弾倉の臥狗(17)

 ビルの外に転がり出ると、太った男が脂肪を揺らしながら必死に駆けていた。
 路地裏に軽自動車が待機していて、舎弟が前後についている。男の背後を守った舎弟が辻の姿に気付くと、躊躇なく引き金を引いた。しかし、甘い。辻の足元を撃った銃弾は辻の靴の表面すら傷つけずに砕けた。
 菱蔵は堂上会のお膝元にシマをもうけているせいか、抗争が少ないと聞いた。
 見映えを重視した長い銃身は照準が合わせ難いのだろう。それも、背後に回した組長を気にかけながら後ろ向きに走りながら撃っても、威嚇にしかならない。
 辻を近付かせないようにしながら、とりあえずこの場は逃げ果せればいいと考えているのか。
 そんな気持ちで、死ぬ気の人間を遠ざけることができると思ったら大間違いだ。
 辻は堂上会長に握らされたトカレフを片手で構えると、銃を持った舎弟の腕を撃ち抜いた。短い悲鳴が上がり、血飛沫がビルの壁に散った。
 前を走っていた組長が振り返った。汗で顔面がどろどろに溶けている。
 銃を握れなくなった舎弟が飛び掛ってきた。今度は死ぬ気のようだ。辻は一旦足を止めると、玉砕覚悟で向かってきた男の顔面を地面に叩きつけた。
 その体を飛び越えて組長に間合いを詰める。
 組長の先を走り、軽自動車の扉を開いた男がダッシュボードから小銃を出した。撃たれる前に撃つ。子供でもわかるロジックだ。辻は組員が安全装置を構える前に撃った。
「ま、待て……!」
 息を喘がせながら組長が足を縺れさせて、軽自動車に辿り着く前に転んだ。
 尻を引きずるようにして後退を続けながら、辻に掌を向ける。
 この手で十文字の家族を殺したのか。
 辻は、組長を見下ろす自分の目が冷たくなっていることを自覚した。いざ仇を追い詰めれば怒りで目が眩むかと思ったが、実際はその逆だ。これまでにないほど頭が冴えている。
「どうして命を獲られそうになっているかはわかるな?」
 一家の組長と言われた男を見下げて、虫けらのように扱う。
 渡世人としての教育を受けてきた辻は、自分がそんなことができる男だと思っていなかった。しかし何の躊躇も感じない。
 今眼の前にあるのは社会のゴミでしかない。
 十文字の家族が何をしたというのか。任侠の道に外れて暴力を振るい、任侠を盾に刑を免れるなら、任侠が罰するしかない。
「じゅ、……じゅう……十文字、だろっ? 私が、ほら……殺した、家族の、」
 口の中にも脂肪が付いているのか、唇を震わせるようにして話す男の言葉は聞き取りづらく、十文字の名前を口にさせるだけでも怖気がした。
 その時、軽自動車のエンジンの音が鳴り響いた。
「組長!」
 血まみれになった男の悲鳴にも似た声。組長だけでも逃がそうという腹か。その忠誠心は素晴らしいことだが、勝ち目はない。
 辻は車を一瞥して前輪タイヤに一発、撃ち込んだ。
「あ、……あぁ……あ、あの――」
 男の股間が濡れている。
 俺はそんなに恐ろしい形相をしているか。辻は問いかけたい気持ちを押さえて、四つん這いになりながら逃げ出そうとする男の足を掴んで地面を引きずり戻した。
「ァああ、あ!」
 辻が触れるとそれだけで死にそうな声を震わせた男が地面に爪を立てる。指先が破れ、それだけで男はヒィヒィと泣きじゃくるような声を上げた。
 路地裏の騒ぎに気付いた通行人が一瞬覗き込んで、すぐに逃げ出した。あまり長居はできそうにない。
 辻は腹這いになって豚のように音を立てて息をしている男の掴んだ足を、本来曲がるべきではない方向へ強引にひねり上げた。
「ギャァア、アア、ア!」
 騒がしい叫び声を上げる男の体を仰向けに転がして、肩を踏みつける。
「組長だろう、みっともないとは思わないのか? 少しは静かにしてくれ」
 十文字の両親も叫び、命乞いをしたはずだ。それに対してどんな態度をとったのか? 尋ねてみたいが、知りたくもない。
 辻は撃ち誤ることがないように銃口を男の眉間に押し付けた。
 男の喉がひくっと震え上がって、止まる。
「ア……あれあれあれ、は、」
 唾液の分泌が極端に減っているようだ。べたついた口で男がこの期に及んでまだ口を開いた。時間稼ぎをすれば何とかなると思っているのかも知れない。
辻は目を細めた。侠気がない。こんな男が一家を構えるくらいなら、十文字のほうがよほど立派だ。比べるまでもない。
「違うんだ、話を聞け、あれは、能城さんが――私は、違うんだ」
「能城?」
 辻を何者かもわかっていないだろうに、能城の名前を出した男はどうしてか、笑みに似た形に唇を弛緩させて、首を小刻みに揺らした。
「そう、そうだ――能城さんが、あの時は、私は薬漬けで――人違いだったんだ! 殺した家族には悪いことをした、でも受け取り場所が――」
「そうか」
 血がざわめくのを感じた。
 足元から血が沸き上がり、引き金にかけた指先まで一気に流れこんでくる。辻は知らず、微笑を浮かべていた。
 堂上会では薬物の存在を認めていない。それも、この男はまだ薬は絶っていないだろう。堂上会長が辻を二つ返事で許したのはそのせいもあるのかも知れない。ていのいい人員整理だ。それでもいい。十文字の仇を討てるなら。
「俺は悪くない! 悪くないんだ! 助けてくれ!」
 辻の表情に竦み上がった男が甲高い声を上げて芋虫のような体をのたうった。その頭を銃身で一発、殴りつける。
辻の掌底に男の血がついた。それを、制服の裾で無造作に拭う。
「悪いが、お前の言葉は俺には聞こえない」
 辻は十文字の命令しか聞かない。そう決めた。
「俺を殺したら大変なことになるぞ! 菱蔵は崩壊して抗争が――」
「そうはさせないさ」
 歴史の長い組だ。確かに堂上会は色めきたつかも知れない。
 しかし、辻は心から安心して言った。
「――俺のボスは優秀なんだ」
 逃げ惑う男の後頭部に銃を押し当てた。死んでいく男の視界には今、自分が漏らした尿で汚れた路地裏のアスファルトしか見えていないだろう。お似合いだ。
 引き金に指をかける。


 路地裏に銃声が響いた。