弾倉の臥狗(4)
平日の午前中だけあって、往来に人は少ないようだった。
場所によるのかも知れない。このあたりはビジネス街で、渋谷や新宿のような場所に行けばもっと人通りは多いのだろう。
辻は交差点の見渡せるファーストフード店の窓際で、コーヒーを啜っていた。
学校を休んだことがないとは言わない。
汐が病気になれば当然休んだし、茅島が呼べば辻はすぐに駆けつけた。
学校に重きを置いたつもりはないが、勉強が嫌いだと思ったこともないし、教師にも同級生にも嫌悪感はない。第一、辻が嫌悪感を持つほど他者は辻と関わろうとしない。
「辻ー! いも食う? いも!」
……ただ一人、十文字をのぞいては。
レジで辻を振り返っては両手を振っている十文字を一瞥して、辻は短く首を振った。
どうして十文字についてきたのかわからない。
斉木も光嶋も、辻がまさか十文字のせいで学校を休んだとは思っていないだろう。辻も、まさか休むことになるとは思わなかった。
しかし今、辻は何故かコーヒーを啜っている。
付き合って欲しいところ、と尋ね返した辻に、十文字は大きく頷いた。
「まー、ま、ま、ちょっとそこまで。悪いようにはしないからさー。よし、俺奢ってあげるから!」
扉を薄く開いて辻を覗き込んだ十文字が、不器用にウインクした。
「お前に奢られる筋合いはない」
義理と人情は大事だ。
返せば、簡単に人に義理立てをしてはいけないということでもある。自分が他人にほどこすのは構わない。相手が感謝しようとしまいと、それは勝手だ。
しかし自分がほどこしてもらえば、感謝しなくてはならない。後々妙な恩を着せられて足を引かれるようなことにならないためには、他人に良くすることはあっても、他人から良くしてもらうことは避けておきたい。
――特に十文字のような調子のいい輩は要注意だ。
辻の第六感がそう言っていた。
「筋合いって……付き合ってもらうお礼じゃん。人の好意は素直に受け取っておくべきよ?」
「付き合うとは言ってない」
扉の隙間から覗いた十文字の大きな瞳を遮ろうと、辻は扉に手を駆けた。
ガシャン、と大きな音を立てて、十文字の手が隙間に挟まった。
まるで押し売りだ。
「頼むよ。辻にしか頼めないんだ」
上目遣いに辻を仰ぐ十文字の表情は、あからさまに作り物めいている。捨て犬のような目、と文字で書いてあるかのようだ。
「それはお前の都合だ。俺がお前に付き合わなきゃならない義理は何一つない」
辻は扉から手を離すと、十文字を無視して家の中へ踵を返した。玄関先で押し問答しているだけ時間の無駄だ。
閉められるようとする力をなくした扉は十文字の手であっさり開いた。不意打ちを食らったように、十文字が短く声を上げる。
「俺に付き合いたくない理由でもあんの」
十文字が玄関を立ち去るまで登校することを諦めた辻がスリッパに履き変えてから肩越しに背後を一瞥すると、意外に十文字は玄関の敷居を跨いでいなかった。
勝手に入って来でもすれば家宅不法侵入を理由に手を上げてしまおうと思っていたが、不躾なりにも馬鹿じゃないらしい。
「特別なことを『しない理由』なんてない。特別なことは、『したくなる理由』で動く」
「じゃあしたくなればいいじゃん」
廊下の先の自室に戻ろうとする辻の背中を、十文字の声が追ってくる。
あまり大きな声を出すと、父親が起きてきそうだ。そうなれば、十文字もただでは済まない。
勝手に仕置でもされればいい、という思いと、所詮かたぎの高校生が物珍しさでヤクザの息子に絡んでいるだけで、悪気があるわけでもないのに父親にぶちのめされてしまうのも気が引ける――という思いが交錯する。
結果的に、辻は自室に戻る歩みを止めた。
「したくはならない。俺には何のメリットもない」
十文字を振り返らずに答えながら、辻は眉を顰めた。
斉木や光嶋と一緒に行動することだって、別に辻のメリットにはならない。彼らにとっては辻と一緒にいることは箔付けになるだろう。しかし、辻には不要なことだ。
「メリット?」
玄関から差してくる太陽の光が、十文字の形を辻の足元に落としている。
十文字は幼稚園児のように大きく首を傾げて考え込んでいるようだ。
「利点、という意味――」
「俺はお前の組長になる男だぞ?」
説明を付け加えようと思わず辻が振り返ると、十文字は笑っていた。
――またか。
十文字はまたしても後光のように太陽を背にして、根拠のない自信に胸を張っている。
辻は大きくため息を吐いた。
「だからな、お前みたいなカタギにどうして俺が――」
「仁、うるせェぞ」
辻が言いかけた時、父親の寝室から怒鳴り声が響いてきた。慌てて口を噤む。
父親が帰宅したのは今朝方のことだった。この時分に起こしでもしたら、機嫌が悪いに決まってる。辻は舌打ちを一つ漏らすと、玄関に取って返した。
「お、行く気になったか?」
十文字にも父親の怒鳴り声は聞こえたはずなのに、のんきな顔をして笑っている。辻は十文字のよく通る声を塞ぐようにして口を抑えると、門戸から引き離すように家を後にした。
何もそのまま十文字についてくる必要はなかった。
結局手ぶらで来てしまったせいで、コーヒー代を十文字に借りるはめになった辻は苦い顔をして項垂れた。
「ん」
トレイの置かれた音に視線をあげると、目の前にフライドポテトがぶら下げられていた。
黙って顔を逸らす。
「喰わないの? 揚げたてだぞ。うまいのに」
ほれほれ、と十文字が手を上下させると、つまんでいる先からフライドポテトが折れた。
「あぁっ!」
床に落ちた揚げたてのフライドポテトを涙ながらに見下ろした十文字の前のトレイには、ハンバーガーが二つと、コーラ、フライドポテト、アップルパイが乗っている。
辻は朝食を済ませてきたと言っているはずだが、全部十文字が食べるつもりだろうか。
見たところ、十文字は骨に皮がへばりついているだけのような華奢な体をしている。とても大食らいには見えない。
「……それで、ここで何をしろと」
さっきまでは出勤途中の会社員が多かった通りも、すっかり静まっている。
十文字は辻の隣のスツールによじ登ると、ハンバーガーの包み紙を剥き始めた。ひとつ、またひとつ。一つ食べ終わってからもう一つ開けばいいものを、味も同じのハンバーガーを両手に持って、十文字は大口を開けて齧りつく。
「人の話を聞いてるのか」
これでまさか朝食に付き合うためだけにあんなに粘られたのだとしたら、さすがに付き合いきれない。いや今だって付き合いたくて付き合っているわけではない。
辻は――その細さからは想像もできないほどの速さで――ハンバーガーを黙々と平らげていく十文字を眺めながら、焦れ始めていた。
「おい、」
十文字がハンバーガーを一つ食べ終えたところで、辻がようやく声を荒らげようとした時、同時に辻の声を叩く声があった。
「辻」
振り返ると、店の入口から茅島が覗いていた。
堂上会の若衆をつれている。辻は反射的に席を立ち上がって、十文字を背中に隠した。こんなのと連れ立っているとは思われたくない。
「何だ、お前授業中じゃないのか」
茅島は辻を非難するでもなく、軽い調子だった。
この辺りは茅島のシマに近い。何も考えずに十文字についてきてしまったのはやはり失敗だった。辻は苦虫を噛む思いを押し殺して、短く頭を下げた。
「茅島さんこそ、どうされたんですか。こんな店にいらっしゃるなんて」
血筋はどうあれ、渡世人としては一流の環境で育ってきた茅島だ。ファーストフード店など、不釣合に見える。
辻は店員の目も気にせず――あえて店に失礼な言い様で茅島を持ち上げた。
「いや、お前の姿が見えたから覗いただけだ。――ツレと一緒か」
茅島が辻の背後を覗き込んだ。
辻は生唾を飲んだ。隠し通せるものではないか。体が強張る。
「あ、いえこれは、その――」
他人とは言い難い。同じ制服を着ている人間が隣に座っているのだから、茅島じゃなくても友人だと思うだろう。
コーヒーで湿らせたはずの喉が干上がってくるのを感じる。
嘘を吐くことは不可能だ。それならば、紹介する以外にはない。辻は、後ろ手に十文字の背中を叩いて、口を開いた。
――その時。
「あ」
十文字が立ち上がった。
ガラス玉のように大きな目は窓の外を眺めている。
十文字の声に、思わず辻も、茅島も窓の外を見た。
そこには黒塗りのセダンが停まっていた。
「辻、辻。あれ誰?」
辻を振り返った十文字が、ケチャップに汚れた手で辻の制服を掴んで引っ張った。
セダンの運転席が開くと、坊主頭の運転手が降りてきてすぐに後部座席のドアーに回りこんだ。十五度、頭を下げながらドアーを開く。
そこから、小太りの男が出てきた。
「菱蔵組長だな」
答えたのは、茅島だった。
弾かれたように辻が茅島を振り返ると、茅島はさっきまでの砕けた表情を消して、冷たい眼をして十文字を窺っていた。
「アレが組長?」
窓に貼りつくようにして組長を眺めていた十文字が、茅島を振り返る。
多くの人間ならば裸足で逃げ出すような茅島の視線に気付いたのだろう、十文字はようやくフライドポテトを背に回して向き直った。
「あんたは?」
「十文字、いい加減にしろ」
辻は十文字の肩を掴むと、強く揺すった。
「俺の世話になっている方だ。失礼があれば、いくらなんでも冗談じゃ済ませない」
店の中で面倒にならないように声は潜めたが、それにしても十文字は辻を仰がなかった。茅島の獣じみた眼を見たまま、もしかしたら凍りついてしまっているのかも知れなかった。
「俺は、堂上会の茅島という。辻の兄貴のようなものだ。――お前は?」
茅島が名乗る前から、ただでさえも少ない店内の客はそそくさと席を立ってしまっていた。店員もレジから離れて、関わらないように気を張っている。
隣で、十文字が大きく息を吸うのがわかった。
当然だ。茅島の視線の先に立っているということは、それだけで命を削られるような思いがするものだ。意識しないと呼吸も忘れてしまう。
「俺は十文字だ」
しかし次の瞬間、大きく息を吸っただけある声量で答え返した十文字は辻の手を振り払い、茅島に歩み寄った。
「っ!」
慌てて抑えようとすると、茅島が辻を手で制した。
「とりあえず今は、善良な高校生ってとこだな。お前らの言うところの、カタギってやつ?」
茅島が双眸を細めた。
傍から見れば笑っているように見えたかも知れない。
そうじゃないことを知っているのは、おそらく、今までに茅島のその表情を見たことがある人間と、今茅島の目の前にいる人間だけだ。
さすがの十文字にもわかるだろう。
百獣の王の前で、雑草は踏み潰されるしかないのだということが。
「ということは、いずれ何になるつもりだ?」
辻は反射的に口を開いた。十文字を呼び止めるつもりだった。まさか今までの調子で答えられたのでは困る。
しかし、声が出てこない。
さすがに茅島の怒気を前にして十文字も萎縮しているだろうことを祈るような気持ちで、辻は目を瞑った。
「組長」
茅島は笑わなかった。
「算段でもあるのか」
辻でさえ息が詰まる様な張り詰めた空気の中で恐る恐る眼を開くと、茅島の後ろの舎弟たちも表情を歪めている。
あまりに恐れを知らない無謀な人間を前にすると、誰でもあんな表情をするしかないのだろうか。
「算段、…………」
また、十文字が首を傾げた。
「ああ。カタギから組長に成り上がれるという、自信の根拠、あるいは何か既に足がかりでも――」
「別になりたくてなるんじゃないぞ」
十文字は、頭ひとつ大きい茅島の顔を仰いで、堂々と胸を張っている。
何も知らずに見れば、まるで既知の友人が戯れあっているようにすら見える。それくらい、十文字の様子に緊張感はない。
辻は困惑した。
茅島の殺気を感じ取っているのは自分だけではないはずだ。茅島を知らない店員でさえ、顔を伏せて微動だにしていない。
それなのに十文字一人がそれに気付いていない。
そのせいか、十文字の背後で十文字の背中だけを見ていれば、まるで茅島の醸しだす緊張感もこの場にないかのように錯覚してしまう。
「笑わせるなよ」
しかし、茅島が一言発すると辻は背筋を緊張させた。
「別に笑えなんて言ってないだろ」
十文字は変わらない。茅島の語気が強くなっても。
「俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ。それを果たせば、俺は俺の意思にかかわらず俺は組長になるだろう。それだけのことだ」
十文字のやりたいことを実行する手駒が、辻――ということか。
辻は思わず茅島から眼を反らした。
茅島を裏切る気はないし、渡世に入るからには茅島の舎弟になりたいと思っている。十文字の手駒になる気はない。十文字にやるべきことがあるあら、十文字一人で遂行するべきだ。
茅島には後で説明しておかなければならないだろう。
辻は頭を抱えたい気持ちでいっぱいだった。
十文字のような男に関わるべきではなかった。
「やらなければいけないこと、とは何だ」
茅島が唸るような声で言うと、十文字は、あ、と呟いて大きな仕草で手を叩いた。
この空気の中でそんな挙動を出来るのは十文字以外に存在しない。それだけは、大したたまだと褒めてやってもいい。
「――そうだ、菱蔵組長」
不意に十文字が振り返った。
辻は肩を大きく跳ねさせて後じさったが、十文字の視線は窓の外のセダンに向けられていた。
「俺、あいつに話があるんだった。辻、付き合ってくれてありがとな」
気軽に手を掲げた十文字が、踵を返そうとした。
辻は、反射的に駆け寄った。
茅島の脇を通りすぎて店を出ていこうとする十文字の腕を掴む。
十文字を追いかける辻を、茅島は一瞥もしなかった。
「――お前、何をするつもりだ」
自分でも驚くほど低い声だった。
どんな表情をしているのか、振り返った十文字の瞳を覗くまでもなく、なんとなくわかる。
必死だった。
今、十文字の手を離せば大変なことになる予感がした。
死んでも離すわけにいかない。怒りもあった。緊張もある。あらゆる感情が辻の中でぐらぐらと煮えている。
「何をするかは、辻には関係のないことだ」
辻を仰いだ十文字の顔に表情はない。
辻は、十文字の腕をつかんだ手に力を込めた。骨が折れるかも知れないと思ったが、それでも構わない。十文字は痛いとは言わなかった。痛そうな表情を浮かべるでもない。
ただ、辻の顔を見上げた頬に、鳥肌がたっている。
きっと辻は今、そんな表情をしているのだろう。茅島に対峙しても平然としていた十文字が、そうなるような。
「辻」
背を向けたままの茅島が、声を上げた。
「もう離していいぞ」
その声を振り返ると、茅島の指した窓の外では後部座席に菱蔵組長を乗せたセダンがゆっくりと発車しようとしていた。