弾倉の臥狗(5)


 もう十文字にはかかわらないと決めた。


 十文字と茅島を会わせてしまった翌日の晩も茅島からはいつも通り酒場への誘いを受けたが、茅島は十文字の話はしなかった。
 あんな餓鬼のことは茅島の記憶に微塵も残っていないようだった。
 あたりまえだ。
 酒場や繁華街にはいくらでも血気盛んな若者がいて、彼らは身分不相応のフカシをする場合がある。茅島はそれを雑音程度にも耳に止めたりしない。
 ただ、今回はそんな馬鹿が辻の周りをうろついていたというだけのことで――辻はその事で自分の評価が下がることを危惧したが、心配はいらないようだった。
 大体、斉木や光嶋だって茅島から見れば十文字と大差ない。
 それでも辻が斉木や光嶋と一緒にいることを積極的に拒まないのは、彼らが茅島に礼儀をわきまえているからだ。彼らは一般人と同程度には茅島の恐ろしさを理解している。
 十文字にはそれがない。
 まるで生まれた時から外界を知らされずに育ってきたせいで野生の本能を忘れた子猫のように、恐怖心がない。
 茅島に対して畏怖していれば、あんな態度は取れない。
 圧倒的な力の前で、頭は自然に垂れる。難しいことじゃない。
 登校前に辻を待ち伏せするような十文字の行動はあの日だけだったが、学校では当然のように呼びかけられた。
 全校生徒が意識して辻の存在から眼を逸らしているというのに、十文字は気軽に「辻!」と呼びかけた。
 自分の罪を理解していない屈託のなさで。
 誰だって、辻のことなど忘れて楽しい学校生活を送りたいだろう。教師だって本当は辻の存在に辟易しているのだ。三年間我慢をしてようやく卒業してくれるというのに、どうして辻に新しくまとわりつく生徒が現れたのだ――と、思っているに違いない。
 十文字がこれまでどんな生徒だったのかを、辻は知らない。
 教師たちが知っているのかどうかもわからない。
 これまで数回見てきた十文字の異質なさまは、とても一般の生徒に紛れられるとは思えないが。


「お兄ちゃん、ただいま」
 木造平屋の自宅と狭い庭を囲っているブロック塀を掃除していた辻の背中を、汐の元気な声が叩いた。
 辻はいわゆる普通の「不良生徒」ではない。
 朝は極力決められた時間に登校するし、規定の授業を終えて下校した後も繁華街で遊び歩くような真似はしない。父親にそのつもりがなくても、小さい頃から極道の舎弟と同じように自宅の掃除をやるようになっていた。
 桐和組ではうだつの上がらない父親でも、家ではいっぱしの組長だ。辻は腕力で父親にかなうような年頃になっても、父親には逆らわないようにしていた。それが上下関係というものだ。
 辻の骨身に極道を教え込んだのは父親であり、茅島だ。
 普通ヤクザの子供だからといってそんな風には育たない、と茅島はよく笑うが、そんな辻のことを茅島が誇らしく思ってくれていることも知っている。
 血の繋がった父親に育ててもらった恩義も返せないようでは茅島の顔が立たない。それに、今の内から掃除の一つもまともに出来なくては茅島がいつか――近い内に――自身の組を構えた時、盃をいただくこともできない。
「汐、お帰――」
「へえ、辻んち大掃除? 変な時期にやるんだな」
 水を吐く蛇口を止めて辻が汐を振り返ると、そこには十文字がいた。
 物珍しそうに、濡れたブロック塀を見ている。
「ちがうよ? お兄ちゃんは毎日おそうじしてるんだよ」
 鈴を転がすような汐の声に弾かれて視線を上げると、十文字の肩の上に汐が乗っている。
「っ!」
 慌てて腕を伸ばすと、汐が身を捩って避けた。そのせいで、十文字がぐらつく。
「おっとと、急に動いたら危ないよ、汐ちゃん」
 そもそも十文字は華奢で、見るからに非力だ。
 汐はまだ小さくて軽いとは言え、十文字なんていつ汐を放り出してしまうかわかったもんじゃない。
「――お前、何をしてる。汐を下ろせ」
 人質のつもりか?
 拳を握った辻が声を潜めると、十文字が大きな目を瞬かせた。その上で、汐もきょとんとしている。まるでトーテムポールだ。
 汐はまだ何も知らない子供だ。
 十文字も精神年齢は大差ないだろう。しかし、十文字はそれじゃ済まされない。
「汐ちゃん、降りろって。おにーちゃん怖いねえ」
 汐の細い足を肩の上で抑えた十文字が、汐を振り仰ぐ。
 汐は小さな手で十文字の明るい色の髪を掴んでいる。
「や。汐、おりない」
 十文字の顔を下ろした汐が、首をぷるぷる、と振った。そのあとで、辻をキッと見やる。
「おりないからね」
「……だってさ」
 十文字が小さく肩を竦めた。体を揺らされたように感じた汐が、小さく笑い声を上げる。
「降りなさい」
 辻は低く繰り返した。
 汐を肩の上に担がれたままでは、十文字を殴りつけることもできない。
 人質としては立派に成立している。このままでは辻はまさに手も足も出せないのだ。
「なんで? だってじゅーもんじさん、汐のことずっとこうやって送ってきてくれたんだよ。すっごく楽しかったんだから! お兄ちゃん肩車なんてしてくれないじゃない」
 十文字の肩の上で汐が体を上下に揺らすと、十文字はそれが二人だけの合図だったかのように笑って、その場でぐるっと一回転した。汐が甲高い声で笑う。
「俺が肩車をしないのは、危ないからだ。汐、降りなさい。そいつが転びでもしたらどうする」
 汐が上に乗っているせいで重心が変わり、十文字が転ぶのは勝手だ。しかし自分で防ぐ手立てもなく高いところから地面に叩きつけられた汐が怪我をしたらどうするつもりだ。汐は女だ。傷の一つでもできたら、十文字を殺したって責任を取れるものじゃない。
「俺転んだりしないよー。辻は心配性だなあ」
「そうだよ、じゅーもんじさんは汐をここまで送ってくれるとちゅう、いっぱい走ったりスキップしても転ばなかったんだから!」
 脳天気なトーテムポールは声を重ねて「ねぇ」と調子を合わせた。
 辻は苛立ちをぶつける先を探して足元にあったバケツを蹴りつけた。鈍い、間の抜けた音が辺りに響く。
 汐と十文字がまた、きょとんとした顔を浮かべた。
「いいか、もう一度言う。降りろ」
 走ったりだの、スキップだなんてとんでもない。
 小学校で汐を待ち伏せしたのか。辻が十文字を相手にしないからか。
 カタギの考えつく卑怯な手口などその程度のものだろう。確かに汐は辻にとって唯一の弱点だし、それを狙うことは容易だ。
 しかし、辻が汐のことをどれほど心配しているのかを十文字は知らない。
 弱点を認識しているからこそ、辻は容赦をしないと決めている。汐は、越えてはいけない一線だ。
「そんなこというお兄ちゃん、きらい!」
 汐を振り仰いだ十文字に対して、汐は赤い唇を前に突き出して、への字を作った。ぷいっと勢いよくそっぽを向く。
「汐ちゃん、」
 十文字が声をはさもうとすると、それを嫌がるように足をばたつかせる。十文字がまたバランスを崩しかけた。辻が慌てて腕を差し伸ばしかけると、汐がまた口を開いた。
「汐、じゅーもんじさんと結婚するんだから!」
 十文字の肩を支えながら、辻は思わず目を瞠った。
「お前、お兄ちゃんと結婚するんじゃ、」
 ついこの間まではそう言っていたはずだ。
 いや、この間と言ってもいつだったか正確には覚えていない。もしかしたら汐がまだ幼稚園の頃だったかもしれない。それでも、辻にとってはついこの間だ。
 十文字がいることも忘れて辻が尋ね返すと、汐は小憎らしい笑みを浮かべて辻を見下ろした。
「きょうだいは結婚できないんだよ。知らないの?」
「……!」
 だからって十文字、ということはないだろう。
 十文字が辻の弱点に――汐にちょっかいを出し始めたのは今日が初めてではないということなのか。
 知らず、十文字の肩を掴む手に力が篭った。
「痛い痛い痛い痛い!」
 顔を顰めた十文字が身を捩る。と、汐がバランスを崩し、前のめりになった。その隙に辻は無理やり汐を十文字の肩から担いで引き剥がした。
「ちょっと、お兄ちゃん!」
「うるさい。お前は家に入ってろ」
 地面に下ろした汐を家の中に押しやると、それでも汐はぶすくれながら、しぶしぶ玄関の戸を潜って行った。
 父親も母親も出かけていて、家の中には誰もいない。だからこそ辻は放課後を家で過ごしているというのもある。汐を一人にはしておけないから。
 汐は大事な妹だ。
「辻」
 汐の姿が玄関の向こうに消えて行くまで見送ってから十文字の胸ぐらを掴んでやろうとした辻より先に、十文字が口火を切った。
 どんな言い訳も通用しない。
 もう二度と辻に関わりたくないというまでぶちのめしてやるつもりだった。しかし。
「あの子、虐められてるのか」
 振り返った十文字の顔は神妙だった。
「っ! 同級生に何かされてたのか」
 思わず辻が掴みかかっても、十文字はびくともしなかった。さっきは派手に痛がってみせたくせに、今度は表情ひとつ変えず、汐の消えていった玄関を見つめている。
「あいつ……! 何かされた俺に言えってあれほど――」
 苛立ちをぶつける先を無くして、辻は掠れた声を絞り出した。
 汐がヤクザの子供だと理由で虐めに遭うことは、これまで何度もあった。
 ある程度の年齢になれば辻のように遠巻きに見られることになるだろうが――それでも汐にそんな思いをさせるのは御免だ――年齢が低い内は、暴力や嫌がらせを受けてしまうこともある。
 ヤクザに対する畏怖が育つ前の子どもは、ただ異質なものを排除しようとするのだ。
 辻にも経験がある。しかし辻は男で、反撃ができた。渡世人として生きていく覚悟も、小さい内から定まっていた。汐は違う。女で、非力で、将来はカタギとして幸せな結婚をして欲しい。
 そう思えばこそ、反撃の方法も教えてこなかった。
 反撃は辻がすればいい。
 妹を守るためなら、子どもを叩き潰すことだって恥だとは思わなかった。
「ま、大丈夫だよ。いじめっ子には俺がうんこ投げつけといたから」
 歯を食いしばった辻を安心させるように、十文字がポンと気安く辻の肩を叩いた。
「――……」
 うんこ?
 言葉の意味を一瞬測りかねた辻が、十文字に叩かれた肩を見やると微かに汚れているようでもある。匂いを嗅ぐ気は起きなかった。
「お前、いいお兄ちゃんなんだな。妹守ってるんだ」
 ふと視線を伏せた十文字の口元が、ゆるく微笑んでいるように見えた。
 初めて見る、十文字の穏やかな表情だった。
 馬鹿のように笑うのではない、どこか――切ないような、頬の筋肉を引き攣らせるように、十文字は笑っていた。
 辻は返す言葉を探して、口を噤んだ。
 妹を守るのは兄の義務だ。そう答えるのは簡単なのに、どうしてだかその一言が出てこない。
「――――俺は……」
 顎を引いた十文字が、微かな声で呟いた。長い前髪が落ちて、表情が影になる。言葉の先も聞き取れない。
「何だ?」
 辻が聞き返すと、十文字はすぐに顔を上げていつもの屈託ない笑を浮かべた。
「いや、何でも?」
 
 どうしてだかその笑顔が、空虚に見えた。