弾倉の臥狗(16)

 汐には詳しく話さなかったが、十文字が取り乱す様子を目の当たりにした時から、何かが起きていることは汐にもわかったのだろう。
 詳しくは訊かないまま、辻と十文字を送り出してくれた。
 辻が下手を打てば、汐にはこれきり会えなくなるかも知れない。
 辻が望む結果は、菱蔵組長を殺害し、十文字を無傷のまま守りぬくことだ。辻自身の生命がどうなるかは考えていない。
 十文字は生きろと言うだろう。だから命を賭すことができるのだ。命を賭すということは、死ぬことも想定に含めるということだ。
「一七時」
 隣で十文字が時計の針を見下ろして呟いた。
 どの時間帯に訪ねていくかは、十文字に決めさせた。早朝、深夜の比較的手薄な時間帯を狙うならそれでもいいし、昼間の寝ぼけた時間帯を襲ってもいい。
 辻は人づてに聞いた限りの菱蔵の情報を十文字に伝えて、決断を十文字に任せた。
 十文字は、夕方にしよう、と言った。
 辻は何も聞かず肯いたが、おそらく十文字が家族を失った時間帯だろう。
「行くか」
 辻が立ち上がると、十文字もそれに続いた。
 堂上会長には話を通してきた。その上で、拳銃を二挺借りた。
 まだ名簿にも名を連ねていない高校生に拳銃を貸し出すことは、堂上会長の罪になる。それを承知で頼み込み、会長はそれを承知した上で快く貸してくれた。
 大義はこちらにある。
 ただし、協力は仰がなかった。
「使い方は大丈夫か」
 まるで散歩でもするような足取りで、夕飯時を前にした繁華街を歩いていく。菱蔵組の事務所は雑居ビルの一室だ。
途中で、ランドセルを背負って家路を駆けていく男子小学生とすれ違った。辻は振り返ったが、十文字は振り返らなかった。
「大丈夫だ」
 間を置いて返ってきた十文字の声は、張り詰めていた。
 ビルが見えてきた。明かりがついている。部屋数は三つ。扉を開けると舎弟が詰めていて、その奥の組長部屋に、標的がいる。
 辻は何度も確認した間取りを脳裏に描いた。
 ここに来る前、藤尾に会った。人を殺すのは初めてかと尋ねられて、藤尾は辻を笑わせようとしているのだと思ったが、とても笑えなかった。
 拳銃をしまったポケットに入れた掌が汗ばんでいる。
 黙ったままエレベーターに乗り込んだ。古ぼけたビルの黄色い照明の下では、十文字の白い肌が翳って見えた。
 これが終われば十文字が救われるのか、辻には確信はない。
 それでも終わらせないわけにはいかない。もし辻が十文字と同じ立場なら、そう思うだろう。十文字は今までだって、とても笑えないような気持ちを抱えて笑ってきたのだ。
 エレベーターが三階に着くと、十文字は辻より早く廊下に出た。
 背筋を伸ばして、何でもない途を歩くように十文字は菱蔵組の看板が出た扉の前まで進んだ。その表情は、ともすれば不貞腐れているのかと思うほど目が据わっている。
 辻が声をかけるより早く十文字はポケットの拳銃を抜き出すと、扉の前で弾薬を詰めた。
 大きく息を吸った。
 そしてそのまま、十文字は扉を開いた。
「どーもこんばんは。十文字清臣と申します」
 大きく開け放った扉から威勢よく声を放った十文字は、片手に構えた拳銃を突き出した。
 室内に舎弟は五人。思ったよりも多いか。辻は尻込みもせずにあっさりと突入した十文字の行動に驚きを隠せないながらも、身構えた。
 さすがに、すぐに獲物を手にする組員はいなかった。ただ、怒号が響いてくる。
「お前らの組長を殺しに来た。通せ」
 十文字は大きく口を開いて笑い、いつもの慇懃な調子で言った。しかし、目の色がいつもと違う。あたりまえだ。正気でいられるはずがない。カチコミが初めてだからとか、そんな理由じゃない。十文字の人生を踏み荒らした宿敵がもう、すぐそこにいるのだ。
 十文字の目は淀んで、恍惚としてさえいるようだ。
「お兄ちゃん、そんなオモチャ持ってこられてもね~。こっちはちゃーんとした会社なんですからね。社長にはそれなりにアポってのが必要なのよ」
 血気盛んな舎弟を背後に回して、長身の組員が半笑いで入り口に近付いてきた。
 突然高校生が乗り込んできて本気の襲撃だと思う方がおかしい。まっとうな反応だ。それでも拳銃を取り上げられる前に十文字を背後に回そうと辻が踏み込んだ瞬間、銃声が響いた。
「……!」
 室内が凍りついた。
 十文字の手元から消炎が上がっている。
「今のがアポ代わりでどうだ? 冗談はいいから組長出せって言ってんだ。言う通りにしないなら、お前らも皆殺しだ」
 十文字の目は充血して、拳銃を握った手が小刻みに震えている。
「ンだコラ! 手前ぇ!」
 一斉に立ち上がった舎弟たちが声を荒らげた。部屋の奥に飾った日本刀を取りに行く者もいた。
 また二発、銃声が響いた。
「――俺は皆殺しにされたんだ。お前らを皆殺しにしたくらいでちょうど同じだろう」
 弛緩した唇に笑みを浮かべた十文字が、もう一発、引き金を引いた。とても標的を絞りきれていない。十文字の悲痛な声も、色めき立った舎弟たちに聞こえていないだろう。
「十文字、止めろ」
 十文字の額に汗が滲んでいる。
 銃なんて触ったのも初めてだ。射撃の反動で銃口が定まらず、見当違いの方向に着弾している。
「おとなしく組長を出せよ!」
 喚いた十文字がまた引き金を引いた。天井で、蛍光灯が派手に音を立てて割れる。
 乱反射する銃弾に十文字に近付くこともできず、組員は屈んでいる。いずれ弾が切れることを見越してるのだ。相手は素人じゃない。中にはニヤニヤと笑ってい十文字を眺めている者すらいる。
「十文字、止せ」
 辻が十文字の腕を掴むと、十文字が放った銃弾が室内にかけられた額縁に当たって、弾けた。
「弾が無駄になるだけだ」
 辻が押さえた手の下で、十文字の手がガタガタと震えている。肩で息を弾ませ、十文字は一度青ざめた顔で辻を仰いだ後、俯いた。
「よく覚えておけ」
 辻はそっと十文字の手から拳銃を引き剥がした。十文字の手は拳銃を構えた状態のまま固まっている。
「銃弾には限りがある。撃ち尽くしてしまっては、いざという時に使えない。俺という弾丸もそうだ」
 十文字が再び辻を振り仰いだ。不安に曇っている。
 舎弟の一人が、組長部屋に駆け込んだ。逃げられたら元も子もない。辻はそれを視界の端で確認しながら、預かった拳銃を再び十文字の手に握らせた。
「大事に使え。俺はお前が誤っても、お前が命令すれば飛んで出て行く。だけど、お前の願いは必ず叶えてやりたいと思ってる。だから正しい指示をくれ。俺はお前を必ず幸せにするから」
「っラァ!」
 十文字の語尾を遮るように、舎弟の日本刀が振り翳された。
 辻は反射的に、十文字を突き飛ばして離れた。辻と十文字の間を白刃が切り裂く。辻はポケットから拳銃を抜いて、日本刀を握った男の手を撃ち抜いた。
 その隙に、十文字を捉えようと別の男が腕を伸ばしていた。
 辻の背後からパイプ椅子を振り上げてくる男の鳩尾を打ちながら辻が拳銃を構えた瞬間、その前を人影がよぎった。既の所で、発砲せずにこらえた。
「あぶねえな!」
 人影は辻と十文字の間に入ったかと思うと、十文字を羽交い絞めにした男の眉間をしたたか蹴りつけて十文字を引き寄せた。
「!」
 驚いた十文字が目を丸くして人影を仰ぐ。
「お前誰だっけ!」
「斉木」
 度肝を抜かれた辻が呟くより先に、十文字があっけらかんとした声で言った。
「てめえ……」
 相変わらずの十文字に渋い表情を作ってはいるものの、斉木は制服の袖をまくって周囲を威圧している。菱蔵の若い衆と並べても見劣りしない風格がある。
「どうして、」
 突然のことに辻が真意をはかりかねていると、扉の外に光嶋の姿もあった。組長の逃亡を見張っているようだ。辻と視線があうと僅かに首を竦めただけで、すぐに視線を周囲に走らせている。
「なんだお前らってばいい奴だったんだな。俺の部下にして欲しいのか?」
「黙ってろ、ぶっ殺すぞ!」
 斉木が現れたせいなのか、緊張が解れたのか、いつもの調子を取り戻した十文字は斉木の拳に殴られて、その場にうずくまった。
「辻」
 廊下で控えた光嶋が声を上げる。
 逃亡したか。辻が廊下を見遣ってから十文字を向き直ると、十文字は短く肯いた。
「行け」
 命令はそれだけで充分だった。
 十文字は辻に、仇を任せてくれるということだ。
 引き金は引かれた。辻は、走りだした。