弾倉の臥狗(7)

 クリームパンが三つ、チョココロネが一つ。おにぎりが二つと、唐揚げ弁当が一つ。
 十文字の昼食はそれだけで終わらなかった。
「持ってきたんだろ?」
 あっ、と声を上げる間もなく甘ったるい菓子パンを平らげてしまった十文字は唇の端にクリームをべっとりとつけたまま、瞳をぎらつかせた。
 辻はしぶしぶ鞄を開いて、黙ったまま弁当箱を取り出した。
 十文字が買ってきたコンビニエンスストアの唐揚げ弁当の半分ほどのサイズの赤い弁当箱が、花柄のハンカチで包まれている。
 汐が登校前に朝食を詰めたものだ。
 辻の分とは別に、もう一つ。いつも汐が愛用している花柄の弁当箱だ。汐に今日小学校は弁当なのかと尋ねると、
「ちがうよ、これはじゅーもんじさんの分! 忘れないでもっていってね!」
 と、さも当然のことのように言われた。
 聞けば、前日に約束したのだという。
 汐のことは何でもわかっているつもりだった。しかし最近は知らない内に十文字と汐の間だけで周知していることがあるようだ。
 汐は自立した女に育てたいと思っていたし、いつか兄離れする日も来ることは覚悟していたが、そのきっかけが十文字だということが辻には面白くない。
 どうやって汐を手懐けたのだと問い詰めたい気持ちをぐっと堪えて、辻は弁当箱を差し出した。
「よっしゃ」
 小さい声で言って、十文字は恭しくそれを受け取った。両手で頭上に抱え上げるように持ち――頭を垂れるというよりは、弁当箱を獲た自分を誇っているようだ。
 十文字が誇らしげに胸を張った先には誰がいるわけでもない。寂れた屋上のアスファルトが広がり、歪なフェンスがあるだけだ。
 あれ以来、斉木や光嶋は辻に付いて歩くことが少なくなった。
 露骨にぎこちなくなることはないが、しかしあの時十文字を庇って斉木を突き飛ばした辻の真意を聞くまでは元通りにも戻れないのだろう。そして、その「真意」は辻にもわからない。
 自然と、辻の周りには十文字の姿が多くなった。
「素晴らしいな! 幼女の作った弁当とは思えん! この淀みないフォルム! そしてこのツヤ! まさに職人芸だ! 汐ちゃんの将来は決まったな! 弁当箱職人だ」
「蓋を開け」
 辻は大きさ重視で味気ない四角いタッパーを開くと、中に詰められた俵型のおにぎりを取り出した。
 斉木や光嶋と違って、十文字は口数が多く、とにかくうるさい。放っておけばずっと喋っているし、大きい独り言なのかと思って聞き流していると突然後頭部を殴られて「話を聞け」とどやされる。
 辻の頭を殴ったなんて斉木が知ればまた怒り出すかも知れない。茅島が知れば笑い出すか、あるいは顔を顰めるかも知れない。
 辻自身は悪い気がしなかった。
 十文字の殴る力など汐と大して変わらないし、話を聞いていない辻が悪いのだから仕方がない。
 実際十文字は、相槌をいちいち打たなくても辻がきちんと話に聞き耳を立てていればそれで満足のようだった。そうして聞いてみると、十文字はとりとめもない、どうでもいいようなふざけたことばかりぎゃあぎゃあと喚き立ているようで、まるで歌っているかのように喋る。
 高めの音域で途絶えることなく、大袈裟に抑揚がついた話し口調は妙に耳に心地良くて、一度は十文字の話を聞いているうちに眠ってしまったこともあった。
 それでも十文字は辻を起こしはしなかった。
 話を聞いていなかったんだから怒られるものかと思ったが、辻が起きるまでじっと傍らに座っていた。
 起きた後でやっぱり殴られたが。
「お、エビカツだ」
 弁当箱の中身を実況する十文字の声を聴きながら辻がブロッコリーを頬張っていると、ふと、箸を持つ十文字の手の異変に気付いた。
「どうした」
 ばく、と箸の先に突き刺したエビカツを一口で喰らった十文字の手首を、視線で指す。
「はひふぁ?」
 エビカツの衣を口の周りにつけたまま聞き返した十文字が、さりげなく手首を隠した。箸を持つ指先もやはりおかしい。力が入っていないようだ。
「見せてみろ。――手首、怪我しているだろう」
 辻が弁当箱を置いて手を差し出すと、その隙を狙った十文字が、辻の弁当箱からエビカツを掠め取って行った。しかし辻はそれを追おうともしなかった。
 腕を伸ばした十文字のワイシャツの袖口から、青黒く変色した肌が見えた。
「何でもないよ。ちょっとアレしただけ」
 十文字は素知らぬ顔で弁当を平らげてしまった。
 まだ斉木に折られた肋骨も完治していないはずだ。そう痛んでいるようでもないが、その後、病院にしっかり通っているのかどうかもはぐらかされ続けている。
「――ほんと、折れたりしてないってば」
 弁当箱に両掌を合わせた十文字を険しい表情で見つめた辻に眉を顰めた十文字が、怪我をしている手首を押さえて唇を尖らせる。
 折れていないと言うことは、ひどい打撲程度ということか。あるいはヒビでも入っているのか。いずれにせよ、手当もされていないところを見ると病院には行っていないのだろう。
 辻はますます渋面を深くした。
「斉木にやられたわけじゃないだろうな」
 斉木は筋の通った男だと思っている。十文字を闇討ちするような男じゃない。しかし、辻のいない場所で偶然十文字と出会して、十文字がいつもの調子で斉木を無意識に挑発していたら。
「違うよ」
 しかし、十文字は一笑して首を振った。
 長い前髪が揺れて、十文字の表情を隠す。
 捉えどころのない男だ。
 放っておけばどうでもいいことはいくらでも話し続けるくせに、自分のことは何も言わない。
 汐を可愛がり、面倒を見てくれるが、自分に兄弟がいるのか、親はどんな人物なのか――十文字の自宅の場所も、出身中学も、辻は知らない。
 そんなことを根掘り葉掘り聞くような性分は持ち合わせていないが、それにしたって毎日何時間も――やむを得ず――一緒にいて、普通の人間の五倍以上はたくさんの言葉を浴びせかけられているだろうに、見事なまでに十文字は自分の話をしない。
 まるで過去のない人間のようだ。
「十文字、清臣――……」
 毛穴がないのではないかと思うほど滑らかな肌に、頭上から注ぐ太陽の光が反射して光っている。
 まるで現実味を持たない容姿と、背景の見えない人間性。
 本当に十文字という男が実在しているのかどうか不安にも似た気持ちを覚えて、辻は思わず呟いた。
「何?」
 瞬間、顔を上げた十文字の大きな瞳が辻を射抜いた。
「――!」
 辻はすくみ上がった。
 どうにも、十文字の視線は心臓に悪い。
 辻の何もかもを隅々まで見透かしているような、それでいて逃れることのできない、妙な引力を感じる。
「いや、――そうだ、お前、家での食事はどうしてるんだ。その、……いつも外食だけど、弁当は持たせてもらえないのか」
 汐の手製弁当を欲しがるなんて図々しいと暗喩を込めたつもりが、十文字の家庭事情を探るような言い回しになって、辻は珍しく口数の多い自分を恥じた。
 大きく引き下げた口端を掌で覆って視線を伏せた辻の視界の端で、弁当箱を包み直す十文字の手が止まった。
 一瞬、十文字の表情が消えたようだった。
「十、――」
「そんなもん登校中に食っちゃうよ! お前俺の胃袋なめてんの?」
 立ち入ったことだったかと、撤回しようとした辻の言葉を遮った十文字が大きく口を開けて笑った。
「登校中に半分食べて残しといても、二限目終わったら腹減るし。ほら、俺って腹が減ると思考能力の低下が著しいから、十文字くん次の訳を答えなさいっつってもアイムハングリーアイムハングリーしか言えなくなったら困るじゃん? センセーのためにもね? 俺の胃袋は満たしておく必要があるわけよ。つっても満ちたら満ちたで寝るんだけどさ!」
 つーかもう眠い、と言い放って急にバタンとその場に横たわった十文字は、次の瞬間にはもう寝息を立てている。
 口の端にはクリームとエビカツの衣がついたままだ。
 辻は自分の弁当箱を包んだハンカチを取ると、十文字の口端を慎重に拭った。十文字の狸寝入りを邪魔しないように。
 
 
 十文字が空の弁当箱を持っているところなんて、見たことがない。