弾倉の臥狗(13)
「痛い?」
到底広いとは言えないベッドでまどろんだ十文字は、辻の上に重なりあうようにして寝そべっていた。
最初、何のことを言われたのかと戸惑った。痛むとしたら十文字の方ではないのかと――口にする前に、気付いた。
十文字は辻の左目を覗いていた。
「気にするな」
包帯の上に触れると、濡れている。十文字の唾液がついたままなのかと思ったら、離した指先に血が付いていた。
バイキンがどうの、と言っていたのは他ならぬ十文字ではなかったかと思ったが、構わない。
気を失うほどの流血を伴った傷の上を噛み付かれて吐精するだなんて、まるでマゾヒストだ。辻は柄にもなく心配そうに口を噤んでいる十文字の顔を右目で見て、ため息をついた。
十文字に人生を賭すと決めたこと自体、マゾヒズムのようなものだ。
「じきに慣れる」
今はまだ遠近感に自信がないが、早々に掴む必要があるだろう。
おそらく十文字はいつまでもじっとはしてない。十文字が危険な目に遭った時、守れないようならば一緒にいて生きると言ったのが嘘になる。
十文字は黙っている。
しかし辻の顔をじっと見ていて、微動だにしない。
何かを言いたげでもなく、何を考えているのか掴めない表情だ。
「――どうして菱蔵を殺したい?」
辻は、自分でも驚くほど自然に尋ねることができた。
静かな病室で、差し込む陽の光は柔らかい。十文字が今までにないほど辻のそばに密着していて、体温を共有している。どこか現実味がなく、辻は何も身構える必要がないように感じた。
十文字の瞳が揺れた。
逡巡しているのかも知れない。
辻は待った。辻はいつでも十文字の味方であると決めた。たとえ理由を話してくれなくてもだ。
菱蔵組は父親も属している堂上会系の直参組織だ。小さいながらも、歴史の長い組でもある。その組長を殺すのは容易なことじゃない。
十文字は菱蔵組長の顔も知らないようだった。渡世に詳しいという風でもない。
それなのに何故、あんなに狂気を覚えさせるまでに殺意を抱いているのか。
「俺ね、家族いないんだよ」
しばらく黙っていた後で、十文字はゴロンと寝返りを打って、口火を切った。
十文字が転がったおかげで辻の上にかかっていた布団が半分以上持って行かれたが、辻はなおそうとしなかった。黙って、話の続きを待った。
「菱蔵組の組長? あの男に殺されたんだ」
唾を飲み込んで、辻は体が震えるのを堪えた。
何故か、胸中には汐と遊んでいる時の十文字の屈託のない表情がよぎった。
「全員か?」
ベッドの上に俯せになった十文字が肘をついて上体を起こそうとして、よろめいた。それを支えようと伸ばした手で、十文字の肩に触れることをためらった。
それに気付いた十文字が辻を見て、笑う。
触れたら消えそうな、弱い表情で。
「俺が小学生五年の秋、たまたまその日、友達んちで遊んでてさ。夕飯の時間に合わせて、いつもと同じように家に帰ったら、――玄関から先、血まみれ」
息を継いだ十文字の唇から血の気が失せている。
辻はやり場をなくした掌を、握りしめた。
「びっくりして家の中を覗いたら、居間の入口で母親と、父親がメッタ刺しにされてて――あと、」
一瞬、十文字が言葉に詰まると辻は慌ててその肩を抱いた。
十文字の目は見開いたままで、しかしどこも見ていない。目の前にいる辻のことも。グレーがかった瞳の中は空虚で、涙さえ、滲んでいなかった。
「親の血がドバーッと広がってる中で、姉ちゃんが犯されてた」
「!」
十文字の肩を抱いた辻の手が震えると、ようやく十文字は辻の顔の上で焦点を合わせて――それから視線を伏せた。
「首からどくどく血が出てて、白目を向いて痙攣してた。その股ぐらで、あいつが腰振ってた」
十文字が前髪を握りしめて顔を伏せると、辻はその頭を抱き寄せた。
これ以上話す必要はない。そう言ったつもりが、声にはならなかった。
十文字がくぐもった声で――いつもの歌うような抑揚など消えてしまった口調で、唇だけ震わせる。
「頭が真っ白になって立ち尽くした俺を、あいつが振り返った。その瞬間、俺は、逃げた。走って走って走って、隣町まで逃げてから、我に返った」
夕暮れの中を走って逃げる十文字の姿が辻の脳裏に浮かんでくる。抱きしめた十文字の頭から直接映像が流れこんでくるかのようだ。
「――俺は、自分だけ助かろうと思って、逃げてきた。姉ちゃんはまだ動いてたのに。助けられたかも知れないのに。それで、逃げる時より早く走って、家まで引き返した。でももうそこにあいつはいなくて、姉ちゃんも死んでた。俺があの時逃げないでいたら、助かってたかも知れないのに」
十文字の声は悲しみにも憎しみにも怒りにも自責にも震えなかった。ただ、冷え冷えとしている。
だから余計に辻の心を締め付けるようで、辻は言葉を失った。
十文字の姉はきっと、その瞬間だって既に助かりはしなかっただろう。痙攣して見えたのは単なる死後硬直だ。そんなこと十文字だって知っていて、だけどそうは思えないんだろう。
「姉ちゃんの中に残ってた精液で、犯人は一度逮捕されたけど、すぐに釈放された。辻、知らない? あいつ、逮捕されてたの」
堂上会は指定暴力団として登録されている以上、逮捕者が何人も出たり入ったりしているのは常だ。小さい組ならば、組長が塀の中に入ることも珍しくはない。辻は菱蔵組長の顔も明確には覚えていなかったくらいだから、逮捕歴など気にも止めなかった。
それがどんな罪状だったのかも。
「当然すぐ殺しに行ったんだけど、丁に邪魔されて、全然ダメだった」
そう言って十文字が息を吐いた。笑ったつもりだったのかも知れない。
「――俺は、自分が死ぬことだってどうでもいいんだ。あいつがのうのうと生きてることが、許せないだけだ」
掠れた声で十文字は呟いた。