荒野の野良犬(10)




「――さん、……」 
 白い。
 遠くで聞こえる看護士の声に、意識がゆっくりと浮上してくる。
 夢を見ていた。分厚い埃の中に埋もれていた他愛もない記憶だ。
 ヘドロのように体を覆っている倦怠感を掻き分け、石のように強張った目蓋を無理やり押し上げようとする。最初に光が染み込んで来て、その眩さに顔を背けたくなるものの、看護士の声に引き上げられるように視界が戻ってくる。
 戻ってくる。現実に。今、という避けられない時間に。
「……さん……、――小野塚さん!」
 目蓋を開けると、病院の見慣れた天井が飛び込んできた。
 びくん、とベッドの上で全身が緊張して跳ねる。
「お加減いかがですか、バイタル取りますよ」
 若い女性看護士の笑顔が、柳沼の見上げた天井を遮った。
 検温や血圧検査を毎朝のように済ませてくれる看護士たちは、柳沼を恐れる様子など微塵も見せない。柳沼の素性を知らないはずもないのに。薬物中毒の患者を専門に扱う施設でもないし、柳沼の入院手続きはいわくだらけだろう。 
 柳沼が咄嗟に吐いた偽名もそうだ。
 ストレッチャーの微細な振動に双眸を見開いたままの柳沼が、唾液を嚥下することも忘れて呼吸を引き攣らせていた時、看護士に氏名を尋ねられて柳沼は無意識の内に縋っていた。十数年も前の記憶に。
 ――小野塚奏
 そう言って、看護士の腕をきつく握り返した。
 小野塚奏です、震える声で何度も偽名を繰り返した柳沼の姿を、柳沼を入院させた人間はどう見ただろう。
 その場に茅島がいたのかどうか知らない。いなかったとしても、茅島に報告はされているだろう。あるいは小野塚だと呼んでくれているのは看護士の善意で、本当は柳沼の本名も素性も連絡先も何もかも病院には知らされているのか。
 本当は何も知らないのは柳沼一人なんじゃないのか。
 本当は薄い扉一枚隔てた向こうで、世界中の人間が柳沼を嘲笑っているのじゃないか。
 何も知らずに母を信じていた柳沼を。能城に使い捨てられた柳沼を。自分の忠実な犬だと思って飼っていたつもりのモトイに逃げられた柳沼を。
 本当は茅島だって知っていたんじゃないか、柳沼が茅島を裏切るつもりだったことを。宇佐美だって能城と一緒に柳沼をトカゲの尻尾に見立てていたに過ぎないんじゃないか。
 本当は、本当は、本当は、本当は、本当は、本当は、本当は、本当は。
「小野塚さん、大丈夫ですよー。深呼吸しましょうか」
 脈拍を測っていた看護士が、胸を大きく上下させながら呼吸を荒くし始めた柳沼の背中をさすりながらやんわりと告げた。しかし、柳沼が幻覚や妄想の発作で迷惑をかけたことは一度や二度じゃない。看護士の片手はナースコールに伸びている。
 また男性看護士や医者が大挙して押し寄せて、柳沼はベッドに拘束されるのだろう。
 排泄すら自分一人じゃできなくなって、見慣れた白い天井に人の笑う顔がいっぱいに映し出されて顔を覆いたくても叶わないのだ。息ができなくなって体を横臥させてくても、全身に毛虫が這いずり回ってどうしようもない恐怖に襲われても、柳沼は何もできない。
 何もかも、自分のせいだ。どうしてこんな風になってしまったのか判らない。昔は手のかからない子供だと言われていたはずだ。ああ、だから母親が他の男に気を取られるようになったのか。
 何もかも自分のせいだ。
「小野塚さん、深呼吸しましょうねー。一緒に行きますよ、数かぞえますからね」
 にこやかな看護士の表情は強張って、笑っていない。
 肩を押さえようとする看護士の手を、柳沼は振り払った。その瞬間、ナースコールを握る看護士の手がぴくりと震えた。
 そのボタンを押すな、と怒鳴ろうとする喉が詰まった。看護士の手を掴む。
「怜?」
 硬直した世界に声が飛び込んできて、柳沼は汗で濡れた顔を、反射的に上げた。
 柳沼と外界を隔てた扉から、濃い色のスーツを着けた男が覗き込んでいる。
 相変わらず、安穏とした顔だ。
 もう十年以上も会ってないのに、昨日もそうして柳沼を呼んでいたかのような声で言う。
 もうずっと、誰も呼んでいなかった柳沼の本当の名を。