荒野の野良犬(14)
いわゆる高級クラブの部類に入るのだろう。アンティーク調にデザインされた白い扉を潜ると、そこにはいつも内藤の薄汚れた店で見知った面々が勢ぞろいしていた。
豪奢な内装には不釣合いなほど声を張り上げて盛り上がり、すっかり出来上がっている。
無表情で深々と頭を下げたボーイの姿を振り返った柳沼が再度店内に視線を戻すと、前に立った能城がこちらを見ていた。内藤は既に仲間たちに混じっている。
「今日は貸切だ。君も充分羽目を外しなさい。――もちろんいつもはこんなに賑やかな店ではないんだけどね。静かな方が良かったら、是非また来るといい」
妙に高い声で言った能城の口振りからは、この店が能城の物であることが窺えた。
広い店内を入り口付近から一望すると、身分不相応な高級クラブ遊びに大きな声を張り上げ、酒を浴び楽しんでいる内藤の仲間と、その傍らについた女性コンパニオン以外、ボーイや経営者の面々は一様に強張った面持ちをしている。
「こんな若い男の子もいるんだ」
入り口に立ち尽くしたままの柳沼を所在無さ気だと思ったのか、顔の小さい女性が長いドレスの裾を揺らしながら歩み寄ってきた。
頬に影が落ちるほど睫を長くし、艶やかな唇は常に微笑んでいるように口角が上がっている。高く結い上げた髪は美しくまとめられて、ドレスから露出した肌のそこかしこが――化粧のせいだろう――輝いていた。
「今夜は能城さんの御計らいで、無礼講なんだって。こっちに来て一緒に飲みましょうよ。お酒、飲んだことある?」
鈴を転がすように小さく笑ったコンパニオンが、蝶のモチーフのあしらわれた長い爪を柳沼の制服に絡ませようとした。
「ッ!」
むせ返るような女の匂い。そう感じた瞬間、反射的に身を引いていた。
店内は異常なほど気分を良くしている面々が、普段ならそんなことさせるはずのないコンパニオンの胸に顔を埋めんばかりに密着している。
柳沼の反応に目を瞠った女性を尻目に、もう一度店内に視線を走らせる。ツバメの姿はおろか、何人かはいたはずの女性メンバーの顔が一つも見当たらない。
「女の子は別のところで遊んでもらってるよ」
柳沼の様子に唇を押さえた能城が口を挟んだ。まるで柳沼の考えていることを全部見透かしているとでも言いたげな嫌らしい表情だった。
「女の子はこんなクラブで遊んでいても楽しくないだろう? 男性従業員の多い店のほうに行ってもらってるよ。そっちの方は残念ながら、貸切というわけにもいかないけどね。その方が君たちも安心だろう?」
一瞬、能城の言葉の意味をはかりかねた。
しかし、高級なコンパニオンに対して痴漢行為を働いている目の前の面々を見て納得した。
他の女性人はともかく、ツバメがホスト遊びを楽しむのかどうかは甚だ疑問だが、それは柳沼自身にも言えることだった。女性に囲まれて楽しいと思うことなんてない。
「柳沼くんはこういう遊びは苦手かな? それじゃあ、カウンターに来て私と一緒に飲もうじゃないか。ちょうど良かったよ、私は今夜、君と話したかったんだ」
能城はこの店の女と寝ようと思えばいつでも自分の自由にできるのだろう。今更構うこともないのかもしれない。柳沼に合わせるようにそう言って、柳沼の傍らで待っていた女性の肩を突き飛ばすようにして退かすとカウンター席に足を向けた。
「飲み物は?」
貧弱な体をスツールに滑らせた柳沼に促されて、柳沼は何でも良いと答えた。
こんな商売は駅から遠くてはやっていけない。帰りたくなったら一人で帰れるだろう。内藤があんなに喜んでいるんだ、酒の一杯くらい応じなければ失礼になる。
内藤には世話になっている。内藤がいなければこんな世界を垣間見ることもできなかったし、飲食の類もずっとご馳走になってばかりだ。こんな柳沼でも、仲間だと言ってくれる。
革張りのシートの上でコンパニオンと戯れ合っている内藤の姿を一瞥してから、柳沼は能城の隣に腰掛けた。
すぐに香りの良いブランデーが出てきた。
「あの街で敵対していた組織を潰したんだってね。実質、これからあの周辺を管理していくのは君たちか」
柳沼がグラスを取ると、それに合わせるようにグラスを傾けた能城は突然切り出した。
「それも、松佳一家さんの看板を借りた上で、になるんでしょうけど」
今回だって、その後ろ盾があるという気負いがなければ内藤はまず話し合いだと言い出したかもしれない。あの街は二つの組織の均衡で成り立ってたのだ。松佳一家のことがなければ相手も不必要にちょっかいを出してくることはなかっただろうし、内藤だって反射的に応じることはなかった。
こんな風になったことが良いことなのかどうかは、柳沼には判らない。ただ、内藤は喜んでいる。宇佐美も――今はどうか知らないが――喜んでいた。
「うちの看板を広げてくれた、とも言える」
能城はわざわざ言葉を区切りながら、柳沼の反応を見ているようだった。ブランデーを飲む振りをしながら。
柳沼の弁が立つと期待しているから、反応を探っているのか。柳沼は心中で首を竦めた。
「そういう考え方もできますね。何にせよ松佳一家さんの名前に傷を付けることにならなくて良かった」
柳沼がそう言ってブランデーを口にした時、隣で能城が葉巻の口を切った。
能城の妙な芳香の正体はこれだったようだ。口を噤み、ゆっくりと火を回し付けていくとブランデーの香りも消えるような紫煙が立ち上った。
「私の選択は間違ってなかったってことかな。――もっとも、先に柳沼くんの存在を知っていれば迷うこともなかったんだけどね。内藤は君のことを話してくれなかった」
冗談めかした能城の視線が、店内の内藤に向けられる。ふ、と息を吐いて笑った柳沼の息がグラスの内側を曇らせた。
「今回の褒美に、何かプレゼントをしたいんだけどどうかな。柳沼くんは何がいい」
グラスの中ほどまでブランデーを減らすと、バーテンダーの手が伸びてすぐにそれを新しいものと取り替えてくれた。飲んだ量が判らなくなって、飲みすぎてしまいそうだ。
「褒美なんて。僕は何もしてませんよ」
新しく差し出されたタンブラーは、スノースタイルのカクテルが注がれていた。様子を見て飲み物を変えてくれるつもりなのかもしれない。ブランデーを早々に下げたのは、柳沼のグラスが進まなかったからか。よく訓練された従業員のようだ。
「全員に聞いて回ってるんだよ。例えば美女を思い通りにしたいなら今夜どの娘を連れて帰ってもいいと言ってあるし、うちの組に入りたいなら取り計らうとも言ってある。柳沼くんは女にも興味が薄いようだし、渡世人になりたいとも思ってないだろう」
なるほど、そんなお触れが出ていたのか。
柳沼がカクテルを口にしながら店内を今一度振り返ると、とても高級クラブの光景とは思えなかった。ここにいるコンパニオンたちはいつもこの店で働いている女性たちではなく、今夜だけよそから連れてこられた風俗嬢の類なのかもしれない。
愉快とは思えない光景から目を逸らすようにカウンターへ向き直った柳沼は、タンブラーを呷った。
「僕は別に、内藤さんのチームの一員ってわけじゃない」
だから、褒美を貰う筋合いもない。
そう言いかけて、柳沼はふと可笑しくなった。これじゃまるで、柳沼自身があの男に言ったのと同じだ。
美味しいお菓子の一欠けらも欲しいと言えないようじゃ、いけない。
「だから、褒美は要りません。でももし、能城さんが許してくれるというのなら――今後も、観察を続けさせて欲しい」
口端についた塩の粒を舐めとって、柳沼は空にしたグラスをバーテンダーに押しやった。喉越しの良いソルティドックだった。バーテンダーは黙ってグラスを受け取ると、また同じものを差し出してくれた。
「観察?」
「そう。僕は観察者です。……内藤さんや、できれば能城さんや、この世のあらゆる世界を観察していたい。僕は表の世界の利巧な子にも、裏の世界の戦士にもなりたくない。ただ、眺めていたい」
カクテルを傾けながら、柳沼は珍しく饒舌になっている自分に気付いていた。
酔いが回るには早すぎる。能城がこちらを促すようなテンポで話すせいなのか、それとも背後で見知った顔の乱交が行われていることから顔を背けたいのか知らない。
「でも君は内藤のチームを助けるのに手を貸した。それも中心人物として、だ」
目の前に能城の燻らす葉巻の煙が漂っていく。それを眺めていると、なんだか妙な気分になった。
宇佐美が襲われたあの晩に感じた興奮と似ているようで、少し違う。頭を働かせている気は全くしないのに、体の中が充ち足りてくるような気がする。
能城がそう感じさせてくれているのか。
「観察者としてでも構わない。私が困った時も、同じように力を貸してくれるのかな」
妙に甲高いと思っていた能城の声が、妙に心地よく感じる。
柳沼は、ソルティドックの二杯目を空けてバーテンダーに三杯目を頼んだ。いくらなんでもペースが速いとは自覚していたが、飲めば飲むほど酔いが醒めて、気分が晴れやかになっていくようだ。
背後で聞こえる騒がしい声もまるで自分を鼓舞するBGMのように感じる。
「私は柳沼くん、君と手を組みたいと思ってるんだ」
能城の力強い言葉が、柳沼の心を鷲掴みにした。
気付くと柳沼は、大きく肯いていた。能城は自分を裏切らない男だと感じた。まるで自分の居場所のようだとも。
この時カクテルと一緒に薬物を飲まされていたのだと気付くまで、時間は要さなかった。