宵闇の狼(7)
「ねえ、名前なんて言うの?」
部屋に入ると、左手の腕時計を外しながらリツは尋ねた。
この時計は以前お得意様だったマダムに買ってもらったものだ。ポール・スミスのジャケットは、最近頻繁にリツを指名する有名企業の常務が買ってくれたもの。
顧客から買い与えられた装飾品に身体を包んだリツは、今、金にもならなさそうな相手を前に上機嫌だった。
「おにーさんもヤクザなの?」
尋ねられた安里は、蒼白した顔を窄めた肩に押し付けるようにそっぽを向いて、視線を揺らしている。
リツは、安里を安心させるように小さく笑うと時計を外した右手をゆっくり差し伸ばした。
「せめて名前教えてよ。呼びにくいじゃん」
リツが安里の冷たい肌に触れると、ビクっとまるで電流でも流されたように安里の全身が大きく跳ねた。硬直した背を向けられてしまう。
……まだ何もしていないのに。
リツは胸中でそう呟くと、漏れてくる笑みを押し隠すように、伸ばした手を引いた。
餌場である駅前に向かう途中、見知った顔を見かけたのは本当に偶然だった。一度茅英組の事務所で見かけただけだが、忘れようもない強い印象がある。
相手もリツに気がついた。瞬間、逃げ出そうとした背中を、気付けば追いかけていた。
何をそんなに怯えられているのか判らない。身に覚えがない。
リツを買ったおかげで身を持ち崩した人間に恨まれる心当たりならあるが、こんな風に逃げられたことはない。
強い拒絶は、強い求愛に似ている。
リツは、震える背中に隠されてしまった表情を覗き込むようにベッドへ回り込んで、腰をおろした。
スプリングの軋む音に、安里がはっと息を飲んだ。
「――と……」
ベッド脇に立ち尽くした安里の顔を身体を前屈みにさせたリツが覗くと、血の気のない唇が微かな息を吐くように呟いた。
「え?」
耳を澄ませて、リツは安里に身体を寄せた。
「安里、――……智史」
今度ははっきりとした口調だった。
リツはベッドの上の身体を揺らして大袈裟に喜ぶと、目の前の安里の腰に腕を伸ばした。
「やっと教えてくれた! なんて呼んだらいい? 安里くん? トモ?」
腰を抱き寄せられた安里は、リツの言葉に再び身体を竦み上がらせると、息を詰めた。
「まだ何もしてないよ? ねえ、何でそんなに俺が怖いの? それとも人見知り?」
ようやく腕の中に捉えた新しいおもちゃを前にして、リツは声を上げて笑った。どんな事情でリツを怖がってるのか知らない。
何にせよ、リツにとって安里は――使える。茅英組への取引材料としては、今はこれしかない。
覗き込んだ安里の表情は白く暈けていて、きっとこれを性欲に塗れさせたらいい色に染まるだろう。身体的に愉しめて、更には地域の暴力団との繋ぎになるなら言うことはない。
リツは上機嫌だった。
安里を乱暴に引き寄せると、ベッドの上に引き倒す。
抵抗する力をなくした安里はまるで人形のようにシーツの上へ身体を横たえて、リツの顔を見上げた。
「――さい」
弛緩した唇が、呟く。
「え?」
安里の上に跨って上着に手をかけたリツが聞き返すと、安里の視線がリツを射抜いていた。
さっきまでは見なかったような、強い意志をもった表情だった。
「……私にも質問をさせて下さい」
思わず、顎を引いてしまうような気迫を感じる。リツは上着を脱ぐ手を止めて、肯いた。
「いいよ」
安里を安心――あるいは油断――させるように、首を傾いで穏やかに笑う。この期に及んで言葉なんて必要ないでしょうと、普通の客だったら口を塞いでしまうところだけど。
後腐れはできるだけない方がいい。リツにとって安里は、大事な道具なのだから。
「どうして、私を置いて行ったんですか?」
枕から頭を半分落とした安里は、まっすぐリツを見つめている。
リツは暫し、答えに詰まって目を瞬かせた。
「――何のこと?」
誰かと間違えているのか。
恐る恐る尋ねたリツに、安里がゆっくりと上体を起こした。リツが自然と身体を引くと、それを安里の腕が追ってくる。
「どうして、私一人を置いて行ったんですか?」
縋るように伸ばされた安里の手が、リツの首に絡みついた。リツは目を瞠った。
「え、いや……ちょっと、」
制するように手を掲げる間もなく安里が体重をかけてきて、リツはベッドの上に肘をついた。形勢逆転した状態を笑う余裕もない。安里の目は、正気のそれじゃなかった。
「藤尾さん」
さっきまで無機質に響いていた安里の声が、甘みを帯びる。
目の前にいるリツではない誰かを見つめる視線は蕩けるように伏せられ、唇にも血の気がのぼっていた。
「安里くん、人違いだって! 俺フジオとかじゃないし!」
リツにのしかかった安里の両腕には体重がかけられ、頚椎を真上から圧迫している。扼殺に慣れているかのような迷いのない方法だ。
見上げた安里の表情には憎しみも恐怖も窺えない。それが、リツには余計に恐ろしく思えた。必死に頚部の手を振り払おうと爪を立てるが、華奢に見えた安里の手はびくともしない。
「藤尾さん、……でも、会いに来て下さって、嬉しいです。今度こそ、一緒に――……」
下から安里の身体を蹴り上げながら、リツは血液の循環しなくなった頭がぐらついてくるのを感じた。目がチカチカとして、気ばかり焦る。冷や汗がこめかみを伝っていく。
「が……ッ! あさ、……違、って――……!」
強く押さえつけられた喉から搾り出す声は嗄れ、ただ苦痛なだけだ。
安里は、唾液も飲み込めずに泡を吹いたリツに唇を寄せてきた。リツなど見えていない。まるで、亡霊でも見ているかのようだ。
「藤尾さん、――」
安里が恍惚として囁いた、その瞬間。
ひどい轟音が室内に鳴り響いた。リツが手放しそうになった意識を引き止めるように。
「安里!」
割れるような怒鳴り声が聞こえたかと思うと、リツの唇に寄せられた安里の顔が遠ざかった。急に新鮮な空気が気管に飛び込んでくると、リツはベッドの上に横臥して激しく咳き込んだ。
「ふざけんなお前! 何やってんだよ」
安里をリツから引き剥がしたのは、リツを駅前で捉えた男、――モトイだった。
「目ェ覚ませ、バカ」
容赦ない音が爆ぜたかと思うと、安里が床の上に転がった。モトイが殴りでもしたのか。リツが背中を丸めて噎せながら、その様子を伺っているとモトイと目があった。
磨り殺されそうな圧迫感のある視線だった。
「――出てけ」
地を震わせるような低い声で、モトイが呟く。
言われなくてもそうするつもりだ。リツは顎まで垂れた唾液を乱雑に拭いながら、外した腕時計をそのままに部屋を転がり出た。