荒野の野良犬(6)

 宇佐美が五時の時報を待って地下室を出てからたっぷり四時間、内藤の酒宴に付き合わされて柳沼はようやく帰路についた。
 足音が覚束ない。気分が悪い。
 酒のせいじゃない。宇佐美がいなくなってからというもの、柳沼の傍らにずっとツバメがついて、一時も離れることなくべたべたと甘えてきたせいだ。
 ツバメに離れて欲しくて飲み物のお代わりを頼みすぎた。
 最寄り駅のホームを出てから、柳沼は制服のネクタイを緩めようかどうしようか暫く悩みながら歩いた。
 ツバメの媚びるように触れる掌の感触を思い出す。ツバメは甘えているだけで、別に性的な意図なんてないんだということは判っている。判っているつもりだ。
 柳沼がツバメに何の下心も抱かないからツバメが余計に柳沼を気に入っていることも知っている。悪循環だ。
 柳沼はツバメを邪険に振り払うこともできずに、柳沼は内藤の話に夢中になっている振りをしていた。
 そのせいかどうかは知らないが内藤は終始ご機嫌で、後ろ盾についてくれたという松佳一家の話をしてくれた。
「堂上会って言えば関東じゃあ一番の暴力団だし、中でも松佳一家が直参のトップだって話だ。そこの若頭がじきじきに俺に話をつけてきたんだ、すげえだろう」
 内藤の黒い肌は、酒が入るとグロテスクなまでの色になった。肝臓を悪くしているのかもしれない。
 柳沼は直参がなんなのか、内藤の誇らしげな自慢話がどれほど凄いことなのか判らないが適当に肯いた。
 隣ではツバメが柳沼の手を握って、顔を伏せるようにして膝を抱えていた。薄いワンピースの裾が捲れ上がりそうになっている。
「まあ多少は上納金を入れなきゃないらないそうだが、安いもんだ。それで箔ってのが買えるならな。第一、松佳一家がついてるとなれば今よりもっと商売がしやすくなる。結果的にはもっと儲かるんだよ」
 浴びるようにグラスを呷った内藤は、柳沼が聞いていても聞いていなくても関係ないようだった。こうなってしまってはただの独り言だ。
 内藤が得た――と思っているもの――が結局のところ何なのか、柳沼にははかりかねた。
 内藤は金儲けがしたくて暴力団の威を借りたがっているのか、それとももっとファジーな問題で、その「箔」とやらが欲しいだけなのか。
 繁華街で派手に立ち回るためには暴力団とのパイプがなければ危険なのかもしれないが、その分警察の視界に入りやすくなる。
 明確な意図がないまま暴力団の傘下に入ることを、柳沼は賛同しかねた。
 しかしそれを指摘してやろうと思うほど、内藤に思い入れが深くない。
 柳沼は氷が解けて薄くなったウイスキーの表面を舐めながら、小さく息を吐いた。
 隣のツバメは微動だにしない。眠ってしまったのかもしれない。

 宇佐美と内藤がどこでどうして知り合ったのか、柳沼は知らない。興味もない。ただ、宇佐美から内藤に近付いたのだろうということは、二人の関係から何となく察することができた。
 と言っても、宇佐美が内藤を気に入っていると感じる要素は何一つなかった。
 内藤は街中にありふれた小悪党といった感じで、言動も見た目も行動も、どれ一つとして柳沼の予想を裏切ることがなかった。
 小さくまとまっていて、子供染みた反抗心の塊のような男だ。
 しかし、悪い男ではない。
 情に厚いし、気前は良いし、屈託がない。何より、宇佐美と柳沼を買ってくれている。
 宇佐美が内藤を利用したいのだろうということは、柳沼が確認するまでもなく知れたことだった。
 しかし宇佐美の目的は判らない。内藤を「何に」利用したいのか知らない。
 そんなことを尋ねるのは野暮だと思えば、到底訊けるようなことでもなかった。もし柳沼がそんなことを尋ねたら、宇佐美は笑顔を微塵も崩さずに、こう言うだろう。
 ――柳沼だって、同じだろう? と。
 
 そうだ。柳沼だって、宇佐美を利用しているだけに過ぎない。

 
 吐く息が熱い。
 酒の匂いがするだろうか。
 宇佐美も予備校に行くなどと言っておきながらたっぷりテキーラまで飲まされていたが、匂いはどうしたのだろう。
 宇佐美が予備校に行くといっていたことは嘘だとは思えない。内藤の吉報に目を輝かせていたのは柳沼よりも宇佐美の方だったのだ。
 暴力団と繋がることが宇佐美にとって望みの一端だったのだろうか。判らない。
 物事には必ず表と裏がある。
 安穏とした進学校での暮らしの裏側では何が行われているのか、柳沼は純粋に知りたいと思っていた。
 かくしてそれは、宇佐美の後をついて歩くことで多少は知れたような気がしている。
 教師やマスコミや世論が眉を潜めるようなことは現実にそこに存在している。そこへ足を踏み入れようとは思わないが、傍で観察はできるような気がする。
 柳沼が願えば、ツバメはその傷だらけの腕の表面を撫でさせてくれるだろう。だけどその傷をもう一本増やしてあげようと刃を持つことはしない。柳沼は傍観者でいい。そう思っていた。
 夕飯時を過ぎて、辺りの家々からは石鹸の香りと湯気が漂っていた。中には、楽しげに笑いあう声が狭い浴室に反響して外まで漏れ聞こえている家もある。
 東京郊外の土地を切り崩して設けられた住宅街には、小金を持った家庭が集まってステロタイプの外車を並べ、門の大きさで年収を誇示している。
 庭には専業主婦の母親が手間隙をかけた草花が揺れ、家の中から犬の鳴き声も聞こえる。
 どの家の窓からも暖かな光が漏れている。
 柳沼は整然と舗装された道路の上を、できるだけその清潔な光に当たらないように蛇行して歩きながら家路を急いだ。
 住宅街のほぼ中央に、柳沼の家はある。
 柳沼がこの街に引っ越してきた時、デザイナーに設計させたこの三階建ての家はこれから越してくる住民たちにとって一種の憧れのように言われた。
 しかし柳沼にとってはこんな郊外に越してくること自体が不服で、みっともないことでしかなかった。高層マンションの一室で良いから、都内に残っていたかった。たとえ電車で数分の距離でも、柳沼にとっては大きく環境を変えられたのだ。
 一時はこの高級住宅街の象徴とも言われた家は、実際生活を始めてみればどの家よりもみすぼらしいものだった。
 柳沼が帰るまでどの窓にも灯りがついていない姿はまるで廃墟のようだし、庭だって月に一回業者が刈り込んでいくだけだ。
 都内でなら珍しくもないその無機質さが、この住宅街では悪目立ちして見える。大きな駐車場を構えてはいるものの、そこに停めるべきクーペは、もう二週間も姿を見せていない。柳沼一人が潜るためだけには大袈裟すぎる門扉の前に、人影が佇んでいた。
 一瞬、怯んだ。
 いつから立っていたのかは知らないが、いつになれば帰って来るとも知れない柳沼を待っていたにしては疲れた素振りを全く見せない立ち姿。
 表情までは見えないが、きっと目を凝らせばいつもと変わらない面持ちでいるのだろうことが、予感できた。
「、――……」
 思わず足を止めた柳沼の姿を、人影が振り向く。
 頭上に気安く手を掲げた。
「伶」
 案の定、小野塚は笑っていた。
 隣近所の家とは違う、暗いだけの柳沼の家の前に明かりを灯すように笑う。
 進むことを躊躇した柳沼とは反対に、門の前を離れて歩み寄ってきた。柳沼は、後退するのを踏み止まるので精一杯だった。
「――何の用」
 一日に二度も小野塚に遭遇するなんて、今日は厄日だ。
 夕方に遭遇してしまったのは不可抗力だとしても、小野塚のことだ、あんな別れ方をすればしつこく食い下がってくることくらい予想できた。今日は帰宅するべきじゃなかったのだ。失敗した。
 気安い笑顔で歩み寄ってきた小野塚の脇をすり抜けるようにして家へ急いだ柳沼の背中を、小野塚が追ってくる。
「伶、お酒飲んでる?」
 柳沼はポケットからカードキーを取り出すついでに腕時計で時間を確かめた。もう十時近い。小野塚も予備校帰りだろうか。
「飲んでるよ」
 ウイスキーを三杯と、カクテルを二杯。
 そこまで報告する義務はない。柳沼が背後の小野塚を無視して門を開いた時、肩を掴まれた。
「伶」
 強い力だった。
 驚いて振り返ると、思ったよりも間近に小野塚の顔があった。
 暢気な笑顔はなりを潜めて、眉間を緊張させている。左右に広い唇を真一文字に結んで、真っ直ぐ柳沼を見下ろしていた。
 正義感を絵に描いたような男だ。まるで掴まれた肩から、清水を流し込まれるようで気味が悪い。
 でも、ツバメに触れられているよりはずっとマシだ。
「……悪いことしてるんじゃないの」
 潜められた声で紡がれた真剣な問いかけに、柳沼は一瞬、目を瞠った。
 悪いこと。
 胸中で復唱する。
「悪いことって?」
 肩を掴んでいる小野塚の手を振り払って、向き直る。小野塚はますます眉根を寄せて、宙に浮いた掌に拳を握った。
「お酒を飲んだり――それに、今日入っていったあそこ、どんな店なの」
「関係ないだろ」
 まったく今日は厄日だ。
 教師に問い詰められるだけならまだしも、小野塚にまで煩く言われるなんて。
 柳沼は顎先を上げて、自分より背の高い小野塚を見下すように見遣ると唇を笑ませた。
「酒を飲むことくらい、何てことないよ。学校に知れたって、良い成績を残していれば見逃してくれるしね。社会はそういう風にできてるんだよ。……お前だってよく知ってるくせに」
 世の中の表裏は、本当は曖昧なものだ。
 小野塚の父親は先生と呼ばれる有名な代議員だが、それを正義の人だと見ているのは息子くらいのものだ。世の中の人間から見れば、汚職に塗れた他の代議士と判別もつかない。
 その人がどんな人間かなんて、見る人間によっていくらでも印象は変わる。
 宇佐美の笑顔のように、柳沼の素行のように。
「だけど……!」
 小野塚が眉を顰めて言い募った時、背後を車が通っていった。ヘッドライドに照らされた小野塚の表情は真剣で、迷いがない。
 小野塚にだってきっと、裏の顔はあるはずだ。
 柳沼はそれを知らないけど、知る気もない。
「僕がどんな人と関わっていようと、関係ないはずだよ」
 そう言いながら、柳沼は小野塚の表情から眼を逸らせないでいた。
 小野塚は柳沼を心配しているのか。
 教師たちのように柳沼の進路が自分の得になるわけでもないし、もう四年間も会っていなかったっていうのに、夕方のことを気にして予備校の後、わざわざ柳沼の家に訪ねてくるほどには。
 心配されるようなことは何一つない。
 適当に安心させるようなことを言って穏便に追い返せば済むことなんだろう。
 柳沼はカードキーを握った手に力を篭めた。
「――でも、伶」
 小野塚が一度唇を結びなおして、絞り出すような声を洩らす。
 もう一度、その手が柳沼の肩を掴んだ。
「俺は伶の面倒を見るようにおばさんに言われているから」
「!」
 瞬間、柳沼は小野塚の手を払い落としていた。
 体中の血が、頭に上がっていくような気がする。
 唇が震えて、呼吸が乱れる。息を吸っても吸っても、足りない気がする。
「伶」
 目の前が霞む。
 大丈夫、と間の抜けた声を上げた小野塚がもう一度柳沼に手を指し伸ばしてきた。闇雲にそれを、振り払う。
「――……ッ、もうお守りなんて、頼んでないよ」
 怒鳴ったつもりが、掠れた声にしかならなかった。
 言葉をなくした小野塚に背を向けて、逃げるように門を開く。庭を駆けて、震える手で玄関の施錠を切ると、柳沼は暗く冷め切った家の中へ飛び込んだ。
「はァっ、――……はッ、っは……」
 酸素を吸いすぎてしまわないように、唇の前を掌で覆った。
 そのまま、玄関扉に縋るようにしてしゃがみこむ。
 全身がじっとりと汗ばんでいるのに、小野塚に掴まれた肩がやけに冷たい気がして、柳沼は自分の肩を抱いた。