荒野の野良犬(7)
母親は、柳沼が小学五年生の時に家を出て行った。
ある朝目が覚めたら、母親はいなかった。
最後に残された朝食を一人で食べて、前日と同じように小学校へ行った。
帰宅したら母親は、帰ってきているのじゃないかと思った。何事もなかったかのように、いつものように優しく微笑んで柳沼を迎えてくれるだろうと。
柳沼は大金を積んで通わされていた名門校から電車で帰る途中も気持ちが急くようだった。足踏みをしながら電車の扉が開くのを待って、走って走って帰宅した家に、やはり母親はいなかった。
日が暮れても夜になっても、母親は帰ってこなかった。
数日と待たずに、父親が苛立った様子で帰ってくると引越しをするから荷物をまとめなさいとだけ言った。
数ヶ月ぶりに聞いた父親の声だった。
相変わらず父は疲れたような顔をして、常に仕事用の携帯電話から手を離そうとしない。小さい柳沼の顔を一瞥するだけで、母親のことは何も口にしなかった。
嫌だ。
その一言が当時の柳沼には言い出すことができなかった。
どうして引越しをしなければいけないのか判らない。母親が帰ってこない理由も判らない。ここ以外のどこへも行きたくない。
ここから離れたくない。
今まで通りでいたい。
柳沼がそう言い縋りたくても、父親はもう柳沼を見下ろそうともしなかった。
気付くと、吹き抜けの上方にある天窓から朝日が差していた。
どうやら昨晩、あのまま玄関先で眠ってしまっていたらしい。アルコールが入っていたせいか。柳沼は皺になった制服を見下ろして、強張った首の筋肉を解すように肩をまわした。
長い髪が印象的で、いつも微笑んでいた母親が間男と駆け落ちをしたのだと知ったのはこの一軒家へ越してくる直前のことだった。
それきり顔を見せなかった父親の代わりに家の中へ大勢入ってくる引越し業者と接していたくなくて、柳沼が表に出ると自然と近所の嘲笑が聞こえてきた。
都内の高層マンションと言えど、ゴシップは不思議と広まるものなのだろう。夜景を見下ろせる高層階に住んでいるお偉方の醜聞ならなおさらだ。
母親を日向のように暖かくて優しい女性だと思っていたのは、どうやら柳沼と、せいぜい父親だけだったようだ。
他の人間はみんな知っていた。
柳沼が学校に行っている間、一人ならず何人もの男が柳沼と母親の家に出入りしていたことを。父親が毎月大量に振り込んでくれる金を母親がどんな風に使っていたのかも。
柳沼は知らない、母の裏の顔だった。
他の人間は知っていて、黙っていた。
柳沼とエレベーターの中で一緒になれば挨拶をする下の階の主婦だっていたのに、誰も何も言わなかった。母親がいなくなった途端、柳沼に隠れて笑っている。
出入りする引越し業者を指しては、肩を震わせて笑っている。帰宅しない父親のことを、何も言い出せない柳沼の事を。
柳沼が郊外に越すことを知った学校側にも噂はそれとなく伝わって、柳沼は登校しなくなった。
どうせ新しい学校に移るのだから、行く必要はない。
もうあの小学校へは戻れないのだから、あのまま通っていればエスカレーター式に上がっていける中学校にも通えないのだから。
柳沼はどこへも行けずに部屋の隅で膝を抱えて唇を噛み締めていた。
今日は休む、と宇佐美にだけ連絡をすると柳沼は制服を脱いでシャワーを浴びた。
さすがに翌日にまで酒の匂いが残るほど飲んだわけではないが、内藤の店で浴びた煙草の匂いが髪にこびりついている。
久しぶりに昔の夢を見たような気がする。
とは言え、妄信的に母親を信じていた頃の記憶はたいがいいい加減なもので、それだけ母親が人目を憚らずに不倫行為を重ねていたのなら柳沼だって男の顔の一つや二つは見ていたかもしれないのだ。
しかし柳沼の意識にはない。子供の時分には母親が不貞を重ねることなど思いつきもしなかった。どうして自分が父親に愛されないのかなんて考えようとも思わなかった。
第二次性徴が始まる年頃に全てを知った瞬間から、柳沼は女性を嫌悪するようになった。
気弱そうな女性教師も、笑顔が絶えないクラスメイトも、ツバメもだ。
彼女たち自身に問題があるわけじゃない。ただ、愛せるようになる理由が見つからなかった。だからといって男性を愛せるわけでもない。
人には表の顔と裏の顔がある。
それを知らずに済ませることなどできない。知ったからといって安心できるわけじゃない。柳沼はただ傍観者でいたかった。誰とも近付きたくなかった。
ワイシャツをランドリー用の籠に放り投げて部屋着に着替え、自室に入るとベッドに突っ伏した。
体が重い。
自然と瞼を閉じると、昨晩の小野塚の表情が浮かんだ。
安穏とした中学校生活を送った後、柳沼は再び都内の進学校を目指した。元いた名門校に戻る気はなかったが、同程度のレベルの高校へ入ることは容易かった。父親は何も言わずに金を出してくれた。
父親が何を思って柳沼を養育してくれているのかは知らない。父親にしてみれば柳沼だって母親と同じ、父親の稼いでくる莫大な金を利用してるだけに過ぎないのかもしれない。
しかし父親が何も言わない限りは大学まで進学させてもらって、そこからは独り立ちしようと考えていた。それがどんな進路になるのかはまだ考えていない。
かつては、小野塚と同じ道を辿るのだと思っていた頃もあった。
小野塚の父親を尊敬していたし、憧れていたし、何よりも小野塚と一緒にいたかった。
本当は、あのままあのマンションから同じ小学校に通っていたかった。小野塚と一緒に、同じ中学にも高校にも通いたかった。
柳沼が小学校に登校しなくなってから二日目、小野塚は柳沼のマンションへ様子を見に来た。小野塚だけが来てくれた。
しかし柳沼は顔を出さなかった。
もう一緒にはいられない。同じ中学には上がれない。
何より、母親のことで小野塚にまで笑われることが嫌だった。小野塚にも裏の顔があるのだと思うことが、怖かった。
あの頃から小野塚は少しも変わらない。数年毎に街中で遭遇するたびに小野塚はまるで小学校の時と変わらない様子で声をかけてくる。あの時、柳沼を心配して訪ねてきてくれた小野塚に顔を見せもしなかった柳沼を責めるようなこともしない。
小野塚だって知っているはずなのに。柳沼が越した理由を。
知った上で、母親に頼まれただなんて言うのか。
柳沼はシーツに顔を埋めると瞼を思い切り強く瞑って、無理やり眠りに就いた。