猟犬は傅く(13)

瀬良Ⅰ

 茅島に促されて助手席に身を滑り込ませると、体を包み込むようなシートに瀬良は目を瞠った。
「茅島さん、いい車乗ってんすね」
 思わず口走ると、茅島は黙って煙草を運んだ唇で、小さく笑った。
 火を点し、一息吹かしてからエンジンをかける。煙を気にしてか、薄く窓を開いた。
 瀬良は背負ってきたデイバックを膝の上で握り締めながら、乗り慣れない車のシートに身を預けた。茅島がどんな運転をするのかすら知らない。
「……そういや、定例会どうでした?」
 ゆっくりと発信した茅島の車は、まるでゆりかごのように乗り心地の優しいものだった。意外だ。瀬良が知る限り――と言っても菱蔵の人間しか知らないけど――暴力団組員というのは車の運転ひとつとっても、自己主張があるようだったから。
 茅島ともなれば会長の送迎をすることもあるだろうから、当然か。
 瀬良は快適なデートになりそうだと胸中で呟くと、肩で息を吐いた。
「久しぶりに十文字を見た」
 無音の車内で、茅島の低い声が揶揄うような含みを帯びた。瀬良は苦い気持ちで首を竦めるしかない。
「馬鹿な真似しませんでしたか、あの人」
「大人しいもんだったよ」
 車内の灰皿に煙草をの灰を落としながらハンドルを切る茅島の横顔は、疲れているようにも、楽しそうにも見えた。
 瀬良は茅島のことをよく知らない。こんなことでもなければ、一緒にいたいと思うような相手でもない。瀬良にとってはどうしても、茅島というと灰谷を嘲った男だという印象が刷り込まれている。
 当の灰谷はあんなこといちいち気にしていないと言っていたが、瀬良には面白くない。
 とはいえ、それさえなければ茅島本人をどう思うこともない。十文字を好ましく思っていないという点について言えば、仲間とさえ思える。
「お前も菱蔵に入って長いだろう」
 シートに身を沈めた瀬良に、茅島が声をかけてきた。意外だ。もう一度茅島の横顔を窺うと、やはりどこか上機嫌なように見える。瀬良は訝しみながら、肯いた。
「あー、そうですね。保科の件からですから」
「保科を始末したのもお前だったか」
 はぁ、と気のない返事を漏らして、瀬良は身を竦めた。
 どうもあの時のことを思い出すと気が滅入る。つまらないことで灰谷を失望させたし、そのせいで死ぬような思いをする羽目にもなったし。
 今でも灰谷に殺しをさせたくない気持ちは変わらない。でも、あの時とは少し違う気がする。多少は、この世界がわかってきた。そしてそれ以上に、灰谷が変わってきた。多分灰谷自身は認めないだろうけど。
 人を殺しちゃいけません、なんて道徳じみたことを言いたいんじゃない。現に瀬良だって、保科を始末している。
 灰谷が後ろ向きな理由で暗殺を続けるんじゃなければ、それでいい。
「菱蔵も変わったな」
 どんどん郊外へ出ていく車のフロントガラスには、新緑が映ることが多くなってきた。
 瀬良は果たして今日中に帰ることが出来るのかどうか不安になった。灰谷に今日外泊する旨を伝えていない。行き先は一応伝えてあるから心配されることはないだろうが。
「茅島さんが知ってる菱蔵ってどんなんですか?」
 特に興味があるわけでもないが、長いドライブの暇を潰すような瀬良が尋ね返すと、茅島が横目でちらりと瀬良を窺った。バレたか。しかし瀬良が苦い表情で視線をそらすと、茅島も小さく笑った。
「別に。……何の変哲もない組だったよ。辻の父親が菱蔵の末端構成員だったからよく出入りしていたが、今よりずっと安穏とした、事なかれ主義の塊のような組だった」
 昔を思い返すような茅島の言葉に、瀬良が思わず吹き出した。
「それって別に、今と変わんなくないですか?」
 安穏とした平和ボケ、事なかれ主義で昼行灯の菱蔵組。ガキが組長を務めるなんてどうかしてるだの、堂上会の恥だの。菱蔵組がよそから散々笑われていることだ。
 サル山の大将じゃないんだから、前の組長を殺したからってカタギ上がりの若造が組長を務めるなんて普通はありえないことだ、てのはいくらヤクザに興味がない瀬良にだってわかる。
 辻さえいなかったらとっくに潰されていたか、乗っ取られていただろう。そうなっていれば灰谷を足抜けさせられたのにと思わないこともない。いや、下衆いやくざ者に灰谷がいいように使われる可能性だってあるか。
 瀬良は現実味のない嫌な妄想を思い浮かべて、鼻の頭に皺を寄せた。脳裏には、堂上会の邸で見かけた能城とかいう若頭の顔が過ぎる。あんなのに灰谷をいいようにされたらと思うと、瀬良の勝手な妄想なのに腸が煮えくり返ってくる。
 いや、もっとも灰谷があんなのの言うことを聞くわけがないか。
 灰谷は十文字の言うことだから、聞いているのだ。
「俺は、今の菱蔵が腑抜けだと思ったことは一度もない」
 山道へハンドルを切りながら、茅島がおもむろに言った。
 瀬良が茅島の顔を見ると、冗談を言っているようにも見えない。
「個人的に十文字は気に食わない男だが、やくざ者として評価してないわけじゃない」
「――意外」
 正直な感想を漏らすと、茅島がふっと息を吐くように笑った。
 茅島はどうも、気を抜いたように笑うとどこか子供っぽく見える。いかにもヤクザ然として、黙っているだけで他者を威圧するようななりをしているくせにたまにそんなふうに笑われると、ぐっと来てしまう人間は少なくないだろう。
 あー、こりゃ人たらしだわ。
 瀬良は茅島の懐に入った人間の居心地の良さというか、優越感というか、そんなものの片鱗を味わったような気がしてため息を吐いた。
 茅島が灰谷を馬鹿にしたことは忘れていないはずなのに、何となくこのドライブも楽しいような気がしてくる。
「そういえば茅島さん、椎葉先生と喧嘩してるらしいですね」
 この助手席に座る機会が一番多いだろう椎葉を思い浮かべると、瀬良は茅島の横顔を覗き見ながら慎重に尋ねた。
 茅島の懐の一番奥深くに抱かれてるのは、他でもない椎葉だ。
 ちょっと片鱗を舐めただけで瀬良が参ってしまうような茅島から、全力の愛情を受けている椎葉はどんな気分なのか知らない。
 瀬良の興味本位の視線を受けた茅島はギロリと視線を動かして助手席を睨みつけたが、今ひとつ迫力がない。
 ハンドルを握る茅島の横顔が疲れているのはトラブルが多いせいだけじゃなく、椎葉が原因かもしれない。だとしたら、上機嫌そうなのは何故だ。定例会で椎葉の姿を見たからか。でも喧嘩中なら、会話もかわさなかったはずだ。現に定例会が終わってすぐに、茅島は瀬良と待ち合わせをしている。
 瀬良はBMWに乗り込んでからずっと抱えている疑問に、首を捻った。
「……着いたぞ」
 山の中腹部、鬱蒼とした木々の中でブレーキを踏むと、唸るように茅島が言った。
 瀬良はずしりと重いデイバックを抱えるとシートベルトを外して、助手席の扉を開いた。茅島は身を翻して後部座席から鞄を取る。
 山の中にぽつんと建っているロッヂ風の小屋。看板は出ていないが、非合法というわけではないのだろう。多分。
 瀬良が山の冷えた空気で大きく深呼吸をしていると、背後で車のロックが掛けられた音がした。振り返ると、茅島が裸の銃を持って立っていた。
「うわ、そのまま持ってきたんですか?」
 途中で検問でもかけられたらどうするつもりだったのか。瀬良が眉を顰めると、茅島は取り合いもせず山小屋に向かっていく。
「何の虚勢だよ、それ……」
 やっぱりやくざ者ってわからない。
 瀬良は茅島の後ろ姿を慌てて追いながら、やはり拳銃の入ったデイバックを背中に背負った。