荒野の野良犬(9)
宇佐美の携帯電話の留守番電話サービスにツバメが心配していた旨を残して食事を摂りに出掛けた柳沼のもとに、ツバメから二度目の電話がかかってきたのは夜九時を過ぎた頃だった。
暇潰しに広げていた教科書の数式を眺めていた柳沼の胸のポケットで鳴り響いた携帯電話を取り出すと、今度は液晶画面を確認して、辟易した。
四回、五回とコールをやり過ごしていても通話は切れそうな気配がない。
宇佐美のことだから留守番電話を聞いたら内藤やツバメよりは先に柳沼に連絡をしてくるだろう。その連絡がないということは、宇佐美はまだ予備校か、あるいはどこかの女の子と遊んででもいるのかもしれない。
その面倒が全て柳沼に回ってくるというのは、実際、損な役回りだ。
柳沼は一向に諦めない呼び出し音に大きく溜息を吐いてから通話ボタンを押した。
「はい」
耳から遠い位置に構えた電話機の向こうは、意外と静かだった。
柳沼が応えるより先に飛び掛ってくるようなツバメの声もない。
「――もしもし」
柳沼は、携帯電話を持ち直すと、耳を澄ませた。
ツバメの呼吸が微かに聞こえた。震えている。泣いているようでもある。
『ヤギー』
ようやく、ツバメのか細い声が電話の向こう側から響いてきた。鼻にかかっている。やはり、泣いているのか。
柳沼は高校生や大学生が口々に騒ぎ立てるファストフード店のざわめきが耳障りに思えて、トレイをそのままに席を立ち上がった。
「宇佐美は見つかりましたか」
電話口で声を潜める。
店を出ても、繁華街の往来にまだ人は多い。車のパッシングも聞こえるし、飲み屋帰りのサラリーマンが好い気分で笑い声をあげている。柳沼は細い裏路地に足を向けた。
『うん……』
ネオンも届かないような薄暗い湿った裏道を、進んでいく。意識は耳元で消えかかった灯火のように揺れるツバメの声に集中していたが、この道を進んでいけば駅に辿り着くことも判っていた。
「今どこですか」
問いながら、自分でも宇佐美の居場所を尋ねているのかツバメの居場所を尋ねているのか判然としない。額に汗が滲む。しかし、頭は急激に冷えていくように感じる。
『ないとーちゃんの、店』
「内藤さんはいますか」
足早に進んだ路地を抜けると、また騒がしい駅前に出た。その瞬間、電話口のツバメの声が遠ざかり、内藤の狼狽した声が聞こえた。
『柳沼か』
何が起こっているのか知りたかった。聞かなくても恐らく、良くないことなのだろうということは判る。あの店の音楽が絶えるところを、柳沼は知らない。夜九時からなんて、一番の稼ぎ時だ。ろくでもないことが起きているのに違いない。
『宇佐美が襲われた』
柳沼の問いかけを待たず、これも初めて聞くような神妙な声で、内藤は言った。
内藤の店に、人はまばらだった。
どれも見知った顔だけで、柳沼が顔を見せるとどれも顔を顰めて小さく肯いた。
停止ボタンがないのではないかと思うほど常に垂れ流されていた音楽は消え、代わりに薄暗い照明が店のフロアを照らしていた。
人がいなくて明かりをつけていると、店の汚さが際立って見えた。店舗というよりは、くたびれた倉庫のようだ。
その中央に置かれた椅子に、宇佐美は座っていた。
「悪い」
店内の誰もが暗い表情を伏せる中で、宇佐美は苦笑を浮かべて柳沼を見た。意識もしっかりしているし、自分でも下手を打った、と思っているようだった。
ただ制服を脱いだ胸の上に真っ白な包帯が巻かれている。
内藤の話では、八時半過ぎにようやく連絡がついた時、宇佐美はちょうど病院を出たところだったらしい。
昨夜宇佐美が一人で店を出てから間もなく襲撃され、ほぼ丸一日、検査入院を強いられていたという。
「大事はないんだ、派手に骨折しているだけでね」
無言で歩み寄った柳沼に、それでもさすがに表情を曇らせた宇佐美が胸の上を撫でる。腕にも包帯が巻かれ、指先にも処置が施されている。
「ただ、暫くは家族が外出を許してくれそうもない」
宇佐美が掛けた椅子の傍らには、松葉杖もあった。
ツバメは宇佐美の足下で蹲って、微動だにしない。泣き疲れて眠っているのかと思った。
宇佐美一人が口を開く店内で、柳沼は立ち尽くしていた。
指先までぴりぴりと、微弱な電流でも流されているように痺れている。
「――相手の顔は見たの」
柳沼が声を絞り出すと、ツバメが顔を上げた。
宇佐美の傍に引きずり出してきたカウチの上で胡坐をかいていた内藤も、柳沼を仰ぎ見た。
「ずっとうちに楯突いてたチームの人間みたいだな、松佳一家がバックに付くって聞いて、今の内に潰しとこうって魂胆だろう」
内藤は宇佐美の痛々しい様子を横目に見ながら唇を噛むと、そう言ったきり深く項垂れた。犠牲になった宇佐美に頭を下げているつもりなのかもしれない。
「警察には?」
胸が高鳴っていた。
緊張しているのか興奮しているのか、自分でも判らない。
柳沼はやけに冷えた指先を掌に握りこむと、じっとりと汗ばんでいることに気付いた。
「まだ。……そっちから追い詰めるのか?」
宇佐美の表情から笑みが消えた。眸を細めて、柳沼を試すように見つめている。
「警察なんかに任せられるか! 俺たちで直接ぶちのめしに行こうぜ」
内藤の背後で息を潜めていた長身の青年たちが数人、立ち上がった。血気盛んを絵に描いたようだ。手には思い思いの武器を持っている。内藤も同じ意見なのだろう、彼らを諌めるでもなく、柳沼の言葉を待つように視線を上げる。
宇佐美が内藤との付き合いを隠したまま警察に被害届けを出すことはできないだろう。親や学校に宇佐美の素行が露見するのはまったく賢くない。
かといって、内藤との繋がりを隠したまま被害届けを出すことなんて愚の骨頂だ。何にしろ実行犯が逮捕されれば明らかになることだ。
じゃあ内藤たちの言う通り、実力行使に出るのが得策かといえば、柳沼にはそうとも思えない。相手は、力のない宇佐美をわざわざ狙ってきているのだ。内藤たちの反撃を誘ってるに過ぎない可能性がある。
柳沼は、宇佐美の訝しげな視線を見返した。
唇には自然と、笑みが浮かんでいる。
「宇佐美」
額に浮かんだ汗は、興奮の現れかも知れない。
要するにこれは、この街をゲーム盤に見立てた陣取り合戦なのだろう。
「僕はあまり友人思いとは言えないかも知れないよ」
宇佐美のために復讐をしてやろうという気はなかった。
宇佐美は柳沼の言葉を聞くと一度目を瞬かせたあと、小さく肯いて、笑った。