弾倉の臥狗(10)
「……何でいんの?」
カウンターに背中から飛び込んだ男は足先まで痙攣させている。失神はしたが、死んではいないだろう。辻はそれを確認すると、相変わらずのんきな顔をした十文字をギロリと見下ろした。
あんな立ち去り方をして、何でいるの、じゃないだろう、と喉まで出かかるが、飲み込んだ。
聞きたいのはこっちの方だ。
どうして生涯を尽くそうと決めていた茅島の誘いを断って十文字のところに駆けてきてしまったのか、辻にもわからない。
茅島が行けと言ったからだと弁明することはできるが、多分、そうじゃない。
茅島は辻の気持ちを汲んで、そう言ってくれたんだろう。
「お前こそ、こんなところに何の用だ」
室内はひどく空気が悪い。
茅島に連れられていろんな組事務所を邪魔したことはあるが、そのどれとも違う。いわゆるゴロツキの集まり、掃き溜めといった感じだ。
「こんなトコロってなんだよ、勝手に踏み込んできておいて、ゴアイサツだな。お坊ちゃんたち」
カウンターの向こう、二階へ続いているのだろう階段が軋む音とともに巨体の男が姿を表した。上半身は裸で、浅黒い肌に刺青が入っている。
髪は縮れた毛を短く刈った、坊主頭だ。どこかで見覚えのある――。
「お前が丁?」
尋ねた瞬間、反射的に十文字を抑えようとしたが、遅かった。
辻の手をするりと通り抜けた十文字の肩を追おうとすると、辻は他の男に腕を捉えられた。
「十文字!」
俺から離れるな。
辻は、自分を抑えようとした男の腕を逆にひねり上げると引き上げた膝に男の脳天を叩きつけ、振りほどいた。一斉に、辻に男達が飛び掛ってくる。
「お前は?」
丁と呼ばれた男が細い目を釣り上げて十文字を見下ろした。
掴みかかってくる男達の頭をなぎ払い、腹に拳を埋めながら、辻はもう一度、十文字の名前を呼んだ。
男はどこか弛緩した表情をしている。薬物を決めているのだろうことは辻にはわかる。しかし、十文字はわかっているのかどうか。
辻は焦れた。
「十文字! 近付くな!」
十文字は巨体の丁を前にしても、恐れる素振りひとつ見せない。
「お前に頼みたいことがあって来たんだ」
丁はゆっくりとカウンターを回りこんできた。首を前後に揺らしながら、十文字の言葉を温和そうに聞いている。十文字にも緊張感はない。
一方で辻は、何かに取り憑かれたように向かってくる二十歳前後の男達をぶちのめしていた。
喧嘩は父親に教わった。武道という武道も、ひと通りやってきた。茅島のために役立てるつもりだった。まさか、こんな風に使うとは思ってなかった。
「頼みたいこと?」
丁の口元は笑っているようでもある。十文字はその薄気味悪い表情を見上げて、身構える様子もない。
相手はいつ暴れだしたっておかしくないのにだ。
何度殴りつけても向かってくる最後の男の足を掬い、後頭部をしたたか床に打ちつけてやると、辻は自分がなぎ倒した男達の体を跨いで十文字のもとへ向かった。
足首を掴まれる。
「!」
バランスを崩した辻が床に転がると、意識を取り戻した男が馬乗りになってきた。膝を立てて腹を蹴り上げ、男と一緒に転がる。
一度辻に殴られ、倒された拍子に頭を打ったのだろう、男は額から血を流しながらも死に物狂いで、決して辻を離さない。
こんなになってまで辻に向かってくる男がいるというのは、それだけ丁が恐ろしい人物だということなのか。
辻は男の胸を鳩尾に体重をかけて拳を埋めた。
「そうだ。絶対に約束してほしい。――俺の邪魔をしない、って」
「邪魔? した覚えはない。お前の顔は初めて見た」
くぐもった声で言った丁が、十文字の綺麗な顔をねっとりとした視線で覗き込む。辻はそれを見上げながら、気絶した男の腕をかなぐり捨てて、立ち上がった。
「そう? 俺はあんたのこと知ってるよ。菱蔵の用心棒だろ?」
十文字の言葉に、辻は息を飲んだ。
いつか、十文字と一緒にファストフード店から見た菱蔵組長のセダンを運転していた男。坊主頭のあの男が、丁だったのか。
目を瞠った辻の視界の先で、カウンターに伏せていた男がぴくりと身動いだ。
「十文字、気をつけろ!」
咄嗟に飛び出して、辻は駆け出した。丁と十文字の間を割って入り、カウンターの男を抑えこむ。意識を取り戻した男は、掴みかかった辻の肩に割れたビール瓶を振り下ろした。
「――!」
思わず顔を顰める。
鼻血を流した男は、苦痛に表情を曇らせた辻に笑いかけた。
「調子にのるなよ、俺達のバックについてんのは、菱蔵なんて小せぇ組だけじゃねぇ」
低く呟かれた声を聞き止めたのは辻だけのようだった。背後の十文字を振り返ると、丁しか見ていない。
それも、いつまでになく静かな表情をしている。
「俺は、菱蔵を殺したい。だから、用心棒のあんたが邪魔なんだ」
薄い唇をゆっくり開き、十文字は囁くような声音でそう言って、――ポケットからジャックナイフを取り出した。
刃渡り二十センチほどはあるだろう。バーの天井から吊るされた裸電球の光を反射して、十文字の冷たい表情を照らしている。
辻は言葉を無くした。
肩に脈打っている傷の痛みも取るに足らない。暴れようとする男の頸動脈を抑えると、ものの数秒で男は失神した。
「俺を殺せば『絶対の約束』か。悪くない考え方だ」
「だろ?」
十文字は笑っている。
しかしナイフを握っているのは左手で、構える素振りもない。どうすれば人を殺せるのかなんて、十文字にわかっているようには思えない。
「十文字、……やめろ」
肩に刺さったビール瓶の破片を引き抜き、カウンターを離れた辻はゆっくりと十文字に歩み寄った。
十文字が短く首を振る。
「辻には迷惑かけないって言っただろ。他の奴らを止めてくれたのは有難いと思ってる。でも、もー帰って。……汐ちゃん待ってるだろ」
辻を一瞥もしないで微笑んだ十文字の視線の先で、丁は悠然としている。
しかし、十文字が不用意に飛びかかれば片腕で払い落とすことができるように神経は張り巡らされている。伊達に用心棒として雇われてるわけじゃないだろう。
辻は血の滴る腕を抑えながら、十文字を刺激しないように視線を巡らせた。
「別に、辻を利用しようと思ったわけじゃないんだよ。確かに部下は欲しいなーと思ってたけど、辻は友達がいいよ。まー、辻がどう思ってるかは知らないけどさ」
丁を見据えた十文字は、そう言いながら手の中のナイフを何度も握り直している。汗が滲んでいるのかもしれない。殺せるわけがない。辻は歯噛みした。
どうしたらこの場から十文字を連れて逃げ出せるか。辻は十文字に伝えたくて、どうにかこっちを見てくれないかと祈るように願った。
十文字は辻を見ない。丁を見ている。
どうして辻を見てくれないのか、苛立ちは藤尾にばかり食いつく十文字への気持ちを呼び起こして、こっちを見ろ、と声を上げてしまいたくなる。
十文字が見つめる先は自分だけであって欲しい。
「辻は強いけど、汐ちゃんを守ったり、俺の面倒みる時しか暴力振るわないだろ。だから、友達だ」
十文字が、笑った。
こんな状況の中で、まるで幸福な仔猫のように目を細めて。
「十文、――」
辻がナイフを構えた十文字に腕を伸ばしかけたその時、丁が十文字に突進してきた。二歩、三歩。その巨体に合わない俊敏な動きに、辻の反応が一瞬遅れた。
甲高い音を立てて、ナイフがアスファルトの床を叩く。十文字の細腕を掴み上げた丁はそのまま十文字を押し潰すように乗りかかった。
「別れの挨拶はもういいか?」
十文字の腕を背後にひねり上げ、肩に膝を乗せて取り押さえた丁は、十文字の華奢な体が折れてしまおうと構わないというように容赦なく体重をかけている。
十文字の息が止まる。肋骨も治っていないだろう。さすがに、歯を食いしばった十文字が呻いた。
「ッ!」
辻は丁に掴みかかると、巨体の脇に両腕をねじ込んで十文字の上から退けようとした。しかし、無理に丁を退かそうとすると、十文字の腕ごと持っていかれる。床に押し潰された十文字が悲鳴をあげると、辻は丁の首の付け根を強く打撃した。
獣じみた声を上げて振り返った丁が、丸太のような腕で辻を振り払った。まだ細かい破片の残る肩を殴られて、辻は思わず怯んだ。
丁の表情は既に弛緩した温和そうなものではなく、完全に薬物に取り憑かれたそれになっていた。
十文字の背中に乗りかかったまま、丁が床に落ちたナイフを手繰り寄せる。
「!」
辻は迷わずに、飛び込んだ。ナイフを持った丁の腕を蹴り上げる。丁はナイフを手放さず、腕を突き上げた。
十文字の姿が辻の目に飛び込んできた。床に転げた十文字は遠くにいるのに、何故かそう感じた。
次の瞬間、辻は顔に熱が走ったのを感じた。
「辻!」
息を殺して呻いていたはずの十文字が、声を張り上げた。
間を置いて、辻は自分の顔が濡れていることに気付いた。どこか切られたのか。音を立てて血が滴っている。肩じゃない。視界が暗い。
丁が十文字に向き直った。辻は距離感がわからないまま丁の首を掴むと、十文字から引き離そうとした。
吼えている。
自分の声だとは思えなかった。顔の左半分が熱い。
「辻、もう動くな!」
丁の肩越しに十文字が辻を見ている。
辻だけを見ている。
殺したい相手がいるのに、自分が危険に晒されているのに、十文字は辻を見ている。
「十文字、逃げられるか」
丁のナイフを持った方の腕を掴みあげて、辻は尋ねた。十文字は腹を押さえて、かろうじて立ち上がれる程度だ。とても走れそうにない。
辻は左目を覆う血を拭った。拭っても、視界は晴れそうにない。丁が咆哮を上げて、辻の腕を振り払った。
「――っ、くそ……!」
咄嗟に、十文字を背後に庇った。十文字が逃げ切れないなら、辻だけが逃げおおせても仕方がない。そんな真似をするくらいならここまで十文字を追ってきたりはしない。
十文字は辻の背中で何か喚いている。よく聞き取れない。
丁が、勝ち誇った表情で高笑いをしながら、ナイフを振り上げた。
その時、店の窓に赤色灯が映った。サイレン。丁の気が逸れたのを、辻は見逃さなかった。背後の十文字を抱え上げると、店の床を蹴った。
丁も追っては来なかった。
店を転げ出ると、そこには見知った顔の若い巡査がいた。
「何を派手にやらかしたんだ」
呆れた様子で言って、千明はひらひらと手を振った。パトカーの助手席には誰も座っていない。正式な出場ではないのだろう。茅島か藤尾が気を効かせてくれたのかも知れない。
「面倒見切れないからな、早く行け」
正式な出場でない以上、事件にするわけにもいかないというわけか。
千明は血まみれの辻を押しやるように店から退けると、さっさとパトカーに乗り込んでしまった。