宵闇の狼(4)
「安里」
安里の足元に転がっているのは、モトイの弁当だ。
モトイが作って欲しいと言った弁当を、安里は了解した以上、正しい形で届ける義務がある。きっと今頃、弁当箱の中でモトイの昼食はひどい状態になってるだろう。
モトイは安里の名前を呼んだ。
しかし、安里はこちらを向かない。リツを見つめたまま、硬直してしまっている。
「――ぁ、……ど、……して」
静まり返った事務所に、か細く震えた安里の呟きが漏れた。
微かに首を傾げて安里に応じていたリツが、モトイを振り返る。包帯で吊ったままの腕を擡げて、安里を指す。
「誰?」
リツが尋ねた瞬間、弾かれたように安里が顎を震わせた。
口を塞ぐより先にきつく胸を抑えた安里が、蹲るように背中を丸める。息苦しそうだ。モトイが安里に初めてこの事務所で遭った時、泡を吐くまで首を締めたのよりよっぽど。
「安里。コイツ、知り合いなの」
モトイは窓枠に凭れて腕を組むと、その場に膝をつきそうな安里を見下ろして声を張った。
リツが首を左右に振っているのが視界の端に映っているが、気にしない。安里が知っているかどうかだ。尋常じゃない態度をする理由が、安里にはあるということだ。
安里が短く呼吸を弾ませている。
返事がない。モトイは手近なスチールデスクの足を思い切り蹴りつけた。室内に轟音が響く。安里が、大きく肩を震わせて顔を上げた。ようやく。
「コイツと知り合いなの、って聞いてんの。返事」
へこんだデスクの脚に爪先を忙しなく打ち付ける。リツは弱ったように眉尻を下げてその場に立ち尽くしている他ないようだ。興味深そうに安里の様子を窺ってはいるが、その表情もどこか愉快そうにしている。
「っ、――……」
モトイから視線を外した安里は深く俯いて、リツから顔を背けた。胸を抑えている指先に血の気がない。骨張った手が微かに震えているようだ。
安里の黒い髪先が揺れる。首を振っているつもりなのか。
「が、――……うっ、違う……」
引き絞るような声で安里が答えた。
リツが身を乗り出して、安里の顔を覗き見ようとする。邪魔だ。モトイは入り口まで飛んで行ってリツの身体を跳ね除けてやろうかと思ったが、そうするよりも早く安里が顔を上げた。
「違う」
ぞっとするほど、その顔に表情はなかった。
安里の人形のような表情には見慣れているはずなのに、モトイは思いがけず息を飲んだ。
ゆっくりと、安里がリツを振り向く。リツもたじろいだように半歩、足を引いた。
「――あなたはもう、いない人だ」
空気を裂くような冷たい声だった。
モトイは安里の声は嫌いじゃないはずだ。小さな鈴を転がすような声でポツポツと話す安里が、急に刃を見せたような気がした。
「いないって、あのね。俺はいるよ」
リツが面白がるように口を開いた。瞬間、安里の顔色がまた変わった。まるで、怒ったようにモトイには見えた。憤怒の表情。モトイには、目の前にいるのが安里の形をした何か別の人間のように見えた。
「あなたはいない。もう、どこにも」
しかし静かな声で安里が繰り返した瞬間、胸を抑えていた手を解いた。反射的に、モトイは窓際から駆け出していた。動物的な勘というやつだった。
果たしてそれは正しかった。
安里がリツに対して振り上げた拳を押し止めて、モトイは背後に回したリツへ肩越しに視線を向けた。
「お前、いいからもう帰れ」
「や、だから組長さんが帰ってくるまで待っ……」
安里の力は弱い。しかし、油断すれば気圧されそうな雰囲気がある。薬を切らした柳沼と同じだ。腕力じゃないものに操られているかのような強さがある。
モトイは、安里を掴んでいる手がじっとりと汗ばんでいくのを感じた。
柳沼のことを思い出すからなのかは知らない。声も上げず、腕を無理に振り抜くでもなく黙ってジリジリと力を篭めてくる安里が怖かった。間近で吐かれる息が荒い。しゃくりあげているようでもある。
「いいから帰れっつってんだろ!」
モトイは恐怖心を振り払うように声を張り上げた。
リツが呆れたように息を吐いて、一度首を竦めると踵を返した。また来るとだけ残して、金も置かずに事務所の戸を潜って行く。
リツの軽薄そうな背中が薄い戸の向こうに消えるのと同時に、モトイの緩めた腕の中で安里が倒れこむように膝を折った。予想はしていた。易々と抱き留める。安里の身体は冷え切っていた。いつもと同じだけど。
「安里」
モトイの足元に弁当は転がったままだ。
昨夜、弁当をリクエストした時におかずの指定までした。玉子焼きは今ごろ形をひしゃげてしまっているだろう。
「あいつ、アンタの何なの」
安里の呼吸が徐々に収まっていく。しかし安里は、目を爛々と見開いたまま虚空から目を逸らさなかった。
安里の目に何が映っているのか、モトイには判らない。
「何でもありません。――関係の無い人です」
安里は掠れた声で呟いた。
これ以上、何を聞いても同じことしか繰り返さないだろう。安里はテープに吹き込まれたことしか再生できない人形のようなものだから。