荒野の野良犬(13)
翌日から宇佐美は風邪という理由で学校を休んだ。
風邪だというのは宇佐美の親の勝手な判断だろう。包帯が取れるまで何ヶ月もの間、風邪だという理由で休んでいられるわけでもない。その場凌ぎの下らない嘘だ。
宇佐美はめったに家族の話をしなかったが、一度だけ聞いた限りではひどく一般的な家庭のようだった。父親は地元の企業の課長クラス、母親は週に三日パートタイムに出ていて、子供は宇佐美一人。
どうして自分みたいな子供が育ったのか、自分にも判らないよ、と宇佐美自身が言っていた。
それは宇佐美の優秀な頭脳をさしての言葉だったのか、それとも清潔そうな笑顔で他人を欺く裏の顔をさして言ったのかは判らない。
先日の出来事に対する宇佐美からの返信は数日経った今になってもまだない。指先まで傷を負っていたせいで返信するのが億劫なのか、それとも親から過剰に見張られているのだろうか。
柳沼には「一般的な両親」が、子供の有事にどんな風に心配してどんな風に対策を打つものなのかは判らない。
とりあえずは宇佐美が利巧なおかげで警察沙汰にはなっていないようだ。学校はいつも通り平穏で、退屈だ。
その時は微塵も感じなかったが、ぬるま湯のような日常生活に戻った今、あの夜のことはひどく心満ちる時間だったように感じる。
背中で感じた内藤の緊張感も、対峙した男の心の揺れも、息を殺した内藤の仲間も敵対する組織の人間も、火花を落とせば一瞬で燃え上がる濃密なガスの中に身を潜めていたようなものだ。
柳沼はあの建物にどんどんガスを充満させる遊びをしていただけだ。
被害に遭った宇佐美にはとてもこんなことを言えたものではないが、その状況を作り出してくれたことに感謝したいくらいだ。
もしあれが、こんなぬるま湯の世界から見た「裏社会」の楽しみ方なのだとしたら、それも悪いものではないかもしれない。少なくとも机上に広げたノートの中に納まる数式よりは面白い。
しかし宇佐美はこれで懲り懲りだとでも言うだろうか。
宇佐美も柳沼も、暴力にはあまりなじみがない。できればあまり被りたくないものだ。裏の世界に関わることで自分がその対象になることを想定していなかったわけではないけど、やはり望ましくはない。親の規制が厳しくなってしまうほどの大怪我ならなおさらだ。
柳沼は返信のない携帯電話を溜息とともにポケットに詰め込むと、珍しく一人の帰路についた。
思えば小学生の頃に小野塚と離れ離れになってから、柳沼には友達などいなかった。望まなかった。
宇佐美だって友達と呼べるのかどうかは判らない。ただ、間近で観察したいと思える相手、それだけだ。
柳沼が見たいと思える世界へ一緒に向かっているから、同行している。宇佐美が今回のことでそれを降りるなら、仕方がないか。
「柳沼」
駅に向かう道の途中で、内藤の声がして振り返った。
大きな黒塗りの外国車の前で、いつものずんぐりむっくりとした内藤が手を掲げている。まさかまた宝くじでも当たって、高級外車を買いでもしたのか。それにしては、笑顔が強張っている。
柳沼は周囲に同級生の姿がないか一応確認してから踵を返して、路肩に堂々と停車した大きな車に近付いた。
ロールスロイスだ。年代ものだが、傷一つなく研きこまれている。ウインドウは全てスモークが張られていて、そこにも指紋一つない。
柳沼が怪訝な視線を向けるより先に、内藤が口を開いた。
「柳沼に会いたいっていう人を連れてきた」
そう言った内藤の傍らには、ツバメの姿はない。いつも一緒にいるような印象があったし、驕っているわけではないが柳沼に用事があるといって来るなら、ツバメが黙っていないような気がする。助けてくれた礼の一つでも言いたかったのに。
「この間の話をしたらすごく興味を持ってくれてな」
内藤の言葉に重なるように運転席の扉が開いたかと思うと、ひどく目つきの悪い痩せぎすの男が降りてきた。目がぎょろぎょろとぎらついていて、柳沼に向けられた視線もあまり好意的とは思えなかった。
高級外車に似つかわしくないラフなジャージ姿で現れた男は、歩道に面した後部座席に回りこむと黙ってそのノブを引いた。
内藤が一歩退く。
真っ先に目に飛び込んできたのは、これもよく研きこまれた革靴だった。
細身のスーツを纏った足がシートを滑り降りてきて、姿を現したのはやたらと長身な、あまり顔色のいいとは思えない男だった。
「堂上会系松佳一家若頭の、能城さんだ」
何故か内藤が誇らしげに胸を張って、上品そうなスーツを着込んだ男を紹介した。
能城という男はどこか卑屈そうな顔つきで値踏みするように柳沼を見たかと思うと、すぐに細い眦を吊り上げて笑った。
「内藤から話は聞いたよ。君が柳沼くんか。なかなかの弁士だってね」
日本人離れした長い腕を伸ばして、能城は気さくに握手を求めてきた。妙な芳香がする。柳沼は内藤を見た。得意げな顔だ。
この場に宇佐美がいれば喜んだのかもしれない。しかし柳沼には正直、暴力団と接触することにたいした意味を見出せなかった。ただ、嫌悪感があるわけじゃない。どうでもいいだけだ。
「いいえ、大したことはありませんよ」
柳沼は逡巡の後、能城の手を握り返した。骨ばって、乾いた掌だった。
「私も自分で拳を振り回すよりはコッチで勝負する方でね。君とは良い仲間になれると思うんだ」
左手の中指で自らのこめかみを指して見せた能城のポーズは作り物めいていて、古いドラマの二枚目俳優のようだった。笑わせようとしているのかと一瞬思ったが、そうじゃないらしい。
「内藤が我々松佳一家の傘下に入ったことをまだお祝いしていなかったから、今日はこれから私がご馳走しようと思ってね。君も良かったら来てくれないか」
握り返した手を引こうとすると、ぐっと能城に引き返された。
「チームのやつらももう全員集まってるんだ、宇佐美も来れたら良かったんだがな」
能城の傍らに立っていた運転手の男に促された内藤は、すっかり良い気分でロールスロイスに乗り込んでしまった。ツバメも先に行っているのだろうか。
柳沼は広い後部座席に姿を消した内藤から能城に視線を戻した。
まだ手は硬く握られたままだ。まるで、強制されているようだ。
「――判りました、お邪魔させていただきます」
柳沼がそう言って首を縦に振るまで、能城は柳沼の手を掴んだままだった。