弾倉の臥狗(9)
「なんだ……またお前か」
風化した看板が剥がれかけているバーにはまだ電気が通っているようで、仄暗いが人の顔は識別できた。若い男女が七人ほど、思い思いの場所で座り込んだり、寝そべったりしている。
店の外観こそひどいが、店内はそれほどでもない。埃っぽくもなく、ただ人いきれがこもっていて、気分のいいものじゃない。
酒の匂い、発情した男女の体臭。多分、ヤク中の人間特有の匂いも混じっているのだろう。十文字にはそれを嗅ぎ分けることはできないが。
「しつこくてごめんね」
十文字は見知った顔に左手を振って応えた。
「ここにはいねぇって言ってんだろ!」
カウンターに腰掛けた男は苛立たしげに近くのスツールを蹴り倒し、十文字を威嚇するように声を張り上げた。
店内のほうぼうに散っていた男女も眉をひそめて十文字を見ている。嫌悪感と、軽蔑、おそれ、それぞれの感情に囲まれながら、十文字は笑い声をあげた。
「そんな警戒しなくたっていいじゃん。俺は丁に直接恨みがあるわけでもなんでもないんだからさ。お話を聞きたいだけ。え、それとも俺中国語を勉強してこなきゃダメって感じ? あんたも中国語できるって感じには見えないけどなー。ニーハオ」
バーは手狭ながら、二階建てになっている。
丁は二階で薬でもやっているのか、あるいは女でも連れ込んで楽しんでいるのか、十文字にはそんなことどうでも良かった。
「てめえ、あんだけ痛めつけてやってもまだわかんねぇのか」
十文字がカウンターに近付くと、男が唾を吐き出しながらゆらりと立ち上がった。
数日前、十文字の右手を折ろうとしたのはこの男だ。
右手なんてどうなっても良かった。まともに動けるのが首から上だけになってしまったとしても、あいつに噛み付くことさえ出来ればそれでいい。
「わかんないっていうか、わかりたくもないっていうか。俺に理解させたいなら口で言ってよ。暴力で何をわかれって? 俺そーゆー頭悪いの、ヤなんだよねぇ」
といはいえ、ここから丁のところまでどうやって辿り着けばいいかわからない。
辻の知り合いだというあの二人が今日来るなら、それに便乗するべきだったとも思う。でもそうすれば、辻は良い顔をしないだろう。
辻は真面目で、優しい男だ。
首だけになった十文字があいつに醜く噛み付くところなど見せるわけにはいかない。
食べこぼしを拭うならまだしも、人の血を拭わせるのはちょっと気が引ける。
「頭悪いのはてめえだろ、だいたいお前が丁さんに会ったところでどうなる? あの人達がお前みたいなガキの言うこと聞くかよ。問答無用で切り刻まれて、終わりだ」
男が十文字に歩み寄ってくる。十文字も歩みを止めずに近付いた。
二階に耳を澄ます。不在というのはどうも本当なのかも知れない。菱蔵のところにでも行っているのだろうか。それならば、ここで待たせてもらうだけだ。
もし十文字に兵隊がいれば――ありもしないことを考えていても、仕方がない。
これは十文字一人の問題だ。最近辻とつるみすぎて、忘れかけていたけど。
「切り刻まれても終わりじゃない」
鼻先数センチメートルの距離まで間合いを詰めると、男の身長は十文字よりわずかに高いだけだった。辻と一緒にいることが長かったおかげで、あまり大きくは感じない。
「終わりだろ、お前何言ってんだよ」
男がせせら笑った。
「俺は終わらない。――終われないんだよ」
殴られようが、蹴られようが、折られようが、切り刻まれようが。
十文字が言うと、十文字の表情に顔を顰めた男が右腕を振り上げた。その手には小ぶりのビール瓶が握られている。十文字は目を逸らさずに男を見つめた。
男の表情には苛立ちと、怯えが混在している。
数日前に十文字を袋叩きにした時、最後まで弱音を吐かなかった十文字を気味の悪いものだと思っているのだろう。
辻にも訊かれたっけ。
痛みや恐怖を感じないのか、と。
感じないわけじゃない。
もっとひどい痛みや、もっと恐ろしい恐怖を知っているだけだ。
「あんたたちみたいにすぐ終わったりするようなバカと一緒にすんなよ」
十文字は笑った。
瞬間、憤怒の表情を浮かべた男が、十文字の横面に冷たいガラス瓶が振り下ろした。
「――っ!」
思わず目を瞑る。
身構えた十文字は息を詰めたが、予想していた鋭い痛みは十文字のこめかみを打たなかった。
「……?」
恐る恐る目を開くと、次の瞬間、目の前の男の顔がカウンターに吹き飛んだ。視界に残ったのは、血に濡れた拳だった。
「今度は頭蓋骨でも折るつもりか」
頭上から吐き捨てられる苦々しい声。
見上げると、そこには辻のむっつりとした表情があった。