弾倉の臥狗(14)

「おにーちゃん!」
 汐の声に振り返ると、額にスポンジ製のボールが激突してきた。
 てん、と畳の上に音を立ててボールが落ちるよりも早く、汐の笑い声と十文字の笑い転げる声が響く。
「辻だっせぇ!」
 キャキャと甲高い声で笑いながら汐は駆けてきて、辻に捕まらないようにと俊敏にボールを拾って十文字のもとへ戻って行く。
「次、じゅーもんじさん」
 汐が小さな肩を窄め、両手でボールを差し出す姿を見ているとその内十文字さんが初恋の人だなんて言い出すんじゃないかと思って、辻は二重の意味で頭を痛めていた。
 いや、もう結婚するつもりだというのだから初恋は始まっているのか。
 おとな気ないことだとわかっていて、辻は無意識に渋い顔を浮かべた。
「辻、受け取れ!」
 畳の上にあぐらをかいた十文字が、思い切りボールを投げつけてくる。
 十文字がたとえどんな豪腕を持っていたとしても、重みのないスポンジボールじゃたかが知れている。そうでなくても、十文字は別に豪腕でも何でもない。
 辻は難なくボールを宙で受け取って、汐と十文字の方へ転げ返した。
「おー」
「おー」
 二人はまるで兄妹のように声を合わせ、同じような表情で辻に感嘆の声を上げる。
 辻は嫉妬する気も失せて、テレビのリモコンに手を伸ばした。
「もう大丈夫みたいだね」
 背後で顔を寄せ合って内緒話をしている汐と十文字の声は辻まで筒抜けだ。
 どうやら片目を失った辻の遠近感を試したつもりらしいが、そんなものは辻が一番気にして、矯正に努めている。死角が増えたことが何よりも懸念の種だが、こればっかりは感覚を研ぎ澄ますほかない。
 少年漫画に出てくる格闘家でもあるまいし、森にこもって修業をするわけにもいかないから、汐と十文字が戯れてくるのは悪くもない。
 何よりも、汐と十文字が笑い合っているのがいい。
 辻の顔に大きな裂傷を見た汐は、泣くことも忘れたように愕然としていた。包帯を巻いていた姿には怪我をしたという程度にしか――父親や辻自身が怪我をすることはそんなに珍しいことでもなかったから――気に止めていなかったようだが、抜糸が済み、包帯を取った時、その傷の生々しさに衝撃を受けたのだろう。
 辻も少なからず驚いたものだ。
 左の目頭から頬にかけて、大きく切り裂いた跡。目蓋は開くことも出来ず、皮膚が引き攣っていた。
 父親はただ箔がついたと笑っただけだったが。 
「マンガみようよー」
 夕方のニュースに回した辻のリモコンに手を伸ばして、汐が辻の膝と腕の間に滑りこんでくる。
「よー」
 もう片方の膝の上にも十文字が無理やり体をねじ込んできた。
 今は子供だから汐は不自然に思わないかもしれないが、もっと物事がわかるようになったら十文字のこの過度なスキンシップはどのように思うのだろうか。
 あるいは十文字のすることだから気にもならないかも知れないが、辻は黙って十文字の頭を押し返した。
「汐、夕刊を取ってきてくれ」
 朝刊は父親が持って出て行ってしまった。テレビ欄を汐に見せるために玄関を指すと、機敏な動きで立ち上がった汐が駆けて行った。
 最近、汐が十文字に似てきたような気がする。
 辻は、大きな掌で抑えこまれてじたばたと畳の上で地団駄を踏んでいる十文字を一瞥した。
「何よ?」
 辻の手の向こうから、十文字の瞳が覗き込んでくる。
「何も」
 辻はしれとしてテレビに顔を背けた。
 すると、案の定十文字は辻の背中めがけて飛びついてきた。掌での制止なんてすぐに避けられるものなのにそれに甘んじて暴れて見せてるのは知っている。
 十文字は座布団の上の辻の背中によじ登るように飛びつくと、辻の顔を右側から覗き込んできた。
「何何何何? 勃起した? それともお腹すいた? 俺はすいた! 今日夕飯なに? 買い物いつ行く? もう行く? チョコレート食べたい、チョコレート!」
 辻の腹に足を絡ませて体を揺さぶられると、辻は体のバランスを崩しそうになって、背後に倒れて十文字を潰してしまわないように慌てて前屈みになった。
 それを良いことに十文字はお馬さんごっこ気分で辻の背中で騒いでいる。
 家族を失った十文字は養護施設に入れられていたそうだが、菱蔵組長が釈放されたのを知ると施設を抜けだしてきて一人で暮らしていたのだという。法律的には養父母が存在し、生活費はそこから出ているようだ。
 とはいえ、施設を抜けだしてきた身であることや、これから復讐を遂げれば養父母に迷惑がかかると思った十文字は仕送りをしばらく受け取っていないという。
 だからいつも腹を空かせていたのか、と辻が尋ねると、十文字は心底きょとんとして、何のことかと言わんばかりだった。
 十文字にとっては三食満足に摂っていて、あの大食のようだ。
 それは辻が十文字の生活の一端を共にするようになってから痛いほどよくわかった。
 父親の手前、十文字を自宅で寝泊まりさせることはできない。
 それこそ、これから菱蔵にカチコミをかけるかもしれない――かけるであろう人間を容認していたとなれば、父親に迷惑をかけるかも知れない。ただしそれは息子に対しても同じことで、どうせ辻が十文字と一緒に往くなら、どうしても迷惑は避けられない。
 となれば、そんなものはただの言い訳で、十文字と寝食を共にしていれば、過度なスキンシップ以上のことになりかねない、というのが本当の理由だ。
「じゃあ今日はお前だけ、チョコレートかけご飯にしてやろうな」
 ちゃぶ台に突っ伏すような形を強いられた辻が軽口を叩くと、辻の背中で体を左右に揺らして踊っているような十文字が高い声を弾ませる。
「何それ! うまそう! カレーにもチョコ入れたりするもんな!」
 バンザーイ、と十文字ははしゃいでいる。本当に出しても、爆笑しながら平らげてしまいそうだ。
「それとこれとは違……」
 背後の十文字が転げ落ちないように手を回しながら辻が身を起こそうとした瞬間、つけっぱなしのテレビにニュースが飛び込んできた。
 原稿を手渡されたアナウンサーが神妙な面持ちをカメラに向ける。
『――今、入ってきた情報ですが……』
 体を起こそうとした辻の背中で器用にでんぐり返しを――しようとして転げ落ちた十文字の笑い声を、アナウンサーの声が切り裂く。
『……区の商業ビルの一角で、男性の遺体が発見され……』
 辻は床に転がった十文字を振り返って安全を確認してから、再びテレビに視線を戻した。
 そこには、丁のモノクロ写真が写っていた。
 発見された遺体、というテロップを伴っている。
 十文字の笑い声が途切れた。室内を静寂が襲い、アナウンサーの無機質な声が響き渡る。
 変死体で発見された丁は、住所不定無職の中国人とだけ紹介されて、アナウンサーの読み上げはものの一分もなかった。
 藤尾だ。
 咄嗟に辻はそう判断した。
 まだ殺害方法も犯人の形跡も報じられてはいないが、藤尾が追っていた人物が変死体になって発見されたのならば、それは藤尾が仕事を遂行したとしか考えられない。藤尾は有能な殺し屋だ。
「辻」
 背後から底冷えのするような声が聞こえてきて、辻は身を強張らせた。
 窓を背にした十文字が立ち上がったのが、辻の目の前に伸びた影でわかる。
「行こう」
 十文字がどんな表情をしているのか、辻は振り返ることを躊躇った。ただ、十文字に差し出された手が視界の端に映った。
 テレビはもう次のニュースを報じている。世間から見たら、取るに足らない事件だろう。しかし、十文字の世界は一変した。
 邪魔者が消えたのだ。
 菱蔵に近付く障害物が、一つなくなった。
 それでも障害がないわけじゃない。組を納める組長に面会を申し出るなんてなかなかできるものじゃない。それも、一介の高校生でしかない。名前を名乗れと言われて、十文字が名乗ればあるいは気付かれるかも知れない。菱蔵は殺した相手のことなど覚えてなかったとしても、舎弟は覚えているだろう。門前払いを食うのが落ちだ。
 辻はあらゆる否定的な言葉を飲み込んで、押し黙った。
「――辻が行かないなら、俺一人でも行く」
 差し出した手を下ろして、十文字はいとも簡単に言った。
 反射的に、辻は十文字を仰いだ。
 十文字の表情は引き攣っていた。明らかに冷静じゃない。
「今行くのは得策じゃない」
「どれだけ待ったと思ってる!」
 悲鳴のような声で、十文字が叫んだ。
 廊下に面したガラス戸がビリリと震える。汐がその向こうに立っているのが、影でわかった。息を殺して、じっと成り行きを見守っている。
「一分一秒だって、あいつが生き永らえていることが俺には我慢できない! 俺はこの七年間、ずっと、ずっとずっと血の匂いを忘れずに生きてきたんだ! 辻にわかるのか!」
 腹の底から搾り出すような声だった。
 辻が答えずにいると、十文字は小さく嘲り笑って、一度口を噤んだ。そのまま、歩き出そうとする。
 辻はすぐに立ち上がって、その肩を掴んだ。
 十文字が振り払う。それをまた、引き寄せる。
「じゃあお前は! 汐ちゃんが殺されたって平気でいられるのか! 目の前で! 俺の姉ちゃんはまだ中学生だったよ! その日の朝まで笑ってた家族を殺したやつが、今も生きてるんだよ、のうのうと! 俺の気も知らないで!」
 十文字は全身を震わせて叫び散らした。足を強く踏みつければ畳が鈍い音を立て、荒く吐き出した息で十文字の喉が乾いた音を上げる。まるで野生の獣のように。
 辻は、気を許せば辻の力をも振り払って出て行ってしまいそうな十文字の肩を力いっぱい強く抱きしめて、歯を噛み締めた。
 十文字はいつも、孤独に泣き喚いて、怒りに震えていたんだ。笑顔の下で。
気付いてやれなかった。
 十文字の気持ちがわかるなどとは安易に言えない。
 しかし、十文字を苦しめる人間を許せない気持ちには変わりない。
「十文字」
 辻が祈るような気持ちで低く呟くと、十文字は肩を震わせながら声をしゃくりあげた。
「――俺はあの時、逃げたんだ。父親を、母親を、まだ動いていた姉ちゃんを置いて、自分だけ逃げたんだ。どうしてあの時一緒に殺されなかったのか、遊んでないでまっすぐ家に帰っていれば一緒に殺してもらえたんじゃないのか、そうすれば、もしかしたら姉ちゃんは、姉ちゃんだけはあんな目に遭わなくて済んだんじゃないかって――」
 まくし立てるように虚ろに喚いた十文字の肩を掴んで、揺さぶる。十文字、と繰り返してもただ首を振るしかしない。
 十文字の覚えてきた苦痛を、悔しさを、無念さを、家族を失う恨めしさを、辻は腕の中に抱きしめた。 
「俺はもう逃げるわけにいかない。もう、逃げない。ここから逃げたら、俺は――」
「十文字!」
 十文字の言葉を遮って、声を張り上げた。
 腕の中で十文字の体が確かに脈打っている。それを失うわけにはいかない。
 辻は指が食い込むほど強く十文字の肩を掴むと、体を離して顔を覗き込んだ。失ったはずの左目でもしっかりと十文字の顔を見ることができる。
「お前は何もしないでいい。どっしりと構えていろ。ただ目標を見据えて、動じるな」
 ゆっくりと、十文字の不安と焦りに揺らいだ瞳を見つめながら言葉を紡ぐ。
 十文字は肯きこそしないが、ただ、静かに呼吸が落ち着いてきた。徐々に肩を掴む手の力を緩めていく。十文字は辻を振り払わなかった。
「お前の仕事は、引き金を引くことだ。俺は、お前の銃弾だ」
 友達でもない、部下にもならない。それならば、辻は十文字の発するただの銃弾でいい。
 標的を撃ちぬいた先で砕けようと、まだ生き延びようと、構わない。そんなのは運任せでいい。問題は、標的を射抜けるのかどうか。それだけだ。
 やがて落ち着いた十文字は、辻を見つめた。
「辻」
 長く息を吐いた後で双眸を緩めた十文字が顎を上げ、辻を見下げた。
 組長のような崇高さで。
 辻は自然と、頭を垂れた。
「やれ」

 ――それが、十文字の命令ならば。