荒野の野良犬(8)

 電話の呼び出し音で目が覚めた。
 枕元に放り投げた携帯電話に掌を這わせて探り当てると、液晶画面も確認せずに通話ボタンを押す。
 電話を耳に押し当ててからゆっくり目蓋を開くと窓の外はもう暮れかかっていた。ずいぶん寝すぎてしまったようだ。体が重い。
『もしもし?』
 柳沼が乾いた唇を開く前に、切羽詰った声が耳に飛び込んできた。
『ウサギちゃんから連絡あった?』
 甲高い声はツバメのものだった。だということは、
「ウサギ? ……ああ、宇佐美のことですか」
 柳沼は欠伸を噛み殺しながらベッドの上に身を起こすと、膝を立てて座り、壁に背中を押し付けた。胃の中が空だ。食事を買いに出掛けなくてはいけない。
 誰とも深く交わりたいと思うことはないが、柳沼は食事を摂る時だけ、少し憂鬱な気持ちが過ぎることを自覚していた。母は料理のうまい女だった。それに、食事はいつも柳沼と一緒に食べてくれた。
『ウサギちゃんと連絡が取れないの』
 ツバメの金属的な声が耳に突き刺さる。柳沼は電話機を耳から少し遠ざけると、部屋の時計を見上げた。二人はそんなに毎日連絡を取り合うほど親密な関係だっただろうか。柳沼は知らない。もしそれが宇佐美の裏の顔だったのだとしたら、可笑しすぎる。
「今日僕は学校を休んだもので、宇佐美とは顔も合わせていないんです。……何か大事な用ですか?」 
 気だるい寝起きに、ツバメの声は心地良いものとは思えない。早く電話を打ち切りたかった。ツバメの声は何かに切迫しているように聞こえるが、彼女の服用する薬のせいで何か混乱しているということも有り得る。
 柳沼の唇から、思わず溜息が漏れた。
『今日ないとーちゃんが、ウサギちゃんにも組のこと話したいって言ってて……それでお昼からずっと連絡してるんだけど、全然繋がらなくて』
 ツバメの声こそ慌てている様子だが、電話の向こうの店の様子は至って平常時と変わらないようだ。とはいえ、そこで何らかの会話が囁かれていても大音響の音楽のせいで何も聞こえはしない。
「まだ夕方ですから、学校にいるんでしょう」
 学も職もないツバメや内藤たちとは違う。しかも――宇佐美にしてみたらどうなのかは知らないが――あんなくだらない自慢話で連日呼び出されたら、割に合わない。
「僕からも連絡しておきますから、落ち着いてください」
 柳沼が声を抑えて言い聞かせてもツバメはまだ狼狽した様子で、でも、だって、と続けている。
 こんな風にツバメが心配していたと宇佐美に話したら、宇佐美はどんな顔をするだろう。柳沼だったら苦笑を禁じ得ないようなことでも、宇佐美は軽快に笑い飛ばしてしまうだろう。清潔で爽やかで、後ろ暗いところなど微塵も感じさせないような笑顔で。
「大丈夫ですよ、安心して。……じゃあちょっと、宇佐美に連絡してみますから。切りますね」
 柳沼は落ち着いて、とツバメに繰り返しながら通話を切った。
 ベッドに体を横臥させる。
 宇佐美と小野塚は、似ているようで違う。そう感じるのは柳沼が宇佐美の裏の顔を知っているからだろうか。

 高校二年の修学旅行の夜、就寝時間を過ぎたホテルのロビーで柳沼は宇佐美の姿を見かけた。
 寝間着姿の柳沼と違って、宇佐美は昼間よりずっときちんとした服装をしていて、一見すると高校生には見えないほどだった。
「どこか出かけるの」
 視線があってしまったついでに柳沼が尋ねると、宇佐美は教室で見せるのと変わらない笑顔を浮かべて小さく首を竦めた。
 見つかってしまった、とでも言いたげな仕種に見える。
 それまで宇佐美を優等生の好青年だと思っていた柳沼には、それは意外な行動に思えた。
 この進学校で、修学旅行の夜にホテルを抜け出すようなやんちゃをする生徒がいるとは思わなかったし、それが宇佐美だとも思わなかった。しかも、同級生に見つかっても慌てる素振り見せないというのは、何かこの手の隠し事に慣れているようでもある。
「柳沼も行かない?」
 宇佐美の問いかけに、柳沼はわざとらしく時計の針を見上げた。深夜一時。修学旅行先で夜の街に繰り出して、いったい何が楽しいことがあるのかは判らない。子供が大人ぶりたいだけか。
「止めとくよ。僕はそういうのに向いてないんだ」
 夜の街に出ればどんな扱いになるかは知っている。どんなに大人ぶって見せたって、柳沼のような子供は大人の女性にからかわれ、食い物にされるだけだ。そんな経験がないわけじゃない。吐き気を催すような経験でしかないが。もちろんそんなものは相手にしなければいいだけだ。でも、わざわざ面倒な思いをしに行くこともない。
「酒でも飲んで、ラーメンを食べるだけだよ」
 特別なことをしようなんて考えてない、と宇佐美は首を振った。
 毎日の習慣なんだとでも言うようだ。その口ぶりは確かに、修学旅行だからと浮かれているようでもない。
「お金ならあげるよ」
 黙りこんだ柳沼に、宇佐美はにこやかに言って牛革の財布を取り出した。
 金をちらつかせて人を同行させようなんて、あまり気分のいいものじゃない。他の同級生と比べて宇佐美はそんなに家柄が良い方ではないと思っていたが、小金持ちの方が財力に頼るものだろうか。今まで、宇佐美はそんな人間じゃないと思っていた柳沼は驚いた。
「金? 君が稼いだものでもないだろう、大事に取っておきなよ。ご両親にお土産でも買って帰ったら」
 呆れた。
 柳沼は宇佐美を少なからず買いかぶっていたような気がして、小さく笑うと首を振った。
「そんなこと出来ないよ」
 その時、宇佐美の笑い声が漏れて、柳沼は思わず視線を上げた。
 宇佐美が笑っている。いつもと変わらない好青年を絵に描いたような笑顔だ。
 だけどどこか、違和感を覚えた。
「こう見えて、けっこう親思いなんだから」
 宇佐美は掲げた財布を二度ほど揺らした後で、そのやたらと膨れた財布をポケットにねじ込んだ。
 宇佐美の笑顔が、柳沼の胸を妙に騒がせる。背筋が寒くなるような笑顔だった。
「このお金は、田辺くんに貰ったんだよ」
 宇佐美が双眸を細めた。
 田辺は、宇佐美にとって仲の良いクラスメイトの名だ。
 当時柳沼は宇佐美と一緒に行動することを避けていたし、宇佐美も田辺と一緒にいることが多かった。しかし、田辺がどんな風にしていたかは思い出せない。宇佐美と一緒にいて楽しそうにしていたのか、怯えた風だったのか。
 恐らくクラスの誰も、学校の誰も気付いていない。
 宇佐美は成績の良い好青年で、快活で誰とでも親しめる人畜無害な生徒だ。
 誰も田辺が、宇佐美に金を巻き上げられてるなんて思ってないはずだ。
「盗んだわけじゃないよ、田辺くんがくれたんだ」
 言葉を失った柳沼に念を押すように、宇佐美は言った。
 それが宇佐美の、裏の顔だった。