荒野の野良犬(11)
「まずかったかな」
無事に平均的なバイタルを記録した看護士がそそくさと病室を後にすると、小野塚はその扉を振り返りながら首の後ろを掻いた。
柳沼がさっき、急激にかいた汗はすっかり冷えて肌の表面から蒸発していこうとしている。
いつもは発作的に起こる被害妄想が――精神安定剤などで――落ち着いた後は、ひどく体が重くなって自分の体重でベッドが落ち窪みそうな錯覚を覚えるものだが、今日はそれもない。
漠然として倦怠感はあるが、それはまるで寝惚けているのと同程度のものだった。
今までこんな風にとりとめもなくぼんやりしたことはなかった。薬を断って何日経っているのか判らないが、異常な覚醒状態が何年も続いていたつけなのだろうか。
「それにしても驚いたよ、いきなり自分が入院してたから」
ま、いいかと独り言を漏らして柳沼に視線を戻した小野塚が、曇り空知らずの能天気な表情で言った。
「勝手に偽名として使ったことを詫びろというなら撤回するよ、本名は名無しの権兵衛って言うんだ」
本当は唇を動かすのも億劫だ。目蓋は重いし、頭の先まで布団をかぶってしまいたいけど、肩から先が重くて動かない。
「別にいいよ。看護士さんの前で呼びかけるのに難儀するけど」
ヤァ小野塚君、とおどけた様子で柳沼に片手を掲げて笑っている小野塚の様子を、柳沼は薄く開いた眸で一瞥した。
また来るつもりなのか、と呆れた声で返してやりたいところだけど、本当に体が辛い。腹の奥底に深い深い穴がぽっかり口を開けていて、その闇にずるずると引きずり込まれていくようだ。抗う力もない。
「――……何で、こんなところにいるの」
掠れた声を発するので精一杯だった。雑音の混じった吐息のような小さな声で問いかけて、目蓋を閉じる。小野塚には聞こえなかったかもしれない。あるいは聞こえていたとしても、その返事を聞くのが先か、柳沼が眠ってしまうのが先かわからない。
眠ったらまた、あの旧い夢の続きを見させられるのだろうか。
死んでいく人間が見る走馬灯というというのはこんな感じなのか。
「ニュース見てない? うちの先生がこの病院に入院してるんだよ。……玲、眠いの」
閉じた目蓋の向こう側で、小野塚の声がする。
まるで雲の上にいるかのようだ。いつも晴れていて、雨も曇りもない。ぽかぽかと暢気に暖かいばかり。例えば天国なんていう場所があったとしたら、そこはきっと雲の上にあるんだろう。
常に曇を纏って雨雫をいっぱいに溜めたままの柳沼の頭上から、小野塚の声が降ってくる。
「今、父の元を離れて別の先生のところで秘書をしてるんだよ」
それは、今汚職事件から逃げるために入院してる議員のことじゃないのか。そう尋ねたくても、柳沼はもはや倦怠感という深い穴の中から指先を覗かせているに過ぎない。小野塚の声は聞こえてくるが、返事もできない。
「玲は? 元気だった? ……元気だったらこんなところにいないか」
病室に何か物音が響いた。それが、小野塚が椅子を引いた音だと気付くまで少しの時間を要した。
ベッドサイドに椅子を引いたのだろう小野塚が腰を下ろしたのは、微かに椅子の足が軋む音で判った。
「――……元気だったよ」
無理やり、半ば意地で乾いた唇を抉じ開けると、柳沼は嗄れた声で答えた。
元気だった。元気過ぎたくらいだ。一週間に一睡もしなくても平気だった。頭もよく回った。時には声をあげて大笑いした時もあった。薬が効いている間は元気だった。自分が望まないほどに、元気だった。
「そう」
小野塚は何も言わずに、小さく微笑んだようだった。
冷え冷えとしていた白い部屋の空気が、変わったようだ。他人の息吹がある、それだけで。
小野塚は、暫くお互いの居場所も知らなかったこの十数年の間のことを何も尋ねようとはしなかった。何も知らないはずなのに、まるで全てを知っているように感じる。知っていて、訊かないでいるような気がする。
どうしてそう感じるのかは知らない。
最後に会ったのはいつだったか。
思い出そうとする内に、柳沼は再び眠りに吸い込まれていった。