宵闇の狼(6)

 千明はモトイと暫く視線を交わした後で、目を眇めるようにして笑った。
 眉間に刻まれた皺が深くなり、唇を歪めただけかもしれない。モトイには笑ったように見えた。
「その様子じゃ、茅島はまだ知らないようだな」
 笑ったと思ったのも束の間、千明は吹き抜けて行く冷たい風に首を竦めてコートのポケットに両手をしまった。日が暮れて行く。
 リツが茅島と会っていないという情報を得た千明が、それだけで満足して立ち去ってしまわないようにモトイは間を詰めた。
「アイツ、何なんだよ」
 茅島は、駅前の売春夫をモトイに任せた時変わった様子は見せなかった。
 茅島がモトイを騙したとは思えない。千明が言うことをそのまま受け取るなら、茅島も「まだ知らない」のだ。何を?
「何って、」
 モトイの顔を眇めた目で見遣った千明が、顎の髭を擦るように掌を這わせた。煙草臭い息を一つ吐く。
「――……お前には関係の無いことだ」
 剃り残した髭を摘みながら視線を逸らした千明の表情は、面倒だという素振りを隠しもしていない。モトイが何を知らなくても、千明には関係ないことだとでも言いたげだ。
「!」
 モトイは左腕を伸ばすと、千明の胸ぐらを掴んでいた。右手はいつでも千明の顎を打てるように固めてある。この距離で思い切り顎先を叩けば、脳震盪を起こしていくら千明でも地べたを舐めることになるだろう。
「教えろ」
 モトイは声を潜めた。
 駅前は帰宅ラッシュを迎えて往来が多くなっている。端から見れば、うだつの上がらない中年が若者に絡まれているように見えるだろうか。あるいはすぐに警官が千明の姿を認めて助けに来るかも知れない。そうじゃなくても、千明がその気になれば公務執行妨害でモトイはあっさりと捕まってしまうことになる。茅島には迷惑をかけるだろう。
 それでもモトイは、気怠げに向けられた千明の濁った眸を見返した。
 拳を振り上げる時は、相手を殺していいという気持ちでやれと教わった。千明を殺しても構わない。それくらい、これはくだらないことじゃない。モトイには知る必要がある。
 喉元に刃を突きつけるようなモトイの眼差しに晒された千明は、顎から外れた手をコートのポケットに仕舞い直すと首を竦めて小さく笑った。
 周囲で息を飲んだ人々の様子など気にも止めていない。
「君、柳沼はもういないんだよ。手当り次第殺気を振りまくのはやめた方がいい」
「柳沼さんは関係ない!」
 声を張り上げたモトイが千明の声をかき消すと、千明は初めて驚いたように目を見張った。
 柳沼は関係ない。
 これはモトイと、――安里の問題だ。
「アイツ、安里と何か関係あるのか」
 モトイは千明の胸ぐらを掴む手に力を篭めながら、唸るように尋ねた。
 安里の正気とは思えない様子がまざまざと思い出される。安里がいつ正気かなんて判らない。普段だって、安里はどこか掴みどころがないけど。
「安里くんは会ってしまったのか?」
 胸ぐらを掴むモトイの手に、千明の手が上った。
 空手でもやっているのだろうか、そのくたびれた印象とは程遠いゴツゴツとした手だった。モトイの骨張った手をぐっと掴んで、引き剥がす。その千明の表情はますます意味深に曇っていた。
 まるで、安里をよく知っているかのようだ。
「安里は俺のものだ! 教えろ!」
 モトイは割れた声で怒鳴り散らした。苛立紛れに蹴りつけたアスファルトの上で、ブーツが大きな音をたてる。駅前の喧騒が一瞬、静まり返ったような気がした。誰が振り返っても気にならない。むしゃくしゃして、腹の中が煮えくり返りそうだ。
 千明は皺になった胸元を掌で払うと、大きく息を吐いた。眉間には深く皺が刻まれている。苦いものでも飲み下したような表情だ。
「まあ、君が知らないのも無理はないか」
 ようやく周囲の視線を気にするように辺りに視線を走らせた千明は、顎で路地裏を指した。モトイはまだ握りしめた右手を解けないでいる。
 その様子を察したように、千明は苦笑した。
「まだ柳沼が、君を拾う前の話だ」
 千明は語り始めた。モトイを人目につかない道へと促しながら。安里のこと、この道で偶然千明がリツを見つけた時のことも。
 その時、モトイのデニムの尻ポケットで携帯電話が震えた。
 発信者は茅島だった。
『安里を知らないか』
 通話ボタンを押した瞬間、茅島が低い声で言った。
 反射的に空を見上げる。もう暗い。千明の腕の時計を無理やり覗き込むと、17時半を過ぎている。時間に忠実な安里が、茅島の元へ来ていないという。こんなことは初めてだ。
『先生が用事を頼んだきり、事務所に戻ってないそうだ』
「――ッ!」
 モトイは、路地裏を転がり出るとドラッグストアの前を振り返った。
 リツの姿はない。
「どうした」
 千明が追いかけてくる。
 モトイは茅島の電話を切ると、千明に無言のまま駆け出していた。


 安里の胸には大きな傷がある。
 まるで心臓を抉ろうとした痕のようだ。
「これ、自分でつけたの?」
 一度だけ安里にその傷のことを尋ねたことがあった。
 モトイの一方的な行為の後で、体液に塗れた身体を放り出されたまま力を失っている安里は、傷がついた胸を大きく上下させながら小さく顎を引いた。
 ――肯定。
「死のうとした?」
 モトイが乾いた傷の上に触れると、安里は僅かに身体を震わせた。まるで性感帯に触れられでもしたかのように。
「死ねなかったの?」
 安里はまた一つ、肯いた。
「だから俺と一緒にいるの?」
 安里の返答はなかった。
 答えを探すように、安里の空虚な眸がモトイの顔の上で焦点を結んだだけだ。
「まだ死にたいと思ってる?」
 モトイは、安里の傷の上にそっと爪を立てた。
 もう安里は身じろがなかった。ただ、一つ深く息をついた。感じているのか、笑おうとしたのかは判らない。
「……判らない」
 微かな安里の声が、室内にポツリと漏れて、風に消えていく。
 傷の跡をなぞるモトイの手に、安里の冷たい掌が重なった。
「死ぬのには理由が要るけど、その理由をなくしてしまったから」
 顔を見ると、安里は目を瞑っていた。まるで死に顔のようだ。
 モトイは、安里の唇から吐息のように溢れる声を聞き逃すまいとするように、顔を寄せた。
「ただ今は、……あなたより後に死にたいと思っている」