宵闇の狼(3)
弁当を作って欲しいと頼んだのはモトイだった。
その日は、茅島が事務所にいないことが事前に判っていて、留守番を言いつけられていた。
留守番は得意だ。柳沼がいた頃から。
昼間は事務所で留守番し、夜は柳沼の家で留守番をしていた。
留守番は、帰ってくる人間がいなくては成立しない。待つことが、留守番だ。いつか帰ってくることが判っているなら、モトイは何時間でも何日でも待っていることができた。だから柳沼に犬のようだなどと揶揄されたのだが、それも悪い気はしなかった。
自分に役割を与えられることも、信頼して待たされることも嬉しかった。それは柳沼がいなくなった今でも変わらない。
茅島や主な構成員が事務所に帰るまで事務所から出るなと言われてしまったら、弁当を頼むしかない。店屋物を頼んでもいいけど、安里の食事も嫌いじゃない。
それに、安里はモトイが頼んだことを断るようなことはしなかった。安里が何を思ってモトイと一緒にいるのか、モトイには判らないが。
世間的には、今日は休日らしい。
モトイはすることもなく、窓の外の賑やかな往来を眺めていた。
事務所の入ったビルは四階建ての古いものだ。モトイが柳沼に拾われてきた時には既に薄汚れていた。他の事務所は建て直しもしているのに、どうしてうちだけ、と茅島に尋ねたことがあるが、茅島はこの汚い事務所が気に入っているようだった。
モトイも今となっては、気に入っている。
あれから事務所の机の配置を変えはしたけど、今でも柳沼が座っていた場所を振り返る癖が抜けない。モトイが黙って静かに留守番をしていれば、いつか柳沼が帰ってきてくれるのじゃないかと思ってしまう。
モトイはいつも、往来に向けて開いた大きな窓から身を乗り出すようにして柳沼が帰ってくるのを待っていた。
車を運転しない柳沼がタクシーを降り、ビルのエントランスに入るまでの数分の様子を見て、柳沼が今どういう状態か――機嫌が良いのか悪いのか、つまり薬が切れている状態かハイな状態なのか、推し量った。
そんな他愛もない思い出に浸っていると、ビルの扉を潜る人影があった。
下の階に入っているテナントの人間じゃない。見覚えのある風体だった。何よりも、腕に包帯を巻いていた。
モトイは窓を閉めて事務所の戸を振り返った。
茅島が帰ってくる予定の時間まで、まだ三時間もある。無下に追い返すしかないだろう。
窓に背を向けてモトイが来客の到着を待っていると、やがて扉の向こうでエレベータの止まる音がした。鈍い低音が、古ぼけた鉄製の自動扉を開いた音を告げる。エレベータから二歩、三歩。ノックの音がした。
「どーぞ」
昔のような狂犬じみた真似はしない。留守番と評するに値するだけの働きをすることは出来るようになった。
「すいませーん、茅英組ってこちらでいいんでしょうか」
緊張感の欠片もない声で尋ねながら扉を押し開いたのは、いつか駅前で話をつけた、リツだった。
わざとらしく包帯を巻いているのは交渉術の内かも知れない。素人が精一杯考えでもしたのか。悪くない作戦だ。
リツは首を竦めて覗き込んだ室内が静かなのをみると、恐る恐る室内を見渡した。恐縮ぶっているのは演技だろう。あるいは演技だと見せかけて余裕ぶっている風にも感じる。
「あ」
程なくしてモトイの姿を見止めると、リツはまるで知らない土地で気の置けない友人でも見つけたかのような笑い顔を浮かべた。屈託がないとも取れるが、調子のいい男だ。
たいていこういう男は暴力団の傍で手を擦り、おこぼれに預かるしか縁のない人生だろう。モトイのようなチンピラにもなれない。
「こないだはどーも。おにーさんの言う通り、みかじめ料を納めに来たんだけど。組長さんいる?」
薄く開いて顔だけ出していた扉を大きく開くと、リツは一気に警戒を解いた様子で笑った。頬にも大きな絆創膏が貼られている。
「茅島さんは今出かけてる。金だけ置いてって」
モトイは窓際から動かずに、入り口に一番近い机の上を指した。
茅島に会わせたところで、モトイの振るった暴力の分を配慮するはずはない。そんなことをするくらいなら、端からモトイをそういう遣いに寄越さない。
「組長さんにちゃんと話を通せって言ったのはおにーさんでしょ? 俺は金を納める相手の顔くらい見ときたいんだけど?」
リツは笑顔を崩さない。もしかしたらそれが素の表情なのかも知れない。だとしたら、今までの人生で苦労も多かっただろう。あまりそういう表情を快く思わない人間も多い。
「じゃあ今日は金だけ置いて、出直して」
金を置いていかなければ、モトイは追いかけてリツの懐から有り金を全て毟り取る準備があった。暴力団事務所を訪ねて、すいません今出てます、じゃあまた後日、じゃ済まない。
きっと柳沼ならそうするだろう。
「んー、……じゃあ、帰ってくるまで待たせて」
天井を仰いで逡巡していたかと思うと、リツは名案だとばかり手を打った。包帯で吊った腕が大した怪我じゃないことを隠そうともしてない仕種だ。
「は? 何言ってんの。駄目だよ。帰れ。金置いて」
「いいじゃん、おにーさんも一人でお留守番なんでしょ。話相手になるよ。……あ、それとも一発ヤっとく? お金はもらうけど」
言うなり、勝手に事務所の戸を潜ってきたリツの背後で、エレベータが再び開いた。
ゴウンという低い機械音に、リツが振り返る。モトイは事務所の壁にかかったデジタル時計を見上げた。正午五分前。
訪ねてきたのは安里だった。
「あれ、お客さんだ」
扉を開いたままのリツが最初に口を開いた。安里を振り返ったリツの顔は、モトイからは見えない。
しかし、エレベータを降りた安里の顔はよく見えた。
目を瞠り、色味のない唇を薄く開いて息を飲んでいる。モトイが今まで見たことがない安里の表情だ。
「……っ! 藤、」
安里の微かな声が聞こえた。と同時に、安里が手に下げていたモトイの弁当が床の上に落ちた。耳に刺さるような音をたてて。