弾倉の臥狗(18)
三年後の春、辻は再び堂上邸を訪ねていた。
「組長」
控えの和室の障子を開けると、白い紋付羽織袴を着けたその人は鏡の前で羽織紐を確認していた。辻が声をかけると、緊張の欠片もない顔で振り返る。
「辻ー、これって先っぽ上向いてるけどこれでいいの?」
綺麗に殿様結びをしてもらった房の部分をいじりながら尋ねる十文字の面持ちは、出会った頃と大差ないように見える。
しかし、華奢な体に羽織った羽織袴には菱蔵組の代紋が入っている。
あの晩、菱蔵組の組長を殺害すると報告をした辻に対して堂上会長が出した条件は、菱蔵組の後釜に座ることだった。
菱蔵組が欠けては、他の組織からは堂上本陣を守る結界が壊れたと見られる。菱蔵組を失うわけにはいかない。辻の侠気ならば菱蔵組長を背負って、堂上を支えるのに差し支えない、と会長は言った。
辻は躊躇するまでもなくその申し出を断った。
自分は一家を率いる器じゃない。十文字に従う犬だ、と。堂上会長はそれを承諾して、十文字を組長の椅子に座らせることに条件を変えた。
その後、辻がそのことを茅島に伝えると「まるで猿山の猿じゃないか」と苦々しく吐き捨てたが。
組長を殺した人間がその組を統率するならば、これからの菱蔵組はおそらく安泰だろう。十文字の命を獲ろうなんて考える人間は、辻が一人残らず排除する。
「いじるな、これでいいんだ」
結びを崩しそうになる十文字の手を制止して、辻は改めて十文字の姿を見つめた。
これから襲名式に向かう十文字の姿は凛として、呼吸を忘れるほど気高く美しい。
中には十文字を若すぎるだとか、極道を何も知らないただの子供だと揶揄する人間もいるが、それでいい。十文字の強さは誰かに見せつける類のものじゃない。
「何?」
障子越しに差し込んでくる光よりもずっと眩く輝く十文字の姿に目を細めた辻に、十文字が顔を顰めた。
「いや、何も」
不躾なほど十文字の姿を眺めていたことに気付いて、辻は慌てて顔を伏せた。今日は気温が高くなるようだ。黒色の紋付を着けた辻も顔が熱い。
「なにー、脱がすことでも考えたのー?」
やだー、と襟元をおさえてしなを作った十文字を一瞥すると、辻の体温が驚くほど急速に冷えていく。雲でも出てきたかなと中庭の空を仰ぐ。
よそ見をした辻に十文字が拳を振りあげて怒りだした。
二人の時ならそのままでも構わないが、ここは堂上邸だ。これからは十文字らしい行動を、少しばかり控えてもらう必要がある。
辻は一つ息を吐いて、その場に膝を折った。静かに頭を垂れた辻に、十文字が驚いて口を噤む。
「お前はこれから俺の組長になる。組長は、俺にとって親で、命で、神だ。――と言っても、何が変わるわけじゃない。お前が望むことを、俺は命懸けで叶える」
頭上で、十文字が肯いたような気がした。顔を上げなかったからわからないが、気持ちが直接流れこんでくるようだった。十文字の心中は穏やかで、組長になることへの気負いはない。
「ただ、だからその組長に対して不埒な行いを懸想することなんてことは、まさか」
辻が続けた時、
「ひどい!」
十文字がキー、と猿のような声を上げた。
驚いて顔を上げる。十文字はいつもの通り、ぎゃあぎゃあと喚いて手足をばたつかせていた。
「俺のことは遊びだったんだな! 辻、見損なったぞ! 俺の純情を弄ぶなんて!」
皺ひとつない紋付羽織袴をばさばさと乱れさせながら十文字は畳を踏み荒らしている。
辻は諦めて、腰を上げた。
これはたしかによその組の人間が見たら――いや菱蔵の人間だって、辻以外が見ればただのおかしな人間だと思うだろう。
暴れることに夢中になるあまりむしろその場で踊りだした十文字を横目に、辻は呆れて部屋を後にした。
遊びだっただと? 冗談じゃない。
これ以上ないくらいに、本気だ。