弾倉の臥狗(12)

 目を覚ますと、淡い色で統一された殺風景な部屋にいた。
 病院か。
 鼻をくすぐる消毒液の匂い、生活感のない白い風景。
 辻はあたりをゆっくり見回して、自分の世界が半分失われたことを悟った。
 左目はただ包帯で保護されているだけではない、光も感じなくなっているだろう。
「――目ェ覚ました!」
 静寂と、味気ない景色を切り裂いて、十文字が顔を覗かせた。
 窓から差し込む光が十文字の明るい髪に乱反射して、キラキラと眩しい。十文字がこんなに騒がしくなければ、もしかしたら十文字は天使で、ここは天国なのかもしれないと勘違いしたかもしれない。
「辻が目を覚ました! 辻が目を覚ましたぞ皆の衆ー! じゃなくてセンセー! センセェェェェェェエエエエ!」
 しかし、バタバタと足音を高らかに鳴らしながら狭い病室を右往左往し、雄叫びを上げる様子を見ていると、とても天使とは思えないし、こんなにうるさい場所が天国だなんて信じたくもない。
 辻は生きている。
 生きて、十文字のそばにいる。
 命令を、忠実に守れたのだ。
「あっ、また死んだ!」
 安堵した辻が目を瞑ると、頭上から十文字の悲鳴が聞こえた。
 薄目を開くと、また生き返ったー! と騒ぎ出す。
「だから命に別状はないって言っただろう、人を薮医者呼ばわりしやがって」
 十文字の騒ぎを聞きつけた医者が、苦い表情でようやく病室の戸を開いた。
 薄い体に白衣を着けた若い医師だった。ネームプレートには研修医と書いてある。神室。冷たい表情をした医師だった。
「だって三日も死んでたじゃないか!」
「死人は生き返らない」
 神室は十文字の騒ぎを聞き流しながら、手際よく辻のバイタルをとった。辻に了承を得るようなことは何も言わない。無愛想なことだが、どこか嫌味のない男に見えた。
「えっじゃあ辻はやっぱり……?!」
 十文字が青い顔で辻から遠ざかる。
「死んでない」
 辻と神室の声が重なった。しかし、笑うのは十文字一人だ。
 十文字が笑っている。
 辻が最期に見た十文字の顔が、泣き顔じゃなくて良かった。心からそう思った。
「血の気が多いんだな。あんなに輸血するんじゃなかった、もったいない」
 血圧を測り終えた神室は独り言を漏らしたあと、おしまい、というように辻の胸の上をポンと叩いた。
「触んなよ!」
 噛み付かんばかりの勢いで十文字が神室に飛びつく。神室は十文字に掴まれる前に器用に避けて、器具をしまい始めた。
 どうやら辻が意識を失っている三日間の間に十文字はこの医師と仲良くなったようだ。十文字はそういう男だ。どんな相手の懐にも土足で踏み込んでいって、不快だと思わせることなく、許容されていく。
 辻は自分のことを省みるようで苦笑を噛み殺しながら神室の横顔を眺めた。
「医者に触るなということは、もう治療しなくていいということだな?」
「無駄に触んなっつってんだ! バイキンが入ったらどうするつもりだ! まだ傷ふさがりきってないから安静にさせろっつったのお前だろ! 辻の右目からバイキンが入って辻がバイキンマンになったら俺がアンパンマンか! お前は何パンマンだ!?」
 必死に抗議しながら辻を庇うように飛びついた十文字の拳が、鳩尾に入った。無防備を突かれて思わず呻いた辻に、神室が一瞥を向けた。同情とも、何とかしろというメッセージのようにも見える。
「……とりあえず、そいつが怪我してるのは左目だ。右目は健康だから、せいぜい大事にしてやれよ」
 神室は呆れたようにそうとだけ言って、病室を後にした。
 十文字は、アレ?というように辻の顔を覗き込んだ。
 自分の右手と左手を確認するように見比べて、もう一度辻の顔を見つめる。
 透き通った十文字の瞳が傷ついたのじゃなくて良かった。失ったのが辻の一部で良かった。
 左右混乱している十文字の険しい表情を眺めていると、辻は無意識に手を伸ばしていた。
「! バイキンがうつるぞ!」
 びくっと体を震わせて十文字は一足飛びに部屋の隅まで遠ざかった。
 バイキンの心配をするなら動かないでいてくれれば良いようなものだが、辻は諦めて、手をベッドの上に落とした。
「――痛むのか……?」
 おそるおそる、十文字が近付いてくる。
 辻は黙って、首を振った。鎮痛剤か麻酔かわからないが、痛みはなかった。鈍い頭痛のようなものは遠くに感じる。
 ただ左目の周囲の皮膚が突っ張っているように感じる。どんな傷になっているのか、想像もできない。
「ごめん、…………俺の、せいで……」
 ベッドの脇まで辿り着いた十文字は深く俯いて、搾り出すように言った。
 十文字がどんな表情をしているのか見えない。辻は、十文字に顔を上げさせるように、再び手を伸ばした。今度は逃げられてしまわないように、ゆっくりと。
「気にするな」
 力なく垂れた十文字の腕に手を滑らせて、手首を掴む。十文字の顎先が、ピクリと震えた。
「俺はお前の部下なんだろう? お前が組長になろうとなるまいと、俺はお前の部下になると決めたんだ。ボスのために目を一つ潰されたくらい、なんでもない」
 十文字がやくざ者じゃなくても、構わない。
十文字の命令があったから辻は今ここで生きていると思える。
 十文字が無事なら、左目など大した代償ではない。
 辻がまだ未熟だったから傷を負った、それだけのことだ。それは辻が恥ずべきことでありこそすれ、十文字に責任はない。
 命を賭けて守る相手ができた、そのことは誇るべきことで、喜ぶべきことだ。渡世人ではない十文字にはそれはわかり難いことかもしれないが、いつかわかってくれたら良いと思う。
 辻の命は十文字のものなのだと。
 生きろと命令されたあの瞬間に、そう決まったのだ。
「あ、部下って言ったの、あれ、ナシ」
 顔を上げた十文字が、けろりとした顔で言った。
「は?」
 思わず目を瞠って、辻は左目をおさえた。わずかながら癒着し始めていた皮膚が引っ張られて、さすがに痛みが走る。
 どういうことだ。
 ハハハ、とのんきに笑っている十文字の顔を見上げながら、辻は少なからず落ち込んだ。
 じゃあ自分は何なんだ、という気がしてならない。
 十文字を守ったのは辻の勝手だ、それを責める気はない。しかし、友達じゃないと言われ、今度は部下にするのもナシ、と言われてしまったら、辻は何なんだ。ただの捨て駒か。捨て駒だと言われても十文字を非難するつもりはないが、落ち込む。
 まだ捨て駒としての腹は括れていなかったということらしい。辻は自分の精神の未熟さをまざまざと思い知った。
 友達でもなく、部下でもない。
 それでも十文字を無傷で連れ帰ってこれたのだから、誇らしいと思えなければ――
「だってさぁ」
 左目をおさえたまま大きくため息を吐いた辻に、十文字があっけらかんとした口調で続ける。もう何を言われても驚くまい。落ち込むまい。
「俺、辻のこと考えてると勃起するんだよね」
「、」
 辻は、十文字の顔を見た。
 十文字もまた辻を見ている。
 恥じらいも後ろめたさも読み取れない、まっすぐな瞳。
 辻は呼吸を忘れた。思考も停止している。
「辻は?」
 いつもそうするように、十文字は首を傾けて見せた。
 何を訊かれたのか、にわかには理解し難かった。何を告げられたのかも正確にわからない。それが大層なことなのか、ただの生理現象の報告なのか。
 ただ、病院の薄っぺらい掛け布団の下で辻の心音はうるさいくらい鳴り響いていた。
 いっそのこと十文字がいつものようにうるさく騒いでくれればいいのに、こんな時に限って辻の答えを待つように押し黙るから、辻がひどく狼狽して、鼓動を早めていることを気付かれそうだ。
「――辻は違うのか。……そっか」
 いつまでも答えられない辻から視線を落とすと、十文字は一つ息を吐いて、踵を返した。
「!」
 反射的に、十文字の手を掴んだ。
 ビール瓶を刺された肩の傷が痺れるように痛む。
 十文字が振り返った。
 黙っていれば外国製の人形のように整った顔で、子供のように無邪気で、しかし辻には言わない何か――くら昏い、殺意を抱えている。
 辻は十文字の、ただそれしか知らない。
「組長が部下に欲情してちゃダメじゃない?」
 十文字の手を掴んだはいいが、何も言えずにいる辻に十文字が無垢に言葉を続けた。
 辻はベッドから僅かに身を起こして、ぎこちなく、小さく肯いた。
「一緒にいて勃起するようなのは、友達ともちがくない?」
 もう一度、肯く。
 それきり十文字は何も言わなかった。
 十文字が去って行かないように捉えた辻の掌が、じっとりと汗ばんでくる。
 きっとこんな時茅島や藤尾なら、相手に何も言わさずにベッドの中に引きずり込めるのだろう。辻はどうしていいかわからない。頭ではわかっていても、体が動かない。他の人間相手にだったら何でもできる。いや、他の人間相手なら何もしたくはならない。
「ちゅーしていい?」
 ゆっくりとベッドに向き直った十文字が、いつもの調子で尋ねた。
 辻は遠近感の不確かな視界に、十文字の美しい顔が近付いてくるのをしばらく眺めていてから、慌てて目を瞑った。目を瞑っても、十文字のまつげの長さはわかった。頬に触れて、くすぐったい。
 十文字は辻の肩に片手をついて、天使の羽のように柔らかい感触のする唇を押し付けてきた。
 質問しておきながら辻の返事を待たずにキスされたことには、十文字が二度、三度と辻の唇を啄んだあとで舌を覗かせるまで気付かなかった。
「……っは、」
 辻がぎこちなく開いた唇の隙間を執拗に舐めながら吐き出された十文字の吐息が、熱っぽい。
 ベッドの上に屈みこんだ十文字の手首から掌を這い上がらせて、辻は十文字の頭を優しく撫でた。すると、それを合図にしたように十文字がベッドの上によじ登ってきた。辻の体を跨いで、顔を傾け、辻に唇を合わせてくる。
「ン、は……っァ、ぅん」
 辻の体にまたがった十文字は両手で辻の顔を抱いて、舌を伸ばしてきた。辻がそれを舌で絡めとると、喉を鳴らしながら吸い付いてくる。 
 辻は右目を薄く開いて、十文字の表情を盗み見た。
 白い肌が上気して、目元まで朱がのぼっている。息を継ぐように時折離される上唇が唾液に濡れて、あどけない艶めかしさが目の前にあった。
「辻、……したことある?」
 辻が思わず喉を鳴らして唾を飲み込むと、十文字が重たそうな目蓋を押し上げて辻の右目を覗き込んだ。
 逡巡してから、辻は肯いた。
 茅島に連れられて女と遊んだことがある。それが回数に入るなら、経験はある。それを正直に伝えることが良いのか悪いのかはわからない。
 十文字はただ、ふーん、と鼻を鳴らすように返事しただけだった。
 十文字はどうなのか、とは尋ねられなかった。もし辻と同じようにただの経験としてあると言われても、それだけでも、辻はむっとしてしまいそうだった。
 本音を言えば、十文字にもむっとして欲しかった。
 それとも十文字にとっては、「そういうこと」ではないのか。わからない。
「俺は、」
 十文字の唾液に濡れた唇を舐めて、辻は言葉を搾り出した。
 体が熱い。体のあちこちについたかすり傷が痛む。でも、気にならない。
「残ってるこの右目で、お前のことだけ見ていられればそれでいい。お前にも、俺だけを見ていて欲しい」
 好きかどうかも、欲情するのかどうかも、辻にはうまく答えられない。ただ、十文字が辻以外を見つめるのがたまらなく嫌だ。それだけだ。
 知らず、辻は十文字の肩を強く掴んでいた。
「左目にはお前の姿だけ封じ込めた。いつか右目も閉じる時が来たら、その時も、お前の顔だけ映していたい」
 辻の力で肩を掴まれても、痛い顔ひとつしない十文字は驚いた表情で、透き通った目をまん丸にして、辻の顔を見つめた。
 頬に残った口づけの余韻がゆっくりと耳まで赤い色を濃くして、呆けたような表情が徐々に泣き出しそうに歪んでいく。
 しかしそれはすぐに辻の肩口に伏せられてしまって、最後までその変化を見届けられなかった。
 仕方がない。十文字を見つめているのは辻の勝手で、強要は出来ない。
「――信じらんねー、……何、その、殺し文句」
 辻の病床を揺らしながら足をばたつかせた十文字がくぐもった声で喚く。十文字が体を揺らすたびにパイプ製のベッドがギシギシと軋んで、辻は気が気じゃなかった。宥めるように背中に腕を回すと、十文字は辻に抱きついてきた。
「わかった。俺以外を見たら、殺す」
 辻の肩口で言った十文字の唇がのぼってきて、首に噛み付いた。甘噛みなのか本気なのか判断のつきにくい強さに辻は顔を顰めながら、ベッドに肘をついて体を反転させた。
「いいよ。もし俺がお前を裏切るようなことがあれば、その時は、お前が俺を殺してくれ」
 辻に体を引かれてベッドの上に仰向けになった十文字は一瞬驚いた顔を晒した後、辻の言葉に双眸を細めて、不敵に笑った。