弾倉の臥狗(8)
「じゃーね、汐ちゃん。また明日」
燃えるような夕日が高層ビルの谷間に沈んでしまう頃になると、十文字は汐に手を振る。
十文字がどこに住んでいるのか、どこへ帰っていくのか辻は知らない。聞けばあっさりと教えてくれて、もしかしたら至って普通の、あたたかい家庭へ戻って行くのかも知れないとも思う。
できれば、そうであって欲しい。
「うん! 明日また、ほげなこつとんとんでええじゃないか体操の続きやろうね!」
辻は汐と一緒になって奇妙な踊りをおどっている十文字の姿を一瞥して、家の中に踵を返した。今日は父親が早めに出勤すると言っていた。その前に背広を綺麗に整えて、スラックスのプレスを確認しておかなければならない。
その時、聞き慣れたエンジン音が聞こえて辻は振り返った。
黒光りするBMW。茅島の愛車だ。
十文字に視線を走らせると、十文字は住宅街に侵入してきた幅の広い車から汐を守って路肩に寄っていた。
「あ! かやしまさんだぁ」
汐がすぐに気付いて、声を上げた。
茅島、という名前を聞いても十文字には特別な思いはないようだった。ただ、辻を仰いで「お客さんだよ」とでも言いたげな表情をしただけだ。
左ドアが開いて、茅島が降りてくる。光沢のあるスーツを来ている。シャツの胸を開いて、タイが下がっている。堅苦しい仕事の帰りといった風だ。
「辻、出られるか」
辻の姿を見ると、茅島は穏やかに笑った。しかし、何かむしゃくしゃした後なのだろうという気がする。茅島は辻に当たるような真似はしない。ただ、気分転換に辻を呼ぼうと思ってくれただけだろう。有難いことだ。
辻にはまだ渡世人の駆け引きなんてものは理解しきれていない。それでも茅島が呼んでくれる酒の席で少しずつ学ばせてもらっていると思っている。
「はい」
辻はふたつ返事で肯いた。
父親には茅島と出掛けると言えば、反対のしようもない。辻の父親は、息子が<堂上の御曹司>とつるんでいることを誇らしく思っているようだから。
「かやしまさん、こんばんは!」
はるか頭上でかわされた視線を遮るように両手を上げて飛び跳ねた汐に気付いた茅島が、視線を下げる。
「ああ、今晩は」
短く答えた茅島の視線が、十文字を掠める。
しかし何も言わなかった。十文字も、なんてことない表情をしている。辻の家に回覧板を持ってきた主婦を見ているのと大して変わらない面持ちだ。
辻はどこか安堵したような、腑に落ちないような相反する気持ちを飲み込んだ。辻一人がやきもきしているようで、落ち着かない。
「すぐに支度します。汐、家の中に――」
居心地の悪さを取り繕うように辻が汐を招いた時、助手席のパワーウィンドウが開いた。
「茅島、TRAMPってこの近所じゃないか」
助手席で足を組んでいたのは、藤尾だった。珍しく無地のシャツを着けている。
そろそろ藤尾が仕事を始めるということだろう。
藤尾はいつも柄の入ったシャツを好んで着るくせに、「仕事」に臨む時だけは無地の、それもとりわけ淡い色の服を着た。被害者の返り血が目立つように。
辻はそれを悪趣味だと思ったが、茅島が言うには藤尾の服が赤く染まれば染まるほど、標的は戦意を喪失するのだという。こんなに血が出ているのだから自分はもうだめだとか、返り血に染まった藤尾の姿は悪魔のように見えるのだろうと。
藤尾が本当にそれを計算しているのかどうかは、辻にはわからない。しかし、茅島がそう言って藤尾を評価しているのならば、それが真実だ。
「そうだな。様子を見ていくか」
藤尾が顔を覗かせた窓を茅島が振り向いている間に、辻は汐を家の中に促した。父親に茅島が迎えに来たから自分は行くと伝言を託して。
「TRAMPって、あの潰れたバー? なら、この先の商店街を抜けてってすぐだよ」
汐が家の扉を閉めるやいなや、藤尾と茅島の間に割って入る声があった。
十文字だった。
「丁って中国人がいるとこだよね」
辻は十文字の顔を見やった。茅島も、藤尾も十文字を見つめている。
十文字はいつものように笑っていない。
「知ってるのか」
「お前、どこかで見たことがあるな」
茅島が口を挟んだのと、藤尾が窓から身を乗り出したのはほぼ同時だった。藤尾の声のほうが高く、十文字は藤尾に向かって大きく口を開けて笑った。
「ヤーダ、お兄さんったらー。ナンパ?」
いつもの調子で茶化した十文字が、さりげなく右手を体の影に隠した。怪我を負った方の手だ。辻は双眸を細めた。
「さすがに俺も男子高校生をナンパするのは初めてだ」
試してみるか、と笑う藤尾も十文字の軽口を気に留めていないようだ。茅島が辻に目配せをした。辻は黙って、視線を伏せた。
話の核心を戯言で隠したがるのは、十文字も藤尾も似ているのかも知れない。窓に肘をかけて身を乗り出した藤尾は十文字の肩を叩いて笑い声を上げている。まるで旧知の友人のように。代わりに、茅島と辻は押し黙った。辻にいたっては、ため息すら吐きたくなるほどだ。
「一緒にTRAMP行くならナンパされてもいーよ」
ひとしきり馬鹿騒ぎをした後で、十文字が言うと、さすがに藤尾も眉をぴくりと震わせた。
「三国一のイケメン様があんな店に何か用事でも?」
それでも、藤尾は興味津々といったように車内から食い入るように十文字の顔を見上げている。辻は茅島の判断を待つまでもなく、十文字の肩を掴んだ。
十文字が藤尾を接触することは、好ましくない。
十文字が辻の周りをうろついている限り、また茅島に遭遇することが避けられないことなのは明白だったし、その先でいつ藤尾に会ってもおかしくはなかった。
そんな単純なことを忘れて、汐を口実に十文字を遠ざけずにいたことを、辻は後悔した。
「十文字」
茅島と邂逅した時のことを思って、辻は十文字の口を塞ぐように腕を回した。車から引き剥がす。茅島は苦笑を漏らして、運転席へ戻りかけた。
「丁に会いたい」
しかし、辻の手をかなぐり捨てた十文字が声を上げた。
その表情に笑みはない。
グレーがかった瞳に、消える間際の夕焼けが赤く映りこんで燃えているようだった。
辻は慌てて十文字の口を塞ぎ直した。肋骨が折れていようと、手首が腫れていようと、手加減するべきじゃなかった。
丁のことは、辻もよくは知らない。ただこの半年でこの辺りに流れこんできたチャイニーズマフィアの一端で、堂上会のシマを侵食してきているという話だったから、藤尾が東京へ戻ってきたのもそのためだとは思っていた。
だからこそ、十文字を関与させるわけにはいかない。
藤尾の「仕事」は繊細だ。カタギに邪魔されれば藤尾の命にも関わる。
「いい加減にしろ、カタギが口をはさむ話じゃ、」
「どうして会いたい?」
藤尾を振り返ると、頬杖をついて笑っている。面白がっていすらいるようだ。
一介の高校生が丁に会うなんて本気で言ってると思っていないのだろう。それも、辻の近くにいるのだからまともな神経を持っていると思ってるはずだ。
そうじゃない。
十文字は、異常だ。
呼吸を邪魔をしても構わないというほど強く塞いだ辻の掌に、十文字が噛み付いた。不意のことに辻が腕を離すと、十文字は転げるように辻の腕を離れ、藤尾が顔を出した窓際に駆け寄った。
「俺の邪魔をするヤツは殺す」
見開いた十文字の瞳が、闇の中の猫のように爛々と光っている。
藤尾もさすがに窓から身を引き、眉を顰めた。運転席を開いた茅島は、黙って十文字を見つめている。辻は十文字を再び黙らせなくてはと焦る一方で、身動きが取れなくなった。
十文字の白い肌は青ざめ、唇も白く血の気が失せている。茅島のBMWに縋るようについた手は小刻みに震えていて、まるで死に絶えていく直前の人間のようだ。その中で、両目だけがギラギラと生々しく光っている。
気付くと、辻は息を詰め、後退っていた。
「殺す? ――ずいぶん簡単に言うじゃないか」
茅島が口を挟むと、十文字は茅島を振り仰いだ。その唇に笑みが浮かんでいる。
狂気の顔だ。
「ま、いいさ。俺も目的は同じだ」
アハハハ、と声を上げて笑った藤尾が手をひらりと振った。辻はいつもと変わらない藤尾の調子に救われたような気がして、我に返った。慌てて十文字に歩み寄り、腕を引く。
十文字の体は冷たく、しかしびっしょりと汗をかいている。
「丁は確かにTRAMPにいるみたいだ。そこを根城にして、うちのシマを汚してる」
そう話す藤尾の目が笑っている。藤尾に対して、辻が口を閉じてもらうように言うことはできなかった。
十文字は辻に抑えられても、暴れはしなかった。辻の存在など忘れてしまったかのように、藤尾に食い入っている。
斉木や光嶋と一緒にいる時は、辻以外に見向きもしなかったくせに、今は藤尾しか見ていない。辻は、十文字の腕を押さえる力を強めた。それでも十文字は振り返らない。辻がこのまま十文字の腕をへし折っても、十文字は気付かないかも知れない。
「薬は」
呟くような低い声が誰のものかと思ったら、十文字の震える唇から零れていた。
藤尾は感心したように目を瞠ってから、短く肯いた。
「この辺に懇意のブローカーがいるんだろうな。脅しかけたくらいじゃテコでも動きゃしねぇ」
藤尾の口調はまるでカタギとの会話じゃない。辻は、腕の中に抑えた十文字が何者なのか判らずに混乱した。
「だから始末するのか?」
十文字が尋ねた。
「ああ、する」
藤尾が笑って肯く。
辻は、自分の胸の内を突きあげてくる何ものかわからない衝動に歯噛みした。
不快だった。
カタギ相手にそんなことをペラペラと話す藤尾も、それを止めようとしない茅島にさえ苛立ちを覚えた。
「俺も手伝ってやろうか? なぁ、銃とか持ってる? 貸してくれよ」
「――十文字!」
弾かれたように、辻は声を張り上げた。
掴んでいた腕を引いて、振り返らせる。
十文字は、辻の存在に今気付いたばかりだとでも言いたげに目を丸くして辻を仰いだ。
「お前、……いい加減にしろ、と何度言えば判るんだ? お前には関係ない世界なんだよ、藤尾さんの仕事も、堂上会も、菱蔵組も、全部、全部」
どうしてわからないのかという気持ちが止め処なく突きあげてきて、辻は拳を震わせた。
この気持ちのまま十文字に手を上げれば、十文字を傷つけるだろう。斉木の暴力などよりもよっぽどひどいことをしてしまうに違いない。
いっそ十文字が動けなくなるほど傷を負わせれば十文字はじっとしているようになるだろうか。そう思うのに、辻は十文字に手を上げる気にならなかった。
お前らみたいに暴力で解決するやつら、と十文字は言った。
辻にまとわりつく十文字を暴力で排除しようとした斉木も、汐をいじめる同級生を暴力で遠ざけようとした辻も、十文字にとっては快く思っていなかったんだろう。
だから辻は十文字を傷つけたくはない。
しかし、十文字は銃を貸せと言った。丁の話など辻にしたことはない。丁が根城にしている店の話も、辻に対してそんな狂気じみた顔を見せたこともない。
藤尾には見せても、辻には。
「関係あるかないかは、辻が決めることじゃないだろ? 俺が、決めることだ」
「――――!」
辻は思わず手を振り上げた。
十文字は避けようともしない。斉木に対してそうだったように。
「――お前は、俺を利用するために近付いたのか」
辻がヤクザ者の息子だから、茅島や、藤尾のような人間とのパイプのために執拗にまとわりついてきたのか。汐を使ってまで。
そして、藤尾のような「殺せる人間」が現れたら――辻はもう、用なしというわけか。
初めて会った時、学校の廊下で十文字は言った。人が殺せるか、と。
今度は藤尾に対して「部下にしてやる」とでも言うつもりか。
辻が苛立ちに任せて家のブロック塀を殴ると、鈍い音がした。十文字はそれを一瞥もしない。
さっきまでの尋常じゃない表情も消え失せて、感情の読み取れない顔つきで辻を仰いでいる。
まるで子供のように怒りと苛立ちを顕にした辻を、嘲笑うでも非難するでもない、ガラス玉のような瞳だ。
「違う」
十文字は息を吐くように答えた。
「お前が誰の息子でも関係ないって、言っただろ」
「じゃあどうして、」
辻が言葉を被せようとすると、十文字は下唇を噛んで、ついと視線を伏せた。左手で額の汗を拭って、そっぽを向いた。
「――じゃあもういいよ。辻に迷惑はかけない」
そう言って、十文字は辻の脇を通り抜けた。
茅島にも藤尾にも挨拶せず、黙ったまま、夜の忍び込んでくる街に溶けてるように消えて行く。
辻はその後姿を振り返ることも出来ずに、体の中をグルグルと巡る得体の知れない感情を堪えていた。
ブロック塀を殴った拳が痛みを発してくる。
「いいもん見た」
藤尾の声がしたかと思うと、パワーウィンドウが静かに閉まるところだった。愉快そうに笑っている。
茅島は十文字の去って行った方を見遣った視線を辻に戻すと、呆れたように息を吐いた。
「珍しいな、お前が声を荒げるなんて」
「辻もそれなりに青春してるってことだろ、放っといてやれよ」
運転席側から漏れ聞こえてくる藤尾の揶揄に、辻は唇を噛んだ。
十文字の背中はまだ見えるのだろうか。振り返ることもできない。
「辻」
茅島の苦い声に辻が顔を上げると、茅島は顎先で十文字の背中が見えるだろう方向を指した。
「あいつはお前が何と言おうと止まらない。そういう目をしてる」
ファストフード店で茅島に対峙した時の十文字がどんな目をしていたのか、辻は知らない。今も、十文字が本当に見せる本音の目は、辻には向けられない。
辻にはわからない。
辻が何十、何百時間十文字と一緒にいてもわからないことを、茅島は知っている。辻は奥歯を噛み締めて、俯いた。
それならもう止めたりはしない。
十文字だって止めてもらいたくはないのだ。辻が迷惑顔をしたって付きまとってきたのは十文字の方なのに、今度は勝手に去っていく。
「辻」
トントン、と指先でBMWの頭を叩いて茅島は辻の気を引いた。視線を上げると、苦笑している。
辻自身でも持て余した感情を顕にしているさまを笑っているのだろう。辻は、血が滲んだ手の甲で自分の頬を拭った。
「あいつの――十文字って言ったか、……様子を見てこい」
辻は首を左右に振った。
茅島の言うことに従わなかったのは初めてかも知れない。咄嗟のことで、自分でも意識していなかった。
「いえ、今日は茅島さんと」
「見てこいと言ったんだ」
夕日は沈んで、辺りはすっかり暗くなっている。静かに発せられた茅島の声は、辻をピシャリと叩いた。
「あいつの様子を見ただろう。あれは無茶しかねない。みすみす死なせるわけにもいかないんじゃないのか? ――お前の、ツレなんだろう」
辻は息を飲んだ。
十文字の家の方角は知らない。いつも帰っていく方向はまちまちだ。しかし、十文字が今日去って行った方向は十文字が藤尾に説明した通り――TRAMPのある方だった。
「……っ、失礼します!」
瞬間、辻は茅島に頭を下げると、踵を返した。十文字の姿はもうない。
辻は駆け出した。