荒野の野良犬(12)
「こんばんは」
内藤の店と同様、静まり返った雑居ビルの一室は廃墟のようだった。
一等地とは言えなくても、首都圏の繁華街に面した良い場所だというのに、テナントもまばらだ。内藤に案内されて覗き込んだ三階建ての建物には、明かりもなかった。
時間は二十三時過ぎ。柳沼や宇佐美のような優等生ならまだしも、気に入らない組織の人間を暴力でどうこうするような類の輩がこんな時間にもう寝静まってしまったなんて考えられない。
「失礼します」
柳沼は、暗いビルの中に声を響かせながら足を一歩、踏み入れた。背後では内藤が気を張っているのが判る。できれば内藤を連れて来たくはなかったが、仕方がない。
警察に連絡をしないのならば実力行使、そうじゃないなら松佳一家の若頭に話をつけると息巻いた内藤を諌めるので相当な時間を要した。
こんな他愛もない戯れ合いに、暴力団にしろ警察にしろプロの人間を巻き込むなんて、馬鹿な子供の行いだ。自分たちは確かに子供かもしれないが、大人に迷惑をかけてばかりいればいつかは面倒を見てもらえなくなることも知っている。
大人なんてものは、子供が好き勝手に遊んでいるのを見るのが好きな生き物なんだから。
「どなたかいらっしゃいますか」
小さな会社のオフィスでも入っていたのかもしれない。一階ワンフロアで構成されたビルの机や棚の撤去された痕が新しい室内を進んでいくと、上階から明かりが漏れた。
内藤が緊張したのが判った。
「誰だ?」
明かりの中に影が伸びる。ここはリーダーが寝泊りする場所でもあるのかもしれない。声の様子からすると、内藤よりも年上のように感じる。
「勝手に上がってすみません、柳沼といいます」
柳沼はそれ以上階段に近付くのを止めて、内藤の前進も制した。相手がここまで降りて来るのを待ちたい。
こんな時間に就寝することなんて考えられない。罠を張っているか、あるいは女性とベッドの中にいたかのどちらかだ。どちらにしても、迂闊に近付いてはいけない。
「――こちらの人間に暴行された、宇佐美という男の友人です」
乾いた足音が近付いてくる。衣擦れの音。
間を置かず、剥き出しの階段に男が姿を現した。痩せているようだが、全身はびっしりと薄付きの筋肉に覆われている。羽織っただけのシャツから胸板が見えたおかげでそれが判った。
「暴行?」
濡れた髪を後ろに撫で付けながら、顎髭を蓄えた男は暗がりの柳沼を睨めつけた。
松佳一家の若頭が内藤とこの男を天秤にかけて内藤を飼うことを選んだのだとしたら、それは正しい。内藤は気の良い、単純な男だ。暴力団の人間からしてみたら御しやすいだろう。
「ええ、高校生の男を数人で寄ってたかって暴行したでしょう? 肋骨が二本、右手の中指が一本、骨折しました。爪もほとんど剥ぎ取られている」
階段を下りた男がゆっくりと、柳沼の場所まで歩み寄って来る。
内藤が姿勢を低くするのが判った。この建物は静かだ。内藤の息を詰める気配すらよく聞こえる。恐らく相手にも。内藤が宇佐美を傷つけられたことで報復だと怒ってくれるのは、いかにも内藤らしいし、有難いことだ。
内藤のチームと牽制しあっているというから同レベル程度なのかと思っていたが、なかなかどうしてこちらの方がよほど暴力団然としている。だから暴力団に囲ってもらえないのだろう。
そんな人間と対峙してなお、微笑すら浮かんできそうな柳沼はやはり、友達甲斐がないのだろう。
「もし、うちの人間がそれをしたのだとして――」
男が、芝居かかった口調で言って、片腕を広げた。内藤がじりっと足の裏の砂利を鳴らした。
「一体何の用かな? 慰謝料の請求、それとも謝罪をしろって?」
君も高校生でしょう、と鼻先で笑った男の目は少しも揺らぐことなく柳沼を見据えている。笑いもしないし、身構えた内藤を見ようともしない。
「いいえ、どちらでもありません」
柳沼は、背後で手を組んだ。胸を張って、顎先を上げる。男を見下すように見返す。
男の双眸が細くなった。微笑んだように見える。
「交渉をしに来たんです」
「交渉?」
初めて男の視線が、柳沼の背後の内藤に向けられた。柳沼を前に立てて背後で息を殺している内藤を、わざとらしく覗き込む。内藤と男の間には当然、それなりに面識はあるのだろう。しかし内藤は柳沼が事前にお願いしたように、何も言おうとしない。
「あなた方が宇佐美を狙った理由は、宇佐美が内藤さんの店に出入りしているのを見かけたからだ、違いますか?」
男は何も答えない。それでいい。肯定も否定もしないのが、賢い人間のやり方だ。
「あなた方が内藤さんの組織の人を激昂させたいのは、この陣取り合戦を自分たちの有利なように進めたいからですね」
「陣取り合戦」
男は柳沼の話を面白く聞くように胸の前で腕を組み、目を瞬かせた。はは、と短い笑い声が建物に響く。柳沼もそれに合わせて、肩を少し揺らして笑った。
「すみません、まるで陣取り合戦だなと思ったもので」
笑いを零しながら対話する二人の背後では、内藤がまだ息を詰めていた。小太りな内藤のこめかみに汗が滲んでいる。緊張しているのだろう。それくらい、ここは静かだった。内藤の緊張を和らげるためにも、柳沼は間を置かずに話を進めた。
「内藤さんに暴力団が加担することで、この街を舞台にした陣取り合戦のバランスが崩れることを、あなたは恐れているんじゃないですか?」
今の勢力状態は柳沼でもなんとなく判っているつもりだ。でもこの地域を治めている暴力団の息が直接かかっている人間が威張り始めたら、太刀打ちできないと――そう思う気持ちは理解できる。焦りや恐怖の類だ。
いくら柳沼の前で悠然と構えていても、この男はその程度の男だ。そう思えば、笑みも浮かんでくる。
「そこで、取引をしませんか」
柳沼が後ろ手に組んだ手を広げて掌を打つと、男の肩がぴくりと跳ねた。
やはり緊張している。
柳沼は深く微笑を浮かべた。
「あなた方の望む物を一つ、内藤さんに用意させてください。あなたの望みを叶えましょう」
金でも命でも、何でも。
合わせた掌を広げ、闇の商人よろしく首を傾げて微笑んだ柳沼の様子に、男は多少怯んだようだった。いつしか男の額にも汗が滲んでいるようだ。
「その代わり、あなた方は内藤さんのチームの一員になってもらいます。……陣取り合戦はおしまいだ」
男の眸を見据えた。
柳沼に気圧されたようだった男の視線が一度振れた後、ぴたりと止まった。腹が決まった人間の反応を初めて間近に見た。
「馬鹿を言うなよ、坊ちゃん」
短く、男が笑い声を吐き出す。
階段に落ちた明かりに、影が過ぎった。柳沼がそれに気付くのと同時に、内藤が柳沼の前に飛び出してきた。上階から男のチームの若い人間が転がるように降りてくる。手には各々の武器を握って。
「学校の勉強じゃないんだ、それぞれの望むものを手にしてめでたしめでたし――なんて、現実はお利巧にできてない。美味しいお菓子が二つあったら、どんな手段を使ってでも二つとも独り占めする、それが現実の人間ってやつだよ」
判ったか、と男が口にした瞬間、柳沼を背後に庇った内藤に向かって派手な出で立ちの男たちが一斉に飛び掛ってきた。静寂に包まれていた室内が、怒号でいっぱいになった。
「そうでしょうね」
柳沼は内藤の頭上に一撃目の金属バットが振り下ろされる前に、大きな溜息を吐いた。
柳沼に手を伸ばしている人間もいた。しかし、その指先が柳沼の服に辿り付く前に、つんざくような悲鳴と同時にその場に崩れ落ちた。
「ヤギーを苛めちゃダメ!」
振り向くと、漫画に出てくるような大量に釘の刺さったバットを両手で握り締めたツバメがいた。
「――できれば誰だって、美味しいお菓子は独り占めしたいものです。だけどそれじゃあまりにもあなた方が可哀想だから少し分けてあげようと思ったんですけどね」
ツバメに先陣をきられた内藤のチームの人間が、続々と入り口に集まってきた。辺りの窓から表を覗いた人間なら、この建物全体が内藤の息のかかった人間に包囲されていることに気付いただろう。
二階の窓が締められていることは既にリサーチ済だ。
柳沼は、血に濡れたバットを手に腕に纏わりついてくるツバメに苦笑を漏らして見せてから、男に視線を戻した。
「たった一欠けらのお菓子さえ要らないというなら、仕方がありません」
暗夜の廃ビルに、怒号が響き渡った。
柳沼はツバメに腕を引かれて建物を後にすると、家路につきながら宇佐美に報告のメールを打って、長い夜を終えた。