宵闇の狼(5)
面白くない。
あの日からもう三晩、モトイは安里の家を訪ねていなかった。
もしかしたら安里が未だにあの洞穴のように昏い目を見開いて震えているのじゃないかと思うと、苛立ってしょうがなかった。
苛立つから、安里に会いたくない。安里に会わないでいるから、今頃どうしているのかと思って苛立つ。
別に一緒に暮らすと約束したわけじゃない。だから、帰らなくてもおかしくはない。
安里だってモトイが来なくなったことで思うところはないだろう。もともと、安里がモトイに会おうとしたことなど一度もない。
ずっとそうだった。根本の店へ呼び出す時もモトイの都合で無理やりだったのだから、今、安里の家へ押しかけているのもモトイの意志でしかないのだ。
安里はモトイが生きていれさえすれば、別に他に何を望むでもないのだ。きっと。
別にモトイだって安里に何かを望んでいるわけじゃない。それでいいと思っていた。だけど、面白くない。
安里が何を考えているかなんて、モトイには一生判ることはないだろうから考えるつもりもない。ただ、それなりに安里との付き合いがあると思っていたモトイが知らない姿を見せられることは癪に触った。
リツが安里にとって何なのか、何でもないならあんな風にはならない。
だけどそれを安里は言わない。
きっとモトイがどんなにか暴力を振るっても安里は口を割らないだろう。それが、面白くない。
「茅島さん」
事務所のソファで新聞を広げていた茅島を見遣ると、いつの間にかうたた寝していた。
柳沼のデスクが一つ減ったおかげで、空間が空いてソファを入れた。茅島がそこに掛けている時間が多くなった。事務所を任せていた柳沼がいなくなったせいで茅島は自室に閉じ篭ってもいられなくなったのかも知れない。
とはいえ、事務所でも寝てばかりいるような気もする。
「――俺、散歩」
返事のない茅島を無視してモトイが席を立つと、同じように退屈そうな表情で事務所詰をしていた同僚が力なく頷いた。
安里が口を割らないなら、リツに訊く他ない。
リツが知る限りの情報を吐かせるしかない。リツが死のうとどうしようとモトイには関係がない。
モトイは愛用の、鉄板を仕込んだブーツの底を鳴らしながらリツの商売する駅前まで足早に向かった。あのまま事務所にいれば、夕方には安里がやって来る。
今の状態で安里に会うのは避けたかった。なんとなく、面倒くさい。
安里は何事もなかったかのような表情をしているだろう。きっと今までだって、安里には何かがあってもモトイに知らせることなんてなかったのだ。
それとも、リツが安里に対する何らかの重要な引き金になっているのだとしたら、安里はまだずっとあのままなのか。
いや、だとしたら茅島が事務所で暢気に眠っているはずはない。安里は椎葉にとって重要な事務員だし、茅島にとって欠かせない監視員だ。
「穏やかじゃないな」
ドラッグストアの手前で、掠れた低音に呼び止められた。
くたびれたスーツをカシミアのコートで押し隠して近付いてきたのは、千明だった。
「そんな戦闘靴を履いてどこにお出掛けかな、狂犬くん」
面倒な男に遭遇した。
モトイはリツが客待ちしている様子もないドラッグストア前の往来を一瞥すると、大きく溜息を吐いて頭を乱暴に掻き毟った。
千明は暴対課の刑事だ。茅英組とは持ちつ持たれつの関係を築いてはいるが、隙があれば容赦なくつけ込んできそうなしたたかさが、千明にはある。他の刑事はまだ何とかなるかも知れない。しかし千明は面倒そうだ。
少なくともモトイにはそう見えた。
茅島から見ればまた違う印象かも知れない。
「別に。ただの散歩だよ。おっさんこそ、こんなとこで何やってんの」
風邪をこじらせたら死ぬよ、と付け加えると千明はにこりともせずに小さく肩を竦めた。薄手に見える黒いコートはきっと、高価なものなんだろう。良いものは軽くて暖かいものなんだと、柳沼が言っていた。モトイはずっしりと重い革の上着でいい。
「この辺でウリをしてる男は、茅島の手つきか」
千明は薄く開いた唇を大きくは動かさずに搾り出すような声で尋ねた。鋭い眼光が光る。息が詰まるような威圧感を隠そうともしないこの中年が、モトイは苦手だった。本人は意識もしていないのだ。これで千明が本気でモトイに詰め寄るようなことがあったら、どんなものになるか知れたことじゃない。
さすがにモトイでも、恐怖心にかられて刑事を殺すような真似はしたくない。
「誰のこと言ってんの」
モトイは重いブーツの靴底を地面に滑らせながら唇を尖らせて俯いた。
やはり、リツには何かあるのか。
千明から聞き出せるだろうか。しかし、何を聞いたらいいのかも判らない。
「下手な芝居を打つものじゃない。会いに来たんだろう」
俯いたモトイには見えなかったが、千明はドラッグストアの方向を振り返ったようだった。コートの裾が翻った。
「まさか買いに来たってわけでもないだろう。――この間、この近くの路地で不良が喧嘩をしているって通報があったようだけどね」
モトイがリツをぶちのめした晩のことか。モトイは顔を顰めた。やっぱり千明は苦手だ。物言いがまだるっこしくて、こちらのミスを誘っているように感じる。
「上納金で揉めてるのか」
「うるさいな」
イライラする。
ただでさえモトイの頭の中は安里のことで手一杯なのに、こんな刑事に構っていられない。
「茅島はもう会ったのか?」
捨て台詞を吐いてその場を離れようとした矢先、顔を上げたモトイに千明が腕を伸ばしてきた。逃がすまいとでもしているのか。しかしその表情は、真剣だった。
「――……何で」
リツが茅島と会ったかどうかが、そんなに重要なことだろうか。
モトイは眉を潜めて千明の双眸を見返した。