弾倉の臥狗(6)
「辻」
屋上へ向かう途中で呼び止められて、辻は振り返った。教室の扉から十文字が顔を覗かせている。
辻の背後で斉木が派手に舌打ちをしたが、辻は取り合わなかった。
「今日汐ちゃん帰ってくるの、何時?」
十文字が飛び出てきた教室の中のことは、辻は知らない。
授業の合間の十分休みに十文字がクラスメイトとふざけあっている姿を見かけたことがある。十文字は至って平和に高校生活を過ごしているようだ。
辻から見れば十文字は異端だ。しかしそんなのは辻の主観であって、多くの生徒にしてみたら十文字は普通の高校生なのかも知れない。
だとすれば、辻に話しかけるのは得策ではない。
さっきまで和気あいあいと冗談話に興じていたクラスメイトが次の瞬間やくざ者と話していたら、十文字が爪弾きにあう可能性がある。
小学生の頃から、辻はそんな目に遭う友人をみてきた。保育所には入れてもらえなかった。それを不幸だと思ったことはない。社会とはそういうものだ。他人を巻き込むことはできない。
「汐にはもう関わるな」
辻自身にも。
思わず十文字の声に振り返った自分を戒めるように、辻は唸った。
隣で缶ジュースを飲み干した光嶋が小さく肯いて、屋上への途を再び歩き始める。
しかし、十文字は顔を覗かせた教室を飛び出てきた。辻の前に、転げ出てくるように。斉木が反射的に腕を突き出した。十文字に届きはしなかったが、塵でも振り払うような気軽さだ。
「えー、やだよ。俺汐ちゃんと約束しちゃったし」
十文字は一度斉木に殴られたことがあるはずなのに、身構える素振りも怯む様子もない。
相変わらず、十文字には辻の姿しか見えていないようだ。
辻自身、斉木や光嶋をとりまきだと思ったこともなければ、護衛のように思ったこともないが、それでも傍から見れば三人で歩いている姿は異質な軍隊のように見えるのだろうということは想像できる。
辻が腕を上げなくても、大抵のことは斉木の腕力で、あるいは光嶋の威圧で周囲の煩わしいものは散っていった。
しかし十文字には斉木の腕力が効いていないようだ。辻には理解し難かった。
「汐は俺が迎えに行くから気にするな」
はるか眼下の十文字の顔を見下ろすと、窓から差し込む太陽の光を浴びた十文字の目は、明るいグレーに見えた。人形のような顔立ちをした男だ。肌は陶器のように白くて、夜の街で茅島が連れている高級そうな女よりもずっと輝いているように見える。
辻は目を逸らした。
「俺思うんだけどさ」
辻がいつまでも足を止めていることを不思議に思ったように、数メートル先で光嶋が訝しんでいる。斉木は辻の隣でいらついているようだ。
そのどちらにのことも気に止めずに、十文字は言葉を継いだ。
「いじめっ子を排除するだけじゃダメなんじゃないの? 汐ちゃんの友達を作る方向に考えないとさー。送迎は俺らができるとしても、授業中は見守ってらんないっしょ?」
辻は肯いた。
授業中のことは辻の知った事ではないし、教師たちは既に汐のことを見て見ぬふりしている。いじめの実態を知りつつも放置していたとなれば――一般家庭の子供以上に――面倒になるが、知らなければ仕方がない。だから汐は必要以上に教師たちから顔を背けられているだろう。辻がそうだったように。
「何が言いたい」
汐を陰湿にいじめる生徒がいなくなるように、辻は働きかけてきたつもりだ。
この世の人間は平等ではない。いじめをする人間こそがそれを知っていて、異端者を弾くのだ。それならば、異端者は異端者なりに暴力をもって不平等を教え、関わることを止めてくれれば済む話だ。
辻は子供たちに社会を教えてきたつもりだった。
それでも汐はまだいじめられていた。それを辻には言わず、よりによって十文字に発見された。
汐が何故、実の兄である辻に言わなかったのか、未だに不愉快に思っている。
「だから、辻みたいに暴力で解決するんじゃなくてさ、友達を作る方向に導いたほうがよくね? そしてそれはつまり辻よりも俺のほうが適役じゃん? そういうこと。わかる?」
辻は言葉に詰まった。
確かに、汐がカタギと馴染んで生活していくためにはその方が良いことはわかる。
辻よりも、十文字のほうが向いているだろうことも。
しかし、にわかに首肯できない。
出来れば十文字とは関わり合いたくない――その思いが、まだあるからだ。
「てめー、さっきから聞いてりゃなんなんだよ」
その時、斉木がしびれを切らしたように十文字の肩を掴んだ。辻と十文字の間に割って入り、肩口の刺青をちらつかせながら十文字の制服をひねり上げる。
「いや、お前こそ何か用? 俺、辻と話してんだけど」
あとでねー、と十文字は陽気に手を振っている。その手で斉木の拘束をやんわり外そうとした時、斉木が十文字を突き飛ばした。
「ぅお、っと」
勢いよく背後に押しやられた十文字は足をもつれさせながら後退し、偶然通りがかった女子生徒にぶつかりながら、止まった。
十文字は女子生徒に謝ったが、女子生徒は十文字から顔を背けて走って逃げていく。
「斉木、」
「お前、この間から辻に慣れ慣れしくしてるけどな。冗談じゃねぇぞ」
辻の制止も聞かずに十文字を追い詰めるよう歩み寄った斉木が、再び十文字の胸ぐらを掴み上げた。乱暴に斉木が腕を揺らすと、十文字の足がふらつく。
それでも十文字はわずかに眉をひそめるだけだ。少なくとも、恐怖心は見て取れない。
辻はぞっとした。
十文字にはもしかしたら、感情の何処かが欠けているのかも知れない。そう思えば、茅島を前にしても萎縮しなかった理由がわかる。
「てめえ、何のつもりなんだって聞いてんだよ!」
斉木が声を張り上げた。
廊下には生徒の姿がなくなった。休み時間の最中であるにもかかわらず、みんな教室に引っ込んで、教師も止めようとはしない。
「何のつもり?」
割れるような斉木の怒号に負けず、十文字の脳天気な声が響いた。
「何って――」
胸ぐらを掴まれて苦しいのか、十文字は空手だこのついた斉木の手を叩きながら、辻をちらりと見た。
思わず、ぎくりとした。
十文字にはそんなつもりはなかったのかも知れないが、何故だか非難されているような気持ちになった。
斉木を止められるのは辻しかいない。十文字が斉木に殴られる理由はない。辻が止めるべきなのに、止めないことを責められているような気になった。
あのグレーの明るい瞳がいけないのだ。
まるであの目は、神聖なもののように見える。
罪人を罰する、神の瞳のような。
「俺は、辻の友達だけど?」
「!」
一瞬、息が止まった。
つんざくような斉木の笑い声が響き渡った。光嶋も声を上げて笑っている。辻は笑えなかった。
ツレだの、せいぜい悪い友達だのと形容されるような相手はいる。斉木や光嶋だって、そう見えるだろう。
茅島にとっての藤尾のような、そんな友人が欲しいとも思っていた。いつか信頼できる相手が現れれば、そうなるだろうとも。
しかし、十文字が口にした「友達」は、まるで小学生のそれのような――無垢な言葉に、聞こえた。
十文字がそう思って言ったのかは知らない。
どうかしている。
十文字の瞳が辻を責めていると感じたり、十文字の言葉を無垢だと感じるなど。
十文字と汐の精神年齢が近いと思うあまり、そんな風に感じるのかも知れない。
辻は短く首を振って、十文字から顔を背けた。瞬間、鈍い音が響いて十文字が短く声を上げた。腹でも殴られたのか、思わずこみ上げてきた声のようだ。
「あっれぇ? 辻は部下なんじゃなかったのか?」
もう一撃。今度は、蹴りつけられたのか。十文字は小さく呻いただけだった。辻は背を向けたが、しかしその場を離れる足が前に出ない。
「ヤクザごっこはもうおしまいか、なぁ」
「斉木、いじめてやるなよ。バカが言っちゃっただけだろ」
光嶋が笑って、辻に同意を求めるように視線を振る。辻は眉を顰めた。
部下だなんて言われるよりは、友達のほうがずっといい――そう感じてしまったことは確かだ。
「オトモダチとヤクザごっこがしたいんだったらヨソでやれよ」
もう一撃――廊下に這いつくばった十文字の腹を斉木が蹴り上げようとした瞬間、
辻は斉木の体をはねのけていた。
乱暴に押しやったせいで、廊下の反対側――教室の壁へしたたか叩きつけられた斉木は、えづ嘔吐くような声を漏らして、体をよじる。
咄嗟のことで、辻は自分でも何をしたのかわからなかった。気づいたら辻は十文字を背後に回して、斉木から庇っていた。
「いててて」
それまで何も言わなかった十文字が、辻の背中に回った瞬間、わざとらしく声を上げる。本当に痛がっていれば、そんな呑気な声にはならないだろうというほど、作り物めいた声だ。
しかし実際斉木に容赦なく蹴りつけられたのだろう、十文字は廊下にうずくまったまま身を起こせずにいる。
斉木も同じだ。油断していたとはいえ、辻の力で壁に叩きつけられて、呼吸も止まっただろう。激しく咳き込み、光嶋の腕に縋っている。
光嶋は辻の顔を仰いだ。
辻の判断を待っているのかも知れない。
辻と、斉木や光嶋は渡世人ではない。一家でも、兄弟分でもない。友人だと思っているのか、それとも辻を慕ってくれているのか、あるいは辻を利用するつもりなのか、それは斉木と光嶋それぞれ同じ気持ちではないかもしれない。
斉木はただ、辻に礼儀を欠いた態度で近付く十文字を排除したかっただけだろう。茅島に対して無礼を働いた十文字を、辻が面白く感じないように。
わからないのは、辻の十文字に対する気持ちだけだ。
十文字がいうような「友達」だから斉木から守ろうとしたのだとは、思えない。
茅島に対する畏怖を覚えない十文字が、斉木の暴力で何らかを学習するならそれでもいいと思えるが――十文字はきっと学ばない。
「行こう」
何も言わない辻に業を煮やした光嶋が、斉木の腕を掴んで踵を返した。斉木はまだ咳き込んでいる。
辻は二人の背中を見送ったあとで、まだ床の上でうずくまっている十文字に向き直った。さすがに軽口を叩く様子もない。
躊躇したが、辻は十文字に手を差し出した。いつまでもここで寝ているわけにもいかない。
「お前は、痛みや恐怖を感じないのか」
十文字は短く首を振った。
じゃあ、どうして。
言葉が続けられない。
辻は、声も漏らさず深く項垂れた十文字の細い首筋を黙って見下ろした。
ファストフード店で見た限りではひどく大食いだった十文字の体は骨ばっている。掴み上げて揺らしたら、カラカラと乾いた音を立てそうだ。
辻の差し出した腕に、十文字は一向に気付かない。苦しそうに床を見つめているのだから、仕方がない。辻は仕方なく、しゃがみこんだ。廊下に膝をつき、十文字の視界に入る位置で、掌を差し出す。
ようやく十文字が辻を振り仰いだ。
その顔は、笑っている。
「――お前、……!」
騙したのか。
慌てて手を引こうとした瞬間、掴まれた。ぎくりと心臓がこわばったような気がした。
十文字の腕は細く、手も、指も頼りない。しかし、辻はその手を振り解けなかった。
――捕まった。
そう感じた。
「あー、いててて」
辻の体をよじのぼるようにして立ち上がった十文字は、しかし脇腹を押さえて顔を顰めている。痛むのは本当なのだろうが、態度や声を聞いているだけでは心配させようという気を感じさせない。
本当に十文字が痛みを感じない特殊体質じゃないのなら、大した胆力だ。
あんな態度をしなければ斉木だってここまで乱暴をしなかったかも知れないものを、どうしてわざわざ神経を逆なでするような真似をしたのか、辻は十文字の肩を支えながら胸中で首を捻った。
とりあえず保健室にでも放り込んでおけばいい。歩き出そうとすると、十文字は衝撃で露骨に顔をしかめた。しかし声はあげない。
「肋骨は大丈夫か」
十文字の額にうっすらと汗が滲んでいる。辻は十文字の肩を掴んだ手を離して、脇腹に掌を這わせようとして――躊躇した。
「わかんない。折れたことないし」
そう言った十文字の唇は白く、血の気がない。表情は切迫しているのに、口調は努めて、呑気なままだ。辻は知らず、苛立った。
いっそのこと痛いと泣き喚いてくれれば気にもならないものを。
「ところで、汐ちゃんの下校時間は?」
再び十文字の腹に手をあてがおうとすると、また躊躇している間に十文字に口を挟まれて手を引っ込めた。
自分でも、何をしているのかわからない。
「何を言ってる、一人で歩けもしないのに汐の迎えになんて行けるか」
面倒になった辻が十文字の体を抱え上げようとすると、十文字がその腕を振り払った。
「一人で歩けりゃいいんだろ」
辻を突き放すような声で言って、辻の巨体を押しやる。斉木を拒むこともできなかった十文字の細腕に押されて、辻は思わず後退した。
「いや、あのな……お前」
十文字は覚束無い足取りで壁伝いに、ゆっくりと歩き出した。脇腹をきつく押さえ、苦しそうだ。
「俺が迎えに行く。お前は病院に、」
「汐ちゃんと約束したんだって言ったろ。……それに、お前らみたいな、何でも腕力で解決しようって奴らに……汐ちゃんを任せておけるか」
十文字を引きとめようと伸ばした腕を、辻は震わせた。
十文字の声はいつも軽薄で、神妙さの欠片もない。しかし時折、十文字がそれだけの男じゃないことを伺わせる。今も、そうだった。
実際、十文字の肋骨は少なくとも一本は折れているだろう。
それは、折れたことがない人間にとっては恐怖に感じるほどの痛みに違いない。それでも、十文字は他人の妹のために行こうとしている。
辻には理解出来ない。
「――俺も行くよ」
そう言って、手を貸さず、後についていくのが精一杯だった。