弾倉の臥狗(3)

「ところで藤尾さんは、いつ東京にいらしたんですか」
 以前藤尾と会ったのは半年も前のことだ。
 それきり暫く顔を見ないと思っていたら、茅島から藤尾が福岡に行ったという話を聞いた。その三日後、福岡で急速に勢力をつけてきていた暴力団の組長が殺された。
 つまり藤尾は、仕事のために福岡に行っていたということだった。
「一週間くらい前か」
 藤尾は辻の作った水割りを勢いよく呷ると、確認するように茅島を見て言った。
「俺も忙しいんだよ。高校生の社会科見学に付き合ってる暇はない」
 長い口付けから女を開放した茅島を小突いた藤尾が細い肩を揺らして笑った。辻は黙って頭を下げた。
 藤尾が戻ってきたということは、東京に仕事があるということだ。
 藤尾に棲家はない。仕事があればその地に行き、全うしたら次の仕事先へ移動するだけだ。
 東京にいれば茅島と飲むこともあるが、東京に縛られることもないし、藤尾が言うには茅島を特別に思うこともないらしい。
 しかしそれは藤尾の強がりだと辻には感じられた。
 藤尾は自分の帰る場所を持つことが怖いだけなのだろう。だから特定の居場所を作らず、東京で仕事をする時以外、茅島と会おうとしないのだ。
 不器用な男だ。
「辻、止めておけ」
 藤尾の空いたグラスに新しく水割りを作ろうと辻が手を伸ばすと、茅島が短く首を振って言った。
「高校生の作る酒なんか飲めないとさ。仕事に支障が出ても困る」
 辻を揶揄された腹いせに茅島が茶化すと、藤尾が声を上げて笑った。まだアル中になるほどじゃない、と大きな掌を広げて見せる。
 乾いているが皺のない、薄い掌だった。
 この手で何人もの人の命を消し潰してきたのだろうと思うと、辻でも少し恐ろしい気がした。
 血まみれになって帰宅した父親を見たこともあるし、父の舎弟で亡くなった人間も、刑務所に入った人間も見てきた。しかし藤尾には彼らのような血生臭さがない。
 だから辻は恐ろしいと感じた。
 きっとそれは、藤尾に対峙した標的も同じだろう。
 ――俺のためにコロシをする部下が必要だ。
 再び十文字の言葉を思い出して、辻は顔を顰めた。
 堂上会長は生粋の博徒で、コロシはしないという話だ。しかし、こうして藤尾を招いて仕事をさせる。十文字と堂上会長を同じだなどというつもりは微塵もないが。
「ちぇ、仕方ねえな。帰って大人しく寝るか」
 藤尾は大きく伸びをしてソファを立ち上がると、おい、と茅島の隣の女を呼んだ。
 驚いて顔を上げた女の腕を掴んで、立ち上がらせる。茅島は愉快そうに藤尾と女を眺めた。
「茅島、いいな」
「好きにしろ」
 それだけだった。
 女の意思は関係なく、藤尾は強引に女を茅島から引き離すとテーブルから連れ去ってしまった。そのまま、まるで物のように女を引き連れて店を出て行く。茅島はその姿を見送りもしなかった。
「……良いんですか」
 愚問だとわかっていながら辻が尋ねると、茅島はソファの背もたれに身を沈めて長い足を組んだ。
「ああいう無口な女は藤尾の好みだからな。俺はもう少し賢い女がいい」
 答えはそれだけだった。
 辻は黙って、テーブルの上の空いたグラスを片付けた。
 やはり、自分に女遊びは向いてない。
「さっきの話だけどな」
 ボーイを呼んでグラスを下げさせると、辻は茅島に向き直った。
「はい」
「学生の時分は学生らしいこともしておけよ。俺がお前をこうして酒の席に誘うのは、俺の勝手だ。お前は渡世人でもなければ俺の舎弟でもない。別の用事で来れないことがあっても良いんだからな」
 辻と二人きりになった茅島は、強い眼差しをいくらか和らげていた。
 辻が「まだ」渡世人ではないからこそ、茅島は辻に何がしかの安らぎを覚えているのかもしれない。あるいは辻が高校を卒業後、父の後を継ぐことにでもなれば茅島はこんなふうに優しく話してはくれないだろう。
「ありがとうございます」
 辻はスツールに座り直すと、深く頭を下げた。
 辻が茅島と同じ世界に入る時、茅島が自分を本当の弟分にしてくれたらどんなにか嬉しいだろう。しかしそれを辻が言い出すことはできない。辻が卒業したその時、茅島が言ってくれるのかどうか、辻は今から祈るような気持ちでいる。
 そして茅島もそれを、知っているだろう。
「今の内だけだからな」
 形式ばった辻の礼を手の甲で小突いた茅島が、屈託なく笑った。それはやはり、卒業後は辻を預かってくれるということだろうか。
 辻は気持ちを引き締めると、茅島のグラスを取って水割りを作り直した。


「よう」
 朝、七時二十五分。
 自宅玄関を出た辻の目の前に、十文字が立っていた。
「意外と早かったな。やっぱ、不良とヤクザは格が違うってところか。規律は守れないと組織じゃやっていけないもんな。ま、俺のイメージだけど。いやーしかしお前が早起きなのはギリ想定内だったとして、自宅の地味さはちょっとびっくりしたわ。ヤクザの家っつーからには大袈裟な門でもババーンと立ってるのかと思ったけど、普通すぎて、ここじゃないのかと思ったよ」
 呆気にとられた辻をよそに十文字は朗々と一方的に話し続けている。
「一応表札は辻ってなってるけど、そうそう珍しい苗字ってわけでもないし、いやでもこの辺じゃ辻ってここだけだって聞いたしさ。まさかその辻さんってヤクザ屋さんの辻さんで間違いないですよね? とか聞くわけにもいかないし。あ、あそこのコンビニで聞いたんだけどさ」
 放っておけば、十文字はずっと喋り続ける勢いだった。
 口の端は、昨日斉木に殴られた際についた傷が赤く膿んだようになっている。しかし、それを痛がっている様子もない。
 その整った顔立ちとあいまって、もしかしたらこの男はロボットか何かなんじゃないかとも思った。
「お兄ちゃん、どいて! 遅れちゃう!」
 玄関の戸に手をかけたまま呆然とした辻の大きな図体を押しのけて、赤いランドセルを背負った汐が飛び出てきた。
「汐」
 汐は辻の脇をすり抜けて玄関を飛び出ると、一瞬、家の前にいる十文字の姿に驚いて立ち止まったが、深々と一礼した後、学校に向かって走りだした。
「忘れ物ないか」
 辻がかけた声に、手を高く掲げて応じる。
「お兄ちゃんこそ、お弁当忘れないでよ! 行ってきます!」
 兄を振り返りもせずに駆けていく汐を辻が暫く見送っていると、
 ――十文字もそれを見ていた。
「お前、……十文字って言ったか」
「ああ」
 辻が声をかけると、パッと明るい表情を浮かべた十文字が振り返る。頬は上気して、汐と大して年齢の違わない子供のような無邪気ささえ伺わせる。
「妹に面倒な思いをさせる気はない。俺のことを待ち伏せようと、家のことを近所に聞いて回ろうと、俺は気にしない。妹には手を出すなよ」
 辻が睨みをきかせると、十文字の笑顔が消えた。
 しかし、怖気付いた様子もない。ただ、目を瞬かせてきょとんとして見せただけだった。
「あれ、お前の妹か」
 そう言って、汐の駆けて行った方を指で差す。辻は押し黙って、僅かに顎を引いた。今度はその辻を指さして、十文字はまた、破顔した。
「で、お前はシスコンなんだな」
 辻は、黙って玄関を閉めた。
「なんで閉めるんだよー」
 間の抜けた十文字の声が家の外から漏れ聞こえてくる。ドアノブを回すでもなく、まるで閉め出された猫のように戸を掻く音がした。
 まるで、辻がこのまま十文字を無視するだなどと思ってもいないかのようだった。
 自分が大した努力をしなくても辻が自分を構うだろうと確信していて、戯れるように拒絶されたのだろうと思ってるようだ。
「何の用だ」
 戸を閉めたまま辻が尋ねると、十文字が戸を掻く爪の音が止まった。
「……一緒に登校でもするつもりか?」
 斉木や光嶋の言う通り、十文字が安い不良漫画の読み過ぎで辻に近付いてきているのだとしたら、「部下」である辻を引き連れて十文字が登校すれば、確かに全校生徒が驚くだろう。
 いつもは斉木や光島を引き連れている辻が、人の後ろを歩くのだから。
 辻にはつまらないプライドなどないが、十文字のくだらない冗談に付き合う義理もない。
「いいや? そんな恋人同士みたいな真似はしない」
 十文字の笑い声が聞こえて、辻は口端を歪めた。
 どうも、調子の狂う男だ。
「――ただちょっと、付き合って欲しいところがあるんだ」
 しかし扉の向こうから続いた声は、十文字の低められた声だった。