐ安里を宥めるようにそっと表面を撫でてくる。
「――きっとモトイくんだって、そう願ってるはずだよ」
 モトイが?
 馬鹿な。
 あの人の頭の中は今頃、柳沼でいっぱいだ。