宵闇の狼(8)

 モトイに頬を打たれた安里は、暫く床の上に倒れ込んだまま微動だにしなかった。もしかしたら気絶してしまったのかも知れない。
 モトイが蹴破った扉からリツが出て行って、もう数分経つ。
 安里の胸はゆっくりと上下していて、死んだわけではなさそうだ。あるいは、モトイの到着が遅ければ死んでいたかも知れない。リツと一緒に。
 それがモトイにとって惜しいことなのか悔しいことなのか、悲しいことなのかは判らない。
 安里がいなくなったモトイのこの先の人生なんて想像もできない。 
 柳沼を失った時――茅島を殺すことをしくじり、見知らぬ土地の病院へ入院させられていた間――モトイは、空虚だった。
 柳沼の望む武器になれなかった自分を無意味な命だと感じた。柳沼と出会う前に戻っただけだと、そう考えることはできなかった。
 今も同じだ。
 安里がいなくなることは考えられない。
「おい、……いつまで寝てんだよ」
 床の上に力なく伏せたままの安里の傍らにしゃがみ込むと、モトイは細い肩を掴んだ。
 二度揺らした後、仰臥させる。何の抵抗もなく床に背中を転がせた安里の目蓋は閉じていた。唇は渇いて、血の気がない。でも呼吸はある。
 安里が失神した姿を身るのは珍しくもなんともない。モトイが少し乱暴に犯せば、安里はいつも気を遣ってしまう。
「――なぁ、……アンタの男は、もうこの世にはいない」
 気を失ったままの安里の顔を見下ろして、モトイは独り言のように呟いた。
 部屋に飛び込んできた時、安里は「藤尾」と呼んでいた。リツに向かって。
 藤尾という男を、モトイは知らない。モトイが柳沼に拾われるより前に死んだ男だ。安里が愛していた男だ。
 リツはその男にそっくりなのだと、千明は言っていた。
「アンタにはもう、俺しかいない」
 弛緩した安里の肩から手を離して、モトイは縋るように告げた。
 もう他には誰もいない。モトイが柳沼を失い安里だけが残ったように、安里にとっても、もうモトイしか残っていない。
 モトイは返事をしようとしない安里の冷たい首筋に掌を這わせた。微かに脈打っている。
「アンタは俺と生きるかここで死ぬか、どっちかだ。――どうする?」
 脈の上を指先で押さえる。床の上に膝をついて力を篭めると、安里がゆっくりと目蓋を押し上げた。
 暈けた視線を無駄にさまよわせることなく、モトイの顔を黙って見つめていたかと思うと、その双眸を細める。
 モトイは息を飲んだ。
「……あなたと一緒に死にたい」
 囁くような声で答えた安里は、微笑んでいた。
 初めて、安里が笑っているのを見た。まるで氷のようだ。反射的に引こうとした手が、霜で張り付いてしまったかのように剥がれない。
 虚ろな安里の微笑みにモトイは一度生唾を飲み込むと、首を締めた手に力を篭めた。
 安里の笑顔は曇らない。そのまま、再び目蓋を閉じる。まるで殺してもらうことに安堵しているかのようだ。
 初めて会った時もそうだった。
 事務所で安里の侵入を阻もうとしたモトイに首を掴まれた安里は、どこか安堵しているようだった。
「……――ッ!」
 次の瞬間、モトイは安里の肩を掻き抱いていた。
 床から引き起こして、ごつごつとした骨ばかりの身体をきつく抱きしめる。小さく心音が響いてくる。安里がモトイの腕の中で生きているのを感じる。
「一緒に死ぬためには、俺はアンタを殺せないよ」
 安里を力いっぱい抱きしめたモトイの腕は、震えていた。
「……はい」
 逡巡するように少し答えを探した後で、安里がぽつりと応じた。
 もう、いつもの調子だ。
 安里のいつもの調子は、モトイが知る以前の安里とは違うのかも知れない。それでも構わない。モトイが知る安里はどこかぼんやりとしていて、言葉少なで、従順で、優しい。
 モトイは鼻を啜るのを押し隠すように安里を抱き直すと、首筋に額をすり寄せた。
「俺が殺したら安里が先に死んじゃって、一緒じゃないから」
「はい」
 理解したというように、今度は安里の返事も早い。
 安里が今、どんな表情をしているのか知らない。きっとモトイの見慣れた人形のような掴みどころのない表情だろう。
「誰かが俺たちを一緒に殺してくれるのを待つしかない」
 そんな日が来るなんてことは、あまり想像できない。
 モトイならまだしも、安里はそんな危険な目に遭うことはないだろう。ましてや、二人で殺されるなんてことは。 
「はい」
 それでも安里ははっきりと肯くと、安里を抱きしめたモトイの腕に手を擡げた。
 安里に手を添えられたモトイがゆっくりと顔をあげると、安里はモトイを見つめていた。思った通り、見慣れた表情だ。
「……判ってんの?俺はアンタを殺せないんだよ」
「はい」
 言葉と一緒に、安里が小さく肯く。
 声音はいつもと変わらないのに、それはどこか力強く聞こえた。安里の決意のようにも。
 モトイは拗ねるように唇を尖らせると、自分から視線を外した。安里の目は人形に埋め込まれたガラス玉のように透き通っていて、直視していられない。
「……それでも一緒にいてくれんの?」
 そっぽを向いたモトイが尋ねると、安里の手がモトイの腕を離れて、強張ったモトイの頬の表面を撫でる。
 安里が笑ったように息を吐いた。
「――一緒にいないと、一緒に死ねませんから」