荒野の野良犬(15)

 柳沼は能城と週に少なくとも一度、会うようになっていた。
 多い時は一週間の内五日間も一緒に食事をすることもあった。
 冷え切った暗い部屋で一人、味気ない夕食を取ることは柳沼にとって苦痛だった。そんな時、賑やかな音楽の聞こえる能城からの誘いは魅力的としか言い様がない。
 松佳一家の年老いた組長と対峙して食事をすることもあった。組員の面々とも顔見知りになっていた。
 代わりに内藤の店からは足が遠のいた。
 あの高級クラブでの夜の後、どうしても礼が言っておきたくてツバメに会ったが、態度はよそよそしいものだった。ツバメもホストの手練手管に魅せられて、柳沼なんてただ物珍しい高校生でしかなかったと気付いたのだろう。そう言って揶揄ってやろうとすると、ツバメは頑なに自分の肩をきつく抱いて、
「そ、……そんなの知らないよ」
 か細い声でそう言うだけで、すぐに姿を隠してしまった。
 珍しく長袖を着ていたが、季節が巡ったせいだろう。
 柳沼も大学の受験を迎えていたが、不安などなかった。毎晩のように能城に同席していても、彼らと食事をした後は驚くほど頭が冴えて、一睡もしないまま勉強をし続けることができた。集中力も今までにないほど研ぎ澄まされ、今まで漠然と感じていた自分の程度の壁をゆうに越えることができた。
 不思議な気分だった。
 能城と話しているだけで、自分が何でもできるような気がしてくる。母の不貞も、父の傲慢さも許せる。これまで抱えていた胸の痞えが取れていくようだ。
 能城が自信を与えてくれるおかげだと思った。
 こんな年端も行かない高校生を、一人前の男として認めてくれている。自分の配下の組員以上に柳沼の能力をたたえて、でも松佳一家に縛り付けようとはしない。柳沼が観察者でいたいと言った願いを聞き届けてくれているからだろう。
 能城は柳沼と二人になると、よく夢を語ってくれた。
 静かにグラスを傾けながら、聞いているのは無口なバーテンダーだけという落ち着いたバーの片隅で。まるで柳沼は能城の大事な友人でもなれたような気がして誇らしい気分だった。
「男なら誰でも、頂上に立ちたいとは思うものだよ。もちろんそれに至るプロセスはよりスマートでありたいと、私は思うけどね。昭和の暴力団じゃないんだから、流す血は最小限に留めたい」
 カウンターに片肘をつきながら柳沼の顔を覗き込んだ能城の顔は、まるで悪戯を企む少年のようだ。葉巻を咥えているおかげでマフィアのボスの真似にはなっているが。
「僕は頂上には興味はありませんけどね、それ以外には、同意します」
 カクテルグラスのマルガリータを飲み干してから能城の顔をわざとらしく一瞥すると、能城は小さく笑った。
「君は本当に欲のない男だな。一度でも何かを欲しいと熱烈に思ったことはないのかい? 私の欲を少し分けてあげたいくらいだ」
 人生の中で強く望んだこと。
 能城に指摘されて、柳沼は首を捻った。まったくないという訳でもない。こうして観察したいと思うことはあるし、学歴もある程度は必要だと思っている。でもそのどちらも、ほとんど手の中にあるようなものだ。
 知力を身につけるために過去には努力もしたのかもしれないけど、熱烈に欲したかと言われると今一つぴんとこない。
 わざとらしく顎に手を当てて考え込んだ柳沼の仕種を、能城は可笑しそうに眺めている。
 冗談めかして口を噤んだ柳沼の脳裏にふと、――小野塚の顔が過ぎった。
「どうぞ」
 瞬間、その影を掻き消すように三杯目のカクテルグラスが差し出されて柳沼は頭を振るった。
 ただの、気の迷いだ。
「私はね、柳沼くん」
 急に酔いが回ったように眩んだ目元を指先で押さえた柳沼に、たっぷりとした紫煙を吐き出した能城が、うっとりとした目つきで遠くを見た。
 野望を見据える男の姿というのは、間近に見ると羨ましい気さえする。
 観察者であることを決めた柳沼には見ることができない光景を眺めているのかと思うと。能城の視線の先を覗き込めば、柳沼にもそれが見えるのだろうか。夢や、野心や、欲というものを。
「堂上会の六代目になる予定だ」
 能城の甲高い声は、小さく潜めようとすると掠れて聞き取り難くなる。柳沼は目元を押さえていた手を外して能城の声に耳をそばだてると、顎を引いた。
 にわかに喉が渇く。緊張しているのか。自分でも驚いた。
「当然、直参の組長衆は全員そう考えてるだろうね。しかし、なるのは私だ。私が成功するための脚本は既に出来上がっている。読んでみるかい? ……観察者の君なら、読みたくて我慢できないはずだよ」
 まるで暗示でもかけるかのように、能城は滑らかな口振りで柳沼を誘った。
 乾いた唇を、スノースタイルのグラスで潤す。柳沼はゆっくりと深く、微笑んだ。
 柳沼は自分を楽しい気持ちにさせてくれる。いつもそうだ、間違いはない。
「舞台は君が大学を卒業した四年後の春だ。君が大学生活を謳歌している間に私は、松佳一家の組長になっているだろう。それは間違いがない」
 能城の計画が、どんな根拠に基づくものなのかは知らない。松佳一家の組長が変わる時、血が流れるのか流れないのか。能城の口振りでは、根回しは済んでいると言いたげではある。
「松佳一家は柳沼くんも知っている通り堂上会直系のトップだ。会長に何かあれば、繰り上がりで私が組長になることができる」
 何か、に含みを持たせた能城の恍けた様子に、柳沼は寡黙なバーテンダーを盗み見た。表情一つ崩そうとしない。あるいは彼も、能城の計画の一端を担っているのかもしれない。能城の抱える若衆の形態は様々だ。柳沼のように暴力団名簿に名を連ねていない人間でも、能城の仲間内に含まれてしまう。不思議な男だ。
「ただ、会長には一人、秘蔵っ子がいてね。……最近になってその男が組を任されるようになった。実質堂上会の暖簾分けだ。ずっと会長の息子として育てられた男でね――これがどう動くのか、それが私の脚本にはない」
 暴力団のことには詳しくない。しかし能城がどうしてそこで判断を鈍らせるのか、柳沼には判らなかった。
 柳沼を試すように見た能城の眸が、紫煙の向こうで揺れている。柳沼はそれを吹き消すように、小さく息を吐いた。
「どうもこうも、消すしかないのではありませんか」
 空にしたグラスをバーテンダーに押し返す。能城はまだ黙っている。一方的に話していたかと思うと、不意に押し黙ってしまうのだから勝手だ。柳沼に皆まで言わせようというのか。
「能城さんの脚本に書かれていない飛び入り参加の出演者なんて、早々にご退場頂いたら良い。――だから能城さんは、物語の舞台を四年後にしたんでしょう?」
 呆れた表情を作って能城の顔を一瞥すると、細い目をゆっくりと引き上げた能城の笑顔が晴れた。
 狡猾そうな顔だ。事実、観察者でしかなかったはずの柳沼を舞台に上げようというのだから狡猾なのは間違いない。
「その、ゲストの名前は?」
 新しく作られるカクテルのグラスに視線を向けた。能城の顔が映りこんでいる。丸く歪んで、可笑しな顔だった。
「――茅島。茅英組の、茅島大征だ」